政治に関わる、政治家、マス・メディアの方、その他ジャーナリスト、出版関係の方、ブロガーの方、市井の皆さんとともに、昨今大変な誤解がまかり通っている「政治の言葉」を救いだし、丁寧にその誤解をといて行こうと思います。政権交代と震災と原発事故と再政権交代と秘密保護・・・そして憲法規範がないがしろにされつつあります。なるべく他者を罵らず静かに政治を語り、記録したいものです。 そして、こんな時代に大学生になってしまった諸君。諸君も大変だが私も大変なのよ。でも世間と違ってキャンパス内は治外法権だから失敗しても問題なし。失敗から学び、「自分の頭でものを考えられる人間」になるため、一緒に頑張りましょう。
2015年6月25日木曜日
「大異も中異も小異も捨てて大同団結する」理由について
言わずもがなであるが、「戦争は嫌だ!殺したくないし、殺されたくない!」というメッセージと、「やはり何度も考えたが集団的自衛権を日本国憲法の枠内で正当化する論理には無理があると思う」の間には、ものすごくたくさんの問題群や問題の次元の差異や、その他様々なものが横たわっており、その広大なゾーンにあるひとつひとつの問題とそれへの基本的態度は、さほど単純なものではない。
つまり、若者が国家の周りを取り囲み「戦争法案をつぶせ!」と声をからしている主張の内容となれば、「その前に戦争が道徳的な悪なのか、それとも外交手段の延長上にあるのかの議論は必要ではないか?」という気持ちもある。
この法案が通れば、教室で教えている学生たちの多くが即徴兵されることになろうとは確実には言えない。
国際社会が、独立国家の当然の権利として(自然権として)正当防衛的な武力を当然視している中で、専守防衛の軍隊を民主的統制の優れた制度のもとで保持することを、さほどのデタラメとも思わない。平和を原理的に考える次元と、他国との関係を外交的に考える次元はおのずと異なるからだ。
しかし、今猛然とした批判にさらされている政府は、
・世界基準の制度整備が欠けている酷く恣意運用を許す特定秘密保護法を強引に通し、
・永遠に非正規社員から抜け出せない不安を促進させる労働法の改正を完全に雇用者側(経団連!人材派遣会社!)の意を汲んで押し通し、
・教育にひたすら市場原理を持ち込もうとする財界の思惑そのままのデタラメな改革を目論み、
・財政再建などお構いなく株価を上げて企業の内部留保を増やすことで政権の延命だけを目的とするインチキ経済政策を断行し、
・何よりも、言論の府である議会における政治の言葉を腐食・退行させる知的荒廃になんの憂慮も持たない。
そうなると、「戦争は道徳的に許されません!」という主張には100%は賛同できなくても、「この法案はダメでも、改憲すればそれでいいのかという議論からは逃げられない」という気持ちがあっても、つまりその政治的メッセージの大雑把さに部分的に鼻白むことがあっても、「この政治集団だけにはフリーハンドを与えてはならない」という政治的目標が優先される。
長々書いたことをまとめる。
単純ナイーブ(素朴)な政治的掛け声を「政治判断において」支持するが、それは「大異も中異も小異も捨てて大同団結」するという意味であって、本当は個別の問題をきちんと議論したいのだ。集団的自衛権と集団安全保障を区別しないと、国際法や憲法学の専門家とは話ができないし、最高裁が言う「統治行為論」の持つ「政治的機能」についても考慮に入れなければならない。
だが、この夏、市井を生きる賢明なる市民すべてと、それを全部やっている暇がない。やれる者たちとはやりたい。しかし、議会の延長期間が終わりに迫れば、もはや「政治的決断」を優先するしかない。それがどれだけ微力であろうとだ。
だからSNSでは、今の総理大臣を退陣させるためならどんなことでも(紳士的に)やる。ラジオにも出て、(品のある一部の局なら)TVにも出て警鐘を鳴らす。
でもそれは小生の「政治判断」である。思想的判断ではない。
これが小生の基本のスタンスである。
安保法制に賛成する者たち、反対する者たち、両方に向けて伝えたい。
2015年6月24日水曜日
沖縄戦70年に思う
6月23日は、沖縄での第三十二軍の組織的闘いが終わった日である。
すでに70年を経た。
牛島満と長勇が勝手に腹を切った日だ。 小禄の海軍基地の地下壕で大田実中将が最後に残した打電文に、我々ヤマトンチュはどうこたえて来たのか?
