2014年11月21日金曜日



【選挙という政治に向けて:感情と論理の往復】


 政治が、ある種の価値観に依拠して、いずれかの決定を「選択する」という営みである以上、そこには何かを選択する時の動機がある。そして、その動機の中でとりわけ強い起動力を持っているのは、言うまでもなく「感情」だ。「外国人に参政権を与えることに反対する」という判断や決定は、その動機をたどっていけば、「あんな(中国人や韓国人みたいな奴ら)なんかにでかい顔して選挙になんか行かせるなんて絶対に嫌だ!」という感情が機動力になっていることが多い。よく「感情を抜きにして考えよ」という諌めの言葉があるけれど、人間は感情を完全に排除して価値を選択することなどできない。


 だから、ある政党や政治勢力を応援しようと「選択する」際には、そのプロセスには間違いなく「感情レベルのエネルギー」が関わっている。時として火の通っていないレアな言葉で表現される主張に、いささか品のなさを感じて、「そんなのただの感情じゃないか」と批判するのは簡単であるが、それがエネルギーである以上、あるいは政治的判断が「そこから始まる価値選択の旅」だと考えれば、感情があって当然だ。そこを認めないと政治のエネルギー出所を軽くみるという過ちにいたる。

 でも、政治的判断には強い感情がありさえすれば良いという話ではない。問題は、「感情」をほどよく整形して、洗練されたものにしているかである。荒々しい独りよがりな表現を削ぎ落として、友人と共有できるような「話の筋道」にするという作業が、どれだけ繰り返し丁寧になされているかが肝心だろう。つまり「感情と論理の往復運動」だ。

 感情をエネルギーにしていない論理は、他者に訴える言葉のスタミナが乏しく、かつ人間の生活背景に根ざさないから、ただの冷たい合理性だけになりがちだ(「結局、物の値段は需給関係で決まりますから、市場が「電気代は月額平均10万円」と答えを出せば、それを受け入れるしかないでしょ?」等)。それは人々に支持されないだろう。

 しかし、逆に「感情だけ」で価値選択をすると、それはただの「好き嫌い」となる。カレーよりハンバーグの方が好きだという話だ。本人にとって、政治的選択が「別に好き嫌いで良くねぇ?」なら、それを非難する権利は誰にもない。その時は、「キムチ臭ぇ民主党マジカンベン」、「キモい安倍滅べ!」等、最低レベルの物言いが、民主政治の焦土を荒れ狂う。暗黒の一歩手前である。

 でも、もし民主政治の基本を、「最高の選択を夢想するのではなく、最悪の結果を避けるための大人の友人作り」であると考え、今のところそれ以外に、弱く無力な自分たちは社会を維持できないという普通の認識と感覚があれば、我々にはそのための「言葉」が必要となる。「最高の政治家」が地上にいないから政治なんて意味がないと考える者を「こども」と呼ぶからだ。大人は、最高の隣人がいなくても人生は続くとわかっている。
 

 この時、「オレ的にはちょーカレーがヤバい」などという赤ちゃん言葉や、「でも所詮あいつら半島や大陸贔屓のリベサヨでしょ?」などという野卑で無教養な言葉で感情を吐露しても、それは「排泄行為」という個人の営みとして軽蔑を受けるだけである。そして、友人となりうる可能性のあった人々の気持ちを遠ざけてしまうだろう。「嫌いな物は共通してるけど、その言い方が嫌だな」と。

 もし自分は部屋にひきこもるシニシズムでよいと思うなら、この話は無用である。

 しかし、「政治において無力なオレ(アタシ)には友人が必要だな」と思うなら、感情を起動力にしつつ、「友人に届く言葉」(つまり「論理」)をそろえようと立ち止まり、そしてもう一度エネルギーの確認のために感情に立ち帰り、それを繰り返すことによって「自分の好き嫌いと、偏見と、価値選択は何に根ざしているのか」を確認することが、明日につながることになる。

 一年前のブログで、私は「三年などあっという間にやって来る」と書いたが、二年で選択の機会がやって来た。これから選挙が始まる。各々の価値観に基づいて「選択」という名の政治にコミットするシーズンである。我が儘で自由を欲する複数の人間で構成されている社会を生き、それを維持したいと思う以上、「こういう社会を維持したい」と価値判断する「政治へのコミット」は特別な人間がやる特別な行為ではない。肺呼吸と同じである。

 自民党がなんとなく安心な気がしても、強い軍隊の存在が弱い自分の心を支えてくれるような気がしても、とにかく生理的に民主党を蛇蝎のように嫌いでも、維新の会のヤンキー臭が好きでも嫌いでも、共産党に清新さを感じても、同時にその独善性にイライラしても、なんでもよい。つまり、政治の機動力としての「感情」があるならそれは何でもよい。政治のエネルギーの一つだからだ。
 

 ただ、その「感情」がどこに根ざし、どこまでは手放すことができ、どこまで以上は認められないと考え、何を守りたいのかを丁寧に考えた後、そしてそれらを「友人を作るための言葉」へと翻訳できるなら、それを発するための制度がきちんとはたらくことを前提に(メディアの力!)、私たちは民主政治の最低基盤を何とか維持できるのだと思う。

 心が荒むと、自分でも感情が先行するような物言いになりがちである。少々ささくれ立った物言いをして来たこともふり返り、言論人として自戒を込めて、ここにあらためて基本を確認したい。

 民主政治をよしとするならば、大人の友人作りのための言葉を紡ぎ出そう。

 即効性はないかもしれない。しかし、私は即効性のあることを言えないので、自分が大切だと思うことを、多くの人に伝えたい。

                               2014.11.21