2017年6月15日木曜日

参議院強行採決に寄せて:奇しくも6月15日になされたことと僕たち



あの数で野党は最後までよく頑張った。
あの官僚化した組織で朝日の記者はよく頑張った。
あの「東京55万部」という数で東京新聞は頑張った。
あの上からの圧力の最中テレビ朝日はよく頑張った。
あの酷い政治報道部を抱えた現場のNHK職員は頑張った。
あの「明日わか」(明日の自由を守る若手弁護士の会)は丹念にずっと人々に説明と説得をし続けてきて頑張った。
あの時代のように簡単には決めさせないぞと国会前に集まった人たちは頑張った。
あのファッションとグルメしか載せないと思っていた雑誌も注意を喚起する記事を載せて頑張った。
あの週刊文春も加計学園ネタでは頑張った(共謀罪もやれ!)
あの人、この人、その人、普段は考えもしない共謀罪について、慣れない中、記事を読み考え頑張った。
あのような国会の自殺をもたらした責任を知らしめるために政党や政治家に電話をかけ続けた人は頑張った。
あの法律で今後仕事の条件が悪くなるであろう言論人も千万の言葉を紡いで警鐘を鳴らし頑張った。
感謝したい。ありがとうございました。
ここに書かれていないけれど、ひっそりと、丹念に、ちゃんと頑張った人たちはたくさんいる。
それを思い出そう。

思い出して紹介して、そしてそれを記憶しよう。
頑張らなかった人、間違った筋で頑張った人、頑張っている人の足を引っ張った人のことは、統治エリートを除いて、悪く言うのはやめよう。
人々の半分も支持していない者たちがどうしてこんなに好き勝手なことをできるのか、その理由を丁寧に考えよう。
さて、今日も教室で淡々と「デモクラシーの基準」について講義しよう。そして若い人たちに思考の道具を提供しよう。
引き続き、頑張った者を褒め、友人を作り、話そう。
どのような法律もそれを止めることはできない。
奇しくも57年前の今日、国会南通用門前で亡くなった女子学生のことを考えながら、ここに記す。
岡田憲治 教員 54歳

2016年8月19日金曜日

世界で一番幸福なアスリートよ:吉田が負けた〜たまには書きますスポーツ・エッセイ〜

 吉田が負けた。
 
 3分15秒に後ろのポジションを取られたシーンに言い訳はできない。ちゃんと負けた。
 そして「あんなにたくさんの人に応援してもらったのに・・・ゴメンなさい・・・取り返しのつかないことをしてしまった」と泣いた。
 勝ったヘレン・マルーリスも泣いていた。彼女は、吉田の姿を観てレスリングを始め、吉田を仰ぎ見あげてここまできた。
 そして、その吉田に勝った。万感胸に迫った。
 不敗の神話を持つ者の不幸は、「その神話の終わりをいつにするかという困難な課題」に安易には立ち向かえないことだ。
 いたずらに老醜をさらし晩節を汚すこともある。
 ある日、突然啓示を受けたように消え去る者もいる。

 しかし吉田は、「自分に憧れ、自分を目標にし、自分を倒すことだけを考えてきた若者」に敗れ、そして何かを終わらせることができたのである。
 無敵のレスラーが、そんな素晴らしい者に敗れて、五輪を終えた。自分が種を蒔いた結果を全身で受け止めて、一つの仕事を終えた。
 勝ち続け、神話を無謬なるものとした者は、人を育てることが困難である。「勝てない理由がわからない」からだ。
 でも、神様は吉田に最後にとてつもない祝福をした。
 「負けて、ちゃんと負けて、負けた者しか学べない何かを、これからも若者に伝えよ」というメッセージである。
 吉田は、普遍なる存在に「お前の仕事は終わらない」と言われたのだ。
 何という幸福なアスリートだろう。

 そして、何と過酷な宿題が与えられたのだろう。
 「日本のキャプテンなのに優勝できなかった」などというツマラナイ事実を嘆くことはない。
 吉田は、本当の意味で、今日「選ばれし者」となったのだから。

2016年8月10日水曜日

【新刊本、本日発売と相成りました:『デモクラシーは、仁義である』(角川新書)】

 本日10日角川書店より、『デモクラシーは、仁義である』を上梓させていただきました。

 デモクラシーの意味と意義を共有する多くの友人もおり、曲がりなりにもデモクラシーは多くの人々の「生活原理」となりつつあります。
 しかし他方で、未来への不透明感と漠とした不安を抱えた人々が、ままならぬ日常と鬱積するフラストレーションを「デモクラシー」を罵倒することで晴らそうとしつつあります。

 デモクラシーの生活技法とは、「失いたくないものを共有する友人を増やしていく」ことです。
 その意味で、失いたくないものを「もう共有している人たち」と、それを確認すらだけでなく、これから共有する友人にも届く言葉が必要です。
 
 それを念頭に、この本はデモクラシーを愛している人と言うよりもむしろ、「デモクラシーにそうとう懐疑的な気持ちを持っている人たち」に、「気持ちはわかる。思いも共有する。でもやっぱりギリギリで僕たちがデモクラシーとやはり別れられない理由を確認しよう」という呼びかけをしました。