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
自分は、大田中将が自決した海軍地下壕を五回訪れた。そして、その地下壕で大田が何を想ったかを何度も考えた。 首里城の32軍守備隊が敗北した時、「住民は首里城に参集し、皇軍は南下して最後まで闘うべし」と命令すれば、住民の10万人が死なずに済んだと言われている。
今日の安保法制議論に不可避的に影を投げかけるのは、この時の「軍隊は軍隊を守るのであって市民を守らない」という歴史的教訓である。これは一般論ではない。「あの」皇軍は住民よりも皇軍が生きながらえることを当然の論理として選択したという「歴史的経験」論である。文藝春秋による「安全保障の常識」には書いていない項目だ。
これがどれだけ戦後70年の安全保障論議の枠付けをしてしまったかを考えねばならない。どうして我々は集団的自衛権を前にしてどうしても一度立ち止まるのか? それは軍人よりも市民が沢山死んだという事実の重さがあるからだ。軍がどうしてさほど整然と国民を守るものだと前提にできるのか?
もう一度言う。
集団的自衛権を行使することの是非は、そういう歴史的コンテクストを無視して議論できないのだ。一般論で戦争や国防は語れない。集団だから単独より楽だとか、そう言う話ではない。 沖縄は、そういう過酷な経験と、そこに連なる戦後の苦難を経て、「アメリカに主権を奪われている状態(日米地位協定)を前提にものを考えることは止めた」という宣言とともに、オール沖縄というフロントラインを自生的に生み出したのだ。ヤマトンチュができないことを、苦悩から生み出したのだ。
これは「沖縄の負担は、日本がアメリカを守る義務を免除された代わりに払う代償である」というロジックでは、永遠に理解できないフロントラインである。いったい誰が愛国者なのか?
我々は、「カクタタカエリ」とされた沖縄県民の後世に格別の御高配をかけてきたのか?御高配ではなく、なおも積み重なる借財を放置してきたのではないのか? 今年もまた6月23日である。申し訳ない。本当に申し訳ない。 我々は、まだ借財を返済していない。
行政府の長は、今日、摩文仁の丘のそばでいったい何にコウベを垂れたのだろうか? まさか牛島満という英霊ではあるまい。
冗談は、6月23日に言ってはならない。
牛島満と長勇が勝手に腹を切った日だ。 小禄の海軍基地の地下壕で大田実中将が最後に残した打電文に、我々ヤマトンチュはどうこたえて来たのか?
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
自分は、大田中将が自決した海軍地下壕を五回訪れた。そして、その地下壕で大田が何を想ったかを何度も考えた。 首里城の32軍守備隊が敗北した時、「住民は首里城に参集し、皇軍は南下して最後まで闘うべし」と命令すれば、住民の10万人が死なずに済んだと言われている。
今日の安保法制議論に不可避的に影を投げかけるのは、この時の「軍隊は軍隊を守るのであって市民を守らない」という歴史的教訓である。これは一般論ではない。「あの」皇軍は住民よりも皇軍が生きながらえることを当然の論理として選択したという「歴史的経験」論である。文藝春秋による「安全保障の常識」には書いていない項目だ。
これがどれだけ戦後70年の安全保障論議の枠付けをしてしまったかを考えねばならない。どうして我々は集団的自衛権を前にしてどうしても一度立ち止まるのか? それは軍人よりも市民が沢山死んだという事実の重さがあるからだ。軍がどうしてさほど整然と国民を守るものだと前提にできるのか?
もう一度言う。
集団的自衛権を行使することの是非は、そういう歴史的コンテクストを無視して議論できないのだ。一般論で戦争や国防は語れない。集団だから単独より楽だとか、そう言う話ではない。 沖縄は、そういう過酷な経験と、そこに連なる戦後の苦難を経て、「アメリカに主権を奪われている状態(日米地位協定)を前提にものを考えることは止めた」という宣言とともに、オール沖縄というフロントラインを自生的に生み出したのだ。ヤマトンチュができないことを、苦悩から生み出したのだ。
これは「沖縄の負担は、日本がアメリカを守る義務を免除された代わりに払う代償である」というロジックでは、永遠に理解できないフロントラインである。いったい誰が愛国者なのか?
