2011年6月7日火曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その③「質問や議論の前提知識が無い」、④「どうしてそういう論理になるのかがワカラナイ」


<ワカラナイ③:質問や議論の前提知識が無い>
 大学にいる意味も、飛び交う日本語も何とかワカッテも、そこでなされている議論の前提知識が無いという意味でワカラナイというパターンがあります。私は、政治学の中でも現代民主主義理論を専攻しているのですが、もしこの私が学会や研究会で、分科会の部屋を間違えて、「中期アウグスティヌスにおける救済概念の再検討」という報告を聴く羽目になった時には、こうした事態が生じます。そこで使用される政治学上の概念として共有されているようなものについてはわかりますが、中世ヨーロッパの歴史的事実やラテン語の観念などが出てきますと、もう降参でしょう。
学会ではなく、平成の教室でも時として恐ろしいことが起こります。あるテキストを使用して「昭和天皇の戦争責任」について議論をすることになりましたが、いざ議論を始めてみても、素朴な道徳論の域を出るような話になりませんでした。もちろん責任をめぐる話自体、非常に難しい議論となりますし、そもそもが戦後の知識人の間でも、十分な総括も行われていませんし、この件はきちんとやると、まさに全体としての「戦後思想とは何か?」といった議論にも結びついてしまいます。
ところが大学で起こっているのは、そんな大仰な話ではなく、かつ「昭和天皇」という歴史の実在人物に対する精神的コミットメントが皆無であるという事実を超えて、驚くべきことに「戦争があった」という基本的事実すら曖昧となっている者が存在するということです。
戦争責任の話をしているのに、「あの戦争」についてほとんど知識が無いのなら、「先生。僕たちにもワカルよううに説明してください」という要求がどれほど理不尽な要求であるか、想像していただきたいのです。大学が今日、最も頭を悩ませている「ワカラナイ問題」がこの問題です。言語力が中学生程度しかない、どう考えても今日の大学の授業の水準に追い付けない学生は、自ら学校を辞めていきますが、言葉の意味は何とか頑張れば追いつけそうだと思う学生は学校を辞めません。そしてあらゆる領域の前提知識を欠いたまま、行儀よく教室に座っているのです。目下のところ、この問題に対応するための方法は、大学入学定員を半分にするということ以外にはありません。

<ワカラナイ④:どうしてそういう論理になるのかが>
 これ以降は、ようやく普通の話となります。ここでのワカラナイは「どうしてそういう論理展開となるのかが」ワカラナイというワカラナイです。大学の教室で生じた典型的な事例で説明してみましょう。

例えば、ナショナリズムの項目で出てくるのは、ネイション(nation)を構成する者としての「我々(We)」というものは、どのようにして決定されるのかという議論があったとします。「我々日本人は・・・」とする時、この「我々」を規定しているものは、一種類ではありません。「国籍が日本」という論理は、いわば形容重複のようなものです。その国籍はどのように「限定(define)できるのか」という問いこそに問題の本質があるからです。どうしてこんなことに神経を使わねばならないかというと、“We”の規定は「この範囲が“We”である」という、「この」の部分に多分に恣意性が介入し易く、これは同時に論理的には、規定の裏側では「我々ではない連中」というものの存在を前提にしてしまうからです。「俺たち」とイメージして、グルーピングした瞬間にはもう「俺たちとは違う存在」が理論上生まれてしまうのです。そして、この論理構成的効果は、容易に政治的な文脈の中で、「在日の人々は日本国民じゃないし」とされてしまいます。
もちろん、事実命題として、在日の人々は日本国民ではありません。でも、それはいくつもある人間のアイデンティティを規定するものの任意のひとつに過ぎません。つまり、在日の人々が日本国民ではないという判断は、法的な国籍が無いというレベルの話に過ぎないのであって、「税を負担して社会で協力的に生活するメンバー」という基準でよりリアルに「国民」規定をするなら、彼らは暫定的な国民だと、政治学的には十分考えることができるのです。
だとすれば、「我々」を規定するという純粋に観念的操作と呼ぶべき行為も、その論理的効果と共に、政治的にも機能してしまいますし、利用もされます。そして、心理的に、ともに生きている在日の人々を結果的に排除する精神的条件を作ってしまうかもしれません。そうしたことを念頭に、「ネイションの規定は排除の論理と親和的な関係に陥りやすい」という説明になります。「我々」を立ち上げることで同時に排除も始まるという理屈です。教室では、かなりの数の学生がこの理屈を理解できません。「我々は日本人のことを思っても、中国人や韓国人を差別したり、排除したりとか絶対にしません。それは先生の一方的な決めつけじゃないんですかぁ?」と、真面目に反論してきます。そういう話ではないのですが。
 同様に、ネイションとは「政治的な」共同体であることを説明するのに、よくフィクション(fiction)というタームを使います。そもそも、日本「国民」というものが自分たちの呼称として広く定着したのは、20世紀に入ってからです。無論、自分の目で「黒船」を見て、腰も抜かさんばかりに驚き恐怖した坂本竜馬も、残された書簡などで度々「日本人(ニッポンジン)」という言葉を使っていますが、こんな明確な意識を持っていたのは、本当にごく一部の知識人だけです(竜馬はこの意味では、稀有なるエリートです。しかし、竜馬が土佐を捨てた脱藩浪人であったことも、アイデンティティを外へ広げる条件だったのかもしれません)。圧倒的多数の人々にとって、より近いしい感覚を持ちえたのは「国民」ではなく、「藩の者」でした。
 だから新政府のリーダーたちには、この藩意識から脱した、より一般的「日本人」を一日も早く作り出す必要があったのです。つまり、この日本という国は、日本国と日本国民のために尽くす、時には命を懸けるような意識を持った人間が津々浦々住んでいるのであって、貴方も同じ気持ちで一つになれる、同じ日本人なのだという、現実とは異なる、プラトンの言う「イデア」のような、フィクショナルな存在を想定しなければならず、そのためには「昔から語り継がれる日本人の物語」が必要でした。つまり、政治、社会的統合のためのシンボルとしての「ニッポン物語」をフィクションとして成立させなければならなかったのです。
 ところがこのように説明すると、多くの学生がやはりこの論理を理解できません。試験答案などを読みますと、三分の一位の学生が「日本国民はフィクションだというが、そんなことはない。なぜならば私の周りには実在しているからだ」と、途方に暮れるようなことが書いてあります。「手で触れられるもの」なんだから、それは実在のものであって、断じてフィクションではないという小学生のような素朴さです。これは良くある、「論理がワカラナイ」です。でも、丁寧に説明し、議論し合えばだんだんとわかってきます。