 どれほどデモクラシーの悪口を言う人でも、どれだけデモクラシーに悲観的な人も、そしてどうにもウジウジしている人も、「それでもどうしても手放すわけにはいかないもの」をたくさんの人たちが共有していると信じています。

 各々の選挙が終わっても、僕たちのデモクラシーは終わりません。僕たちに「終わらせたくない」という気持ちさえあればです。

 どうかご一読いただければありがたいです。
 






2015年9月1日火曜日

「今さら言おう基本のキ・オブ・デモクラシー」〜典型的な物言い:民主政治的センスを止めるロジック〜


ツイッターでちらりとエンカウンターした典型的な物言いです。

ちょっと読むと「その通りだよな」と思える、ヴァリエーションを変えつつ大量に出回っている民主政治(無)理解です。
丁寧に考えれば、全部論破できます。
でもこちら側は荒れた言葉を使わずに「丁寧に」です。


以下↓
光太郎 @koutaro1942
反対派には民意は感じられません!法案は選挙で選ばれた政治家が国民の付託を受けて議会で論じられたもので民意そのものです。賛成派はそれを応援したもの!デモで政治を変えればそれは民意では有りません!テロ行為です。

この「民意そのものです」という部分がジャンプアップです。
かつ「デモで政治を変えればそれは民意ではありません」が、一歩立ち止まって見ると「論理が全くない」です。つまり気持ち。

法が選挙を通じて選ばれた立法府のメンバーによって、ルールに基づいて議決されて成立するとか、その結論が民意であるというのは、「法制度上の原則」であって、それが即イコール民主政治を担保するものではありません。

民主政治は、人々の判断(民意と仮に呼んでも良いが1億人の民意など実態として存在するわけがないので、政治家やメディアが俊秀なる解釈によって言語化すべきもの)を、選挙や、世論調査や、地域での議論や、様々な社会集団における判断や議決や、リコールや、住民投票や、街頭デモや、お茶のみをしながらの隣人への声がけや、そういう「あらゆる手段を通じて行われる個別の人間の価値観に依拠した世界解釈の発露」を通じて、「その場、その時」に注意深く耳を傾けながら決定へと着地させていく「過程」「プロセス」、つまり「一連の人々の考えの連続確認作業」です。

まとめます。民主政治=「時間的に連なる人々の考えの連続確認作業」を前提にしたやりかた。

上記の「典型例」をもう一度丁寧に読んでみてください。

反対派には民意は「感じられない」(「感じ」ですね)のだそうです。

「議会で論じられたもので」とありますが、まともな議論などされていませんね?野党がその筋で質問しても答えませんよね?百歩譲ってもその「論じられたもの」の悲惨なこと。

「論じられたもの」が未だないわけですから、それが「民意そのものである」とは、論理的に言えませんよね?

賛成派は「それ」を応援したそうですが、この指示語の「それ」はまだ存在していませんよね?あるのは信じられないほどできの悪い法「案」だけですよね?

「デモで政治を変えれば」と言いますが、デモだけじゃなくて、いろいろなやり方で毎日政治は「変わって」いますよね?

「それは」民意ではないと言っていますが、「それ」は何?
テロ行為だそうですが、賛成派のデモもテロなのですか?

ツイッターやFBには、この「なんだか細かく考えたことはないが非の打ち所がない正論っぽい感じの言葉とされたもの」のコピペや応用があるだけで、要は「自分が逆の立場になった時に酷いことになるかもしれない」という想像力を動員する気持ちが弱い人たちの悲鳴のように感じます。議論ではありません。蓋を閉めているのです。

民主政治は、時間の制限がありますから、延々と「確認作業」を続けるわけにはいきません。しかし、確認作業の途中で「これは一億人の有権者のうちのほとんどの人に違和感を持たれた法案だな」とわかれば(もうわかっているのですが)、
1、引っ込める
2、大幅に修正する
3、この法案を支えている(実は支えられていない)前提からもう一度丁寧に議論することを呼びかける。

の三つから結論を出すのが民主政治です。

誤解してはいけません。多数決は、この確認作業の「ひとつ」の手法に過ぎません。たくさんの人がカーッとなって誤った判断をしている可能性を前提に民主政治はあるからです。
デモに行く人は多数決を否定しているのではありません。
「あの時の多数と今の多数がズレてるんですけど」と言っているのです。

そう考えると、自公政権と大阪市長のやっていることがいかに民主政治とは無縁であるかがわかるはずです。

以上、「今さら言おう基本のキ」オブ・デモクラシーでした。

2015年7月24日金曜日

鶴見俊輔さんが亡くなった:追悼文

鶴見さんが亡くなった。

困った時、苦しい時、「鶴見さんならどう考えるのか?」といつも立ち戻った、鶴見さんが亡くなった。

93歳だから天寿を全うされたのだと何度も自分に言い聞かせた。
亡くなる前にも、もう何十回も、「人は永遠には生きられないのだ」とまるで18歳の青年のように繰り返し繰り返し「その日」の覚悟を作ってきた。