我々は、「カクタタカエリ」とされた沖縄県民の後世に格別の御高配をかけてきたのか?御高配ではなく、なおも積み重なる借財を放置してきたのではないのか? 今年もまた6月23日である。申し訳ない。本当に申し訳ない。 我々は、まだ借財を返済していない。
行政府の長は、今日、摩文仁の丘のそばでいったい何にコウベを垂れたのだろうか? まさか牛島満という英霊ではあるまい。
冗談は、6月23日に言ってはならない。
2015年6月2日火曜日
2015年5月26日火曜日
無知より恐ろしい知的不誠実さ
【無知より恐ろしい知的不誠実について】 驚くべき不勉強ぶりを垂れ流す総理大臣だが、それよりももっとこの社会にとって害悪なのは、並外れた「知識のなさ」ではなく、信じ難いほどの「知的不誠実さ」である。 物を知らないこと自体には罪はないし...
Posted by 岡田 憲治 on 2015年5月25日
2015年5月14日木曜日
テレビ局は開局以来権力と闘ったことなど一度もない
日本のテレビ局は、開局以来ただの一度も権力と闘ったことなどない。放送事業の免許制によって総務省に、そして記者クラブにおいて飼いならされているテレビは弾圧されたのか?「言論弾圧だ!」と騒ぐことで、「闘ったことなど一度もないテレビ」にあた...
Posted by 岡田 憲治 on 2015年5月13日
2015年4月26日日曜日
「公」(おおやけ)は「国家」とイコールではありません
【公(おおやけ)の意味をすり合わせないから隣人を友人と気がつかないことになるのです】
人々が共同で大切にしたいと思うものは、大雑把な言葉を使っていてはなかなか発見できません。他者を重んじ、家族を愛し、地域に根ざし、ある種の共同性なしに自分の人生は立ち行かないと考えるなら、そしてその気持ちを共有しているなら、「公」(おおやけ)というものを漠然と「国家」という言葉に吸収させてしまうことは、非常にもったいないことです。なぜなら、我々にはともに守りたいと思うものがたくさんあるのに、この国家というビッグワードによって、それを協力しながら守ろうという気持ちが削がれてしまうからです。
国家という言葉の非常に困った側面です。
以下、私が考える公(おおやけ)の意味を示し、そう考える理由を書きます。
「公」というのは、実体として存在する組織ではなく、だから「国家」などというものには回収されません(そもそも、B・アンダーソンは国家を「共同幻想」としています。国家は「国家・政府機構」だけでなく「そういう大きな括りに守られているんだなと思いたい気持ち」にも支えられているという意味です)。オオヤケとは、様々な個人的世界解釈が出合ったり、ぶつかったり、変わったりすることで、そうした人々の言葉の持つはっとさせられる隠れた力や、思いのほか説得力のない大声や、人々の沈黙の傍らに浮遊する思いなどを発見し、そしてそれら「評価する場所」のことです。
そしてそのためには、その場に行き交う人々の言葉を受け止め、かつ「過去の人々」である亡くなった諸先輩たちや、これから生まれるであろう者たちの間ですら合意をつくれるような、連帯的で歴史的な意志形成を信じようとする場所のことです。ですから、この場合のオオヤケは「過去と現在と未来を互いに結びつけるための公開性」という意味です。
オオヤケをひたすら「国家」としてしまうと、非常に大切なことが見失われてしまいます。民主政治の下では「人々の声を集約することで人為的に地理的に一定範囲の国家意志を形成する」のですが、ことにどうしても付随してしまう、ある「危うい現象」への警戒心が下がってしまいます。それは「国家意志が政治家や官僚を通じて、人々から自立・独立しようとする生理」のことです。
国家は「人々によって意志を与えられ、それが民主的に選ばれた主権となるのだから、国家がオオヤケであるとして何がおかしいのか?」と法律論を根拠に反論されます。法制度の観点からはそういわざるを得ません。しかし、国家は「機構」であり「組織」であり、「意志を政策化するための交換装置」ですから、もしそうした装置が固有の「意志」を持ち始めたら、それは人々の気持ちや意志とは疎遠なものとなってしまう可能性を常に抱えています。つまり、そこに「注意せよ」という札をはっておかないと国家意志を相対化させるための契機が失われてしまうのです。
