2011年5月28日土曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その2「質問や議論の意味が(日本語として)ワカラナイ」

<ワカラナイ②:質問や議論の意味が(日本語として)>
 どうして自分がここにいるのかはわかるけれど、教室に飛び交う日本語の意味がワカラナイというワカラナイ君がいます。この人たちの振る舞いを傍で見て、どうにも理解に苦しむのは、自分にとって新奇なる言葉に直面した時に、学びの場にいる人間の取る精神のカラクリとその作用がほとんど垣間見ることができないことです。「キンダイカのプロセスで、個人各々にナイメンカされるキハンは、これまでのユウキテキなキョウドウタイの中で身に付けたシャカイセイとは異なるものだけど、こうした新しいカンネンとしての個人は、ゴウリテキな経済リンリをイッパンカさせるためにはフカケツなわけです・・・」と、目の前にいるオッサンは言っているわけですが、カタカナで示された言葉がすべて意味不明であるなら、この学生にとって大学は本当に苦痛を生み出すだけの地獄のようなところでしょう。
しかし、この中の三つ、四つ程度のワカラナさ加減なら、通常は「ヤベッ、ナイメンカとケイザイリンリがよくワカンネェし(何気ない振りをして)。電子辞書でチェックでしょう」と思って、「オレって言葉知らねぇなぁ」と焦るか、「おおっ!なんかこう難しい言葉いっぱい出て来たなぁ、何か大学に来たっていうか、俺って今すごい勉強中って感じ?」と、憎めないショウモナサを示してしまうかのいずれかだと思うのです。ところが、21世紀の初頭に大学の教室にいる一部の若者は、このいずれのリアクションも見せてくれません。ただぼんやりと事態の推移を見守るだけなのです。辞書を開こうと肉体を駆使してみようという素振りもありませんし、眉間に皺を寄せて悩んでいる様子もありません。ただただ黙ってボンヤリとしているだけです。まるでスリランカ人がリトアニア人の町長の演説を聴いているような表情です。こういう表情を見続けると、話す側は逆に名付けようもない不安な気持ちに駆られます。「ん?あれ?これって、オレ先週やったところまたやってる?んなことないよ。確かに今日はここからだから・・・。でも変だな?なんだかこちらの言葉が『受け止められている感』が無いぞ?

言葉の意味がワカラナイことも、それ自体は罪でも何でもなくて、元々は自分が使う言葉はすべて人の言葉だったのですから、要はある特定の場において流通している言葉のストックを必要に応じて増やしておけばよいのです。間に合わなければ、走りながら飯を食うように、話し手の言葉を追いかけながら、少し遅れてでも言葉を補充すればよいのです。しかし、今目の前にいる人たちは、自分がいる場で流通している言葉のストックが自分には絶対的に足りないと気付いた後も、それを何とかしようとする主体的なアクションをする様子がありません。「忸怩たる思いです」とこちらは話します。もし「ジクジたる」が「忸怩たる」という本語のことだとワカラナくて、今度誰かが「忸怩たる」と言ったら、その時にまた「?」ととまってしまうようなことになると困るなと思えば、「すんません。ジクジたるってどう意味でしたっけ?ちょっと度忘れしちゃって」と、おちゃらけながら尋ねるか、黙って辞書を引くかのどちらかです。これ以外の振る舞いは、少なくとも学校で生きている私たちには想像もできません。
しかし、19歳達はなんと「何もしない」のです。どうして何もしないでいられるのかが、こちらには全くわかりません。え?いいの?ジクジタルがワカラナカったんでしょう?そのままでは、この言葉を自分が使うことも、人が使った意図も両方ワカラナイままだよね?いいの?それで。今は、話が先に進んじゃうからじっくり調べている余裕がないけど、ノートの端っこの所に「ジクジタル」ってメモしておいて、講義が終わったら調べられるようにしておくよね?普通は。え?やらないの?放置?そんな言葉は今後永久に使わないだって?いやいや、君が使わなくたって、他者(ひと)が使ったらどうするの?え?そんな言葉使う奴はウザい?そうすると学校出た後は(出られればだけど)、ほとんどの人がウザい人っていうことになるけど。
とにかく、調べてみて、自分で使ってみて、「忸怩たる想い」と「恥ずかしい」という言葉との語感の違いに気づいてみて、ついでにさ、また別の言葉、例えば「慙愧に堪えない」なんていうのも覚えて、一気に何千も使う言葉は増えないけど、朝刊読んでひとつ、昼飯の時にツイッター見ながらひとつ、夕方電車の中で夕刊読みながらひとつって、増やしていけば、大学四年間で計算上は4380も語彙が増えることになるよね?今よりも4000語もたくさんの言葉が使えると、自分の心や考えていることをかなり正確に表現できるようになるよね。いいの?放置しておいて。もったいなくない?こういう場面に出くわしてさ。もしかしたら、チャンスが無ければ、もう永遠に「忸怩たる想い」なんて言葉に出会えなかったかもしれないじゃん。いいの?そのままで。いいの?ボンヤリしてて?ねぇ!

言えば言うほど、自分が本当に嫌ったらしい教師に思えてきます。19歳の時、目の奥を覗き見るような顔で変なオッサンに「ええんかい?ほんまにそれでええのんかいっ!?」なんて追いつめられたら、私だって刑事事件を起こしてしまうかもしれません。でも、こういうワカラナイに何度となく、数えきれないほど遭遇して、それはまぁ仕方がないことだとしても、その後にそんな単純なワカラナイにすら、何のアクションも起こそうとしない人たちを見ていると、「そういうワカラナイは、その場で解決するんだから、調べりゃ済むことなんだから、悩むなよ。心配するなよ。心配なのは言葉の意味がワカラナイことじゃなくて、それを平気で放置できる、根拠不明の余裕なんだよ。頼むよ!」と言いたくなってしまうのです。言いたいことは、ここに尽くされています。

「このタイプのワカラナイは、大したことじゃないから放置すんな!」です。