2013年12月2日月曜日

ブログ冷温稼働停止解除:自分の頭でかんがえるということ〜特定秘密保護法案に強く反対する理由〜

 民主政治は、2000年以上も前の古代ギリシャの時代から「衆愚政治」などと批判と警戒の眼差しで見られていた。師匠ソクラテスがアテネの民会で馬鹿げた死罪を命ぜられて、弟子のプラトンが呆然自失となったように、「みんなで決める」やり方だと必ず「バカがバカな決定」をするから民主政治なんてろくなもんじゃないと、実はずっと言わ続けてきた。そしてこれのオマケに付けらるのは「ヒットラーは民主的に選ばれて権力を握ったのだから、民主政治は独裁者をつくりだすのだ」という決め付けである。確かにモノクロ映像で激しく拳を振るいわめくチョビ髭の小男の演説姿に、人々が興奮する姿は十分に愚劣である。
 しかし、人間がいつも賢明で、冷静で、思慮深く、己を捨てて公に尽くし、合理的な決定をするわけではないと認めることと、「民主政治は常に馬鹿げた決定をもたらす」と判断することは別である。我々人間は、適当に迂闊で、時として忘我となり、なかなか偏見から己を解放する勇気を持てず、結局自分の都合ばかりを優先してしまいがちである。でも、いつもそうだというわけではない。だから、「人間とは元来ろくでもない」という話は、この際少し遠ざけておかねばならない。そうでないと、話が大雑把になるからだ。
 さて、それでもやはり間違いをおかしやすい我々は、民主政治を営む資格が無いのだろうかと考えれば、そうでもない。何故ならば民主政治への参加は資格の有無とはあまり関係がないからだ。民主政治とは、資格があるからではなく、そうしないと他者と共に暮らす際に不都合が生じるからやっている部分がある。神のようなとんでもなく「できる人」に全部丸投げすれば楽なのだが、そんな人はこれまでいなかったし、一時そういう人だったとしても、時間が経てばそういう人でなくなってしまったから、しょうがないから取りあえずみんなで相談と喧嘩をしながら、何とか決めごとをやってきたのである。それが短く蛇行する民主政治の歴史である。だから、資格の有無という話もやはり遠ざけておかないといけない。
 人間は不完全なのだから馬鹿げたことが起こる確率を低くするために、神とは言わないが、相当能力の高い人に大事なことは任せようという、やや大人風の考え方もある。間違えてもやりなおしがきくような場合は、我ら「残念さん達」でもいいが、これは間違えるとヤバいという件では頭が良く、仕事が速く、沢山の知識を準備している人たちに任せようということだ。意外なことに、民主政治は歴史上実はかなり評判が悪かったので、それを何とかしようと「民が主である」ということを好まない、心配症たちが安心できるような変形版として作られたのが、この「大事なことは優秀な人たちに」ヴァージョンである。
 しかし、やはり多くの人が忘れがちなのは、我々の政治はどうしても「時間」という川の流れから離れて考えられないことだ。優秀な人たちが「いつも」、「常に」優秀であるという保証は無い。相当長い期間立派な仕事ぶりを示していたとしても、疲れたり、驕り始めたり、自分の対応能力が世界の変化に追っ付かなくなったりすれば、彼らは残念な人たちとなりうる。だから、ここでもやはり優れた人たちを信用し過ぎるという心の習慣も脇に遠ざけておかなければならない。そもそも、人間とはおおよそ「バカなものだ」と言っておきながら、他方で「優秀な人たちはずっと頼れる」と過信するのでは、筋道が一つになっていない。
 だから「人間とはそんなもの」、「民主政治には資格が必要」、「優れた人に任せれば良い」という三つを遠ざけて、100点満点で58点ぐらいの我々の民主政治を考えなければならない。人間の力を決めつけないで、人間が相談と喧嘩を上手にしながら協力して己の生活や人生を守る必要がある。この基本は、いまさらそう簡単に変えることはできない。民主政治以外のやり方の方が、人間が理不尽に死んだり、酷い暮らしぶりになったり、そして希望の無い人生を送ることを避けることができるということが証明されていない以上、「人間なんてと決めつけずに粘り強く実りある相談と喧嘩をし続ける」しかない。
 このことを確認しないと、人々がおおよそ合意している、民主政治をめぐる議論の外枠が決められない。逆にこれをおおよそ決めておけば、酔った勢いで「だから女子供に選挙権なんて与えちゃダメなんだよ!」などと言ってしまう、気が小さくて傲岸不遜なオジさんの泣き言には「おいおい、そりゃ爺さん達の時代の物言いさね」と優しく諭してやることができるというものだ。