「国家の意志は人々が注入したものだが、それが常に人々の考えと一致し続ける保証はない」というのが「法制度」ではなく、「政治的に」デモクラシーを考える大前提ですから、その意味でオオヤケには「常にああだこうだと人々が自由に言葉で行き交える場とチャンス」という役割が求められます。そしてそれを根本から支える原理が「公開性」です。
これは、私が公を定義する際の最大の理由です。
ここに照らして、この「公開性」を毀損するもの、阻むもの、障害となるもの、台無しにするもの、言葉、運動、政治が立ち現れたとき、私はこの公開性を取り戻すために言論活動を随時展開します。
私は、昨今の小林よりのりと政治的に連帯したいと考えますが、ここをきちんと詰めれば、沢山の友人のひとりとなるかもしれません。
『新戦争論1』を読んで見ようと思います。
人々が共同で大切にしたいと思うものは、大雑把な言葉を使っていてはなかなか発見できません。他者を重んじ、家族を愛し、地域に根ざし、ある種の共同性なしに自分の人生は立ち行かないと考えるなら、そしてその気持ちを共有しているなら、「公」(おおやけ)というものを漠然と「国家」という言葉に吸収させてしまうことは、非常にもったいないことです。なぜなら、我々にはともに守りたいと思うものがたくさんあるのに、この国家というビッグワードによって、それを協力しながら守ろうという気持ちが削がれてしまうからです。
国家という言葉の非常に困った側面です。
以下、私が考える公(おおやけ)の意味を示し、そう考える理由を書きます。
「公」というのは、実体として存在する組織ではなく、だから「国家」などというものには回収されません(そもそも、B・アンダーソンは国家を「共同幻想」としています。国家は「国家・政府機構」だけでなく「そういう大きな括りに守られているんだなと思いたい気持ち」にも支えられているという意味です)。オオヤケとは、様々な個人的世界解釈が出合ったり、ぶつかったり、変わったりすることで、そうした人々の言葉の持つはっとさせられる隠れた力や、思いのほか説得力のない大声や、人々の沈黙の傍らに浮遊する思いなどを発見し、そしてそれら「評価する場所」のことです。
そしてそのためには、その場に行き交う人々の言葉を受け止め、かつ「過去の人々」である亡くなった諸先輩たちや、これから生まれるであろう者たちの間ですら合意をつくれるような、連帯的で歴史的な意志形成を信じようとする場所のことです。ですから、この場合のオオヤケは「過去と現在と未来を互いに結びつけるための公開性」という意味です。
オオヤケをひたすら「国家」としてしまうと、非常に大切なことが見失われてしまいます。民主政治の下では「人々の声を集約することで人為的に地理的に一定範囲の国家意志を形成する」のですが、ことにどうしても付随してしまう、ある「危うい現象」への警戒心が下がってしまいます。それは「国家意志が政治家や官僚を通じて、人々から自立・独立しようとする生理」のことです。
国家は「人々によって意志を与えられ、それが民主的に選ばれた主権となるのだから、国家がオオヤケであるとして何がおかしいのか?」と法律論を根拠に反論されます。法制度の観点からはそういわざるを得ません。しかし、国家は「機構」であり「組織」であり、「意志を政策化するための交換装置」ですから、もしそうした装置が固有の「意志」を持ち始めたら、それは人々の気持ちや意志とは疎遠なものとなってしまう可能性を常に抱えています。つまり、そこに「注意せよ」という札をはっておかないと国家意志を相対化させるための契機が失われてしまうのです。
「国家の意志は人々が注入したものだが、それが常に人々の考えと一致し続ける保証はない」というのが「法制度」ではなく、「政治的に」デモクラシーを考える大前提ですから、その意味でオオヤケには「常にああだこうだと人々が自由に言葉で行き交える場とチャンス」という役割が求められます。そしてそれを根本から支える原理が「公開性」です。
これは、私が公を定義する際の最大の理由です。
ここに照らして、この「公開性」を毀損するもの、阻むもの、障害となるもの、台無しにするもの、言葉、運動、政治が立ち現れたとき、私はこの公開性を取り戻すために言論活動を随時展開します。