 こういう考え方の中を貫いているのは、実は完全に自信はないけれども、我々がなんとか保持しているひとつの基本的信頼感覚である。それは次のようなことだ。

 僕たちは、たくさん間違え、嘘を付き、言い訳をして、思い上がり、不都合なことから逃げ、瞬時にお調子にのり、すぐ怒り、人を羨み、嫉み、バカにして、本当に残念なことが多い人間だが、それでも「自分の頭でものを考えることができている」間だけは、そういうどうしようもないものから、少しずつ脱して行く可能性をギリギリで持っているはずだ。

 先に、民主政治の話を大雑把にしないために、いくつかの思い込みを遠ざけたが、その理由は「我々は自分の頭で考えることさえできれば、わずかでも自分たちを変えることができる」と考えたいからだ。
 「人間とはそういうものだ」と言われたら、「そうでない人間が少しずつ増えるかもしれないではないか」と言い返す。「民主政治には資格が必要だ」という説教には、「その資格を決める人間はそもそも資格を持っているのか?」と疑問符を付ける。そして、「優れた人たちに任せよ」と諭されたら、「優れた人たちがそれを維持できる保証は無い」と口答えをすればよい。愚劣な人々も変わる可能性があり、そうなれば資格など全員に生まれるし、優れた人々も逆に愚人へと変わる可能性もあるということだ。
 忘れてはならないのは、こういう言い返しには「良きにつけ悪しきにつけ我々は変わりうるのだ」という前提があることだ。そして、この「変わりうる」という前提を支える根本条件とは、我々が「自分の頭で考え続けられること」である。
 「自分の頭で考えたからと言って、それが正しく、まともで、合理的なものとなる保証はないではないか?」と反論されるかもしれない。確かにそうかもしれない。しかし、たとえ相変わらず過ちを犯し、勘違いをし、迂闊に話の筋を外し、残念な決定や方向を採っても、そこには逃げも隠れもできない縛りというものがある。それは「それでもそれは自分たちの頭で考えたことなのだから、そこから逃げることはできない」という己自身に向かって放つ覚悟である。自分の頭で考えたのだという気持ちは、自信とともに、人間に覚悟を与えるのである。
 我々にとって不幸なのは、誤りを犯したり、あまり上等でない結論を出してしまったり、そのために多くの人間に不都合なことが起こってしまうこと「そのもの」ではない。最も不幸なのは、それを受け止め、引き受け、もう一度やりなおす「覚悟」を自分たち自身で絞り出すことができなくなることだ。それを責任と呼ぶ。
 だからそういう覚悟さえ用意しておけば、誤りだらけの我々も完全なる希望が無いのと同様に完全なる絶望に陥ることはない。これは我々が決めたことだ。だから起こることは我々が受け止める以外に無い。部外者のせいにすることはできない。そのことだけは、それだけは覚悟を決めて、腹をくくっておかなければいけない。
 だからこう言わねばならない。民主政治においては、起こりうる悪しき事態に共同で立ち向かわなければならない。そういう覚悟がなければならない。そしてそれを担保する、そうした覚悟を持てる理由はひとつである。

 自分の頭でものを考えている間は、我々は決めごとを受け止める覚悟を持てる。

 そしてそこからもう一歩理屈を進めてみるとこうなる。自分の頭でものを考え続けるためには、それに意味があると確信するためには、考えるための材料が世界に開かれていなければならない。ものを考えるための「言葉」、「出来事の有様」、「人の考え」、「冷徹な事実」、「不都合や失望を生む事実」が、我々に開かれていなければならない。のべつ開いては、我々の共同社会に危険や不幸をもたらす場合でも、「これは開かない」という決めごとをみんなで相談しながら進めるルールがなければならない。そして、それすらも間違えることを予想して、損得に左右されない第三者が判断できるようなやり方が用意されていなければならない。
 こういうことが用意されていないと、我々は自分の頭でものを考えるための大切な条件を手にすることができず、自分の頭ではなく、人の言いなりとなってものを考える可能性が高まり、己の自信の無さがつのることで、だんだんと縮こまった心を持つようになる。そして、やがて自分たちのした決定に信頼を置くことができなくなる。当然自分たちの決めごとに対する「覚悟」を失う。
 覚悟を失った人間は、他者を信頼することが苦しくなる。あいつは誰かにだまされているのだと、上手くいかない事態を人のせいにし始める。まわりがバカばかりに思えて来る。己のダメさ加減を棚に上げるようになる。驚くべきことに、考えが突然跳躍して「間違いを犯さない優れた者たちがいるはずだ」と禁じ手に行く。そうなるともう己の言葉はあまり必要でないという気持ちになる。そして黙る。
 覚悟を失い、信頼を失い、友を失い、言葉を失ったものたちは、もはや自分の頭でものを考えることができなくなる。自分の頭でものを考えられなくなる人間が多数を占めた時、我々は民主政治を継続する必然を失う。それは真の暗黒である。

 私は、特定秘密保護法案に絶対に反対する。自分の頭で考えてそう決めた。