私は、昨今の小林よりのりと政治的に連帯したいと考えますが、ここをきちんと詰めれば、沢山の友人のひとりとなるかもしれません。
『新戦争論1』を読んで見ようと思います。
2015年4月22日水曜日
私が学生にしつこく「映画!映画!」と言う理由:物語を堪能することで飛び越えられるもの
政治権力を行使する者の愚劣と横暴をとがめるべき者が、萎縮して戦わなくなり、かつ当人が「居直る」という最強の作戦が展開された時、我々がやるべきことは思いの外たくさんはないかもしれません。居直らない己の側において、「我々にすり込まれたものの脆弱さを確認して自由を確保する」ことかもしれません。
難しい言い方になっているので、この後「映画を観る理由」という言い方でこれを説明します。
物語を堪能する際に、私たちは必ず登場する者の誰かに自己を重ね合わせます。「きちんとすること」に少々疲れてしまったときは、車寅次郎の台詞「おじさんにないのはお金。たっぷりあるのは時間だよ」に乗っかって、丸の内のエリート・サラリーマン(もはや半分死語か)の冷たい合理主義に嫌悪のまなざしを向け、ほんわかとした気持ちでエンドロールをながめます。
こうした「重ね合わせることの容易さ」は、外国の作品を観た時に実感します。自分自身で驚いたのは、高校生の頃テレビの再放送で『コンバット』を繰り返し観ているうちに、自分の大叔父を戦争で殺したアメリカ軍の兵士であるサンダース軍曹やケリーやリトル・ジョンやカービーに乗っかってしまい、「アメリカーナ!」と叫ぶドイツ兵に対して憎悪の感情を持ったことでした。
クリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』においても、スピルバーグの『太陽の帝国』においても、ぬおっと現れる日本兵の不気味さには恐怖心を覚えます(『太陽の帝国』のガッツ石松は怖かったぁ)。自分と属性を共有する日本兵が異形に見え、気が付くと米英陣営に心理的に寄り添っているのです。
これを「名誉白人意識」と切ってしまうと、この話は終わりです。そうではなくて、自分の帰属する「ナショナルなもの」とは、かように根拠が弱く、いとも簡単にその境界を行き来してしまえるものだということを確認したいのです。「日本国籍の在日日本人」というあり方は、もっと身体の奥に刻み付けられているはずだと多くの人は思います。しかし、日本サイドから描いた『硫黄島』を観た直後に『父たちの星条旗』を観ても、たやすくこれが起こります。硫黄島でゲリラ的に抵抗する日本兵は本当に怖い。そこに自分の縁戚の兵士がいたのかもしれないのにです。
物語を堪能する、物語を享受する際に必ず通るプロセスとしての「誰かに自分を重ねる」というものが持つ、大切な副作用です。
私のFBでの映画レビューは、フォロワーや友人、そして学生に向けて「意図的に(もちろん!)」アップされています。それは、この物語性と現実との位相の交差に直面し、人間の身体性を感受するための多様な刺激と視角を沢山経験することで、そこになんらかの「心身ともにこびりつき、良し悪しともにそろった政治性」というものを突き放す契機を共に見出したいからです。
やはりカタいのので言い直します。
物語を堪能することで、良い意味での「自分は何ものでもない」という境地に至れる。そのために私たちには映画が必要だ・・・ということです。
だから井筒監督の『パッチギ』の持つ物語に乗っかったものは、韓国人も朝鮮人も在日の人々も、みな好きではないと思っていても、気が付くと主人公のアンソンやキョンジャの側に立って、「イムジン河を歌うな!」とわめく京都のラジオ局のおっさんを大友康平がシバくシーンで喝采するはずです(しない人もいます)。
もし、『パッチギ』を観て相変わらず「在日特権許すまじ」とか思っている人がいたら、その人は物語を堪能したのではありません。最初から、政治的慣性に加力する目的でプロパガンダを観たのです。
映画を観ましょう。「この映画は反日だから」という理由で公開作品がフィルタリングされつつある悲惨な国にあって、そこそこの数の物語を堪能できる時間は余り残されていないかもしれませんから。
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