しかし、やっぱり悲しくて、切なくて、どうしようもない。

鶴見さん、あなたは僕にとてつもなく沢山のことを教えてくれた。

思想を持つとは立派な考えを持つことではなく、失敗から学び成長し続けることなのだということを教えてくれた。

戦争が始まってアメリカに留まるか帰国するかを迫られた時、「戦争が終わった時、負けた側に居たいとおもった」という「思想を超えた領域」が存在することを教えてくれた。

近代日本で高等教育を受けた者たちが、世界が変わるたびに教科書を取り替えて、その度ごとに一切の思想的葛藤なく優等生になろうとすることを「一番病」と名付けて、「学ぶこと」と「勉強が上手」であることは違うということを教えてくれた。

本当に世界を切り開く優れた知性は、権威的で難解な言葉を使わなくても、15歳にわかる言葉で表現できるものであること、そしてそれを実行することがどれだけ大変なことであるかを教えてくれた。

どんな個人の悪よりも国家のもたらす悪のほうが大きな悪であって、それを防ぐためには国家とは別の尺度でものを考える社会が必要なのだということを教えてくれた。

人間は世界を完全情報のもとで理解することができないのだから、他者の命をなきものにする最終的な根拠を持ち得ないという、シンプルかつ普遍的な原理を教えてくれた。

もっともっとたくさん教わった。とても書ききれないことを教わった。

もう鶴見さんはいない。もう二度と会えない。

でも、鶴見さんは星の数ほどの言葉を残してくれた。

だから、それがある以上、鶴見さんはなくなっていない。

今、なくなったのは、鶴見さんに頼ってばかりいた情けない自分だ。

もう亡くなったがなくなっていないのだから、鶴見さんに寄りかかる自分も終わりにしたい。

でも、それでも、苦しくなったり、わからなくなったり、本当に途方に暮れた時には、少しでいいから、また教えてください。それぐらいいいでしょう?

さようなら。鶴見さん。

そして、弱虫の自分よ、もうあと少しだけ泣いたら、さようなら。

2015年7月15日水曜日

言葉にして、肉体を動かした人の意思は簡単に消えません


「どうせ反対したって強行採決されちゃうんでしょ?」という気持ちはよくわかりますが、「どうせ死ぬんだから生きててもしょうがない」なんて思いませんよね。

同じことです。

しかも、反対にも色々なニュアンスがあって、それがこの先無駄になるということは確定していません。

人が「それはいかがなものか?」と実感して、肉体を動かして訴えた時、それは雲散霧消しません。

なぜならば、その後も、私たちには「言葉」があるからです。
「あの時反対したが、ま・た・反対する」と言うための手段があるからです。

まだ今のうちは。

どうせ強行採決されちゃう「のに」ではなく、どうせ強行採決される「から」、あるいは「けれど」、だからと言って「黙り込む理由」もありません。

反対した。
強く反対した。
弱めに反対した。
一生懸命に反対した。
性格に引きずられじんわりと反対した。
静かだが持続性の長い高いカロリーで反対した。
それほど反対の気持ちはなかったが真摯なる態度で反対した人たちを勇気づけようとして反対した。

反対することで自分もこの世界に関わっていることを確認したくて反対した。
私の小さな反対を示す行為を誰かが見てくれて、誰かが「そう思ったらそう言えばいいんだな」と思ってくれることもあるかもしれないと思って反対した。

反対なんて一時の突風のようなもので日本人は忘れやすいから今は辛抱だというおっちょこちょいの政治家が「え?やっぱやばいかも」という気になって、1%の勇気を振り絞って「結論を急ぐべきじゃないと思います」と発言する可能性が今後0%とはかぎらないのだから、三軒茶屋の駅前で反対ボードを5分掲げて反対した。

まだ少し勇気が足らなくて反対したとまではいえない。
子供の顔を見ていたら少し叱られたような気がして反対したくなってきた。
「そういうことには関わるな」とダンナに言われたが「お前も少しは考えろよ」とムカついて反対のカードを作った。

「反対するなら対案を出せ」と言われてちょっと詰まったけど「足踏まれたるのに対案出せはねぇだろ」と思い直して「はぁ?反対する」と突っ返した。

「反対する」理由は、強行採決を止めるためでもあります。
しかし同時に、反対するのは、私たちが「民主社会を生きるために呼吸をしている」からです。

民主政治を「やる」というより、「民主社会を生きているだけ」です。

特別なことではありませんが、止めることはできません。

私たちは、うつむかねばならないことなど何もしていないです。
顔を上げて、今日も1日やるべきことをやりましょう。

2015年7月6日月曜日

「最後に政治家を縛るものは何か?」(ハフィントンポスト)

新しい論考を『ハフィントンポスト』に書きました。

タイトルは「最後に政治家を縛るものは何か?」です。
よろしくお願いします。

http://www.huffingtonpost.jp/kenji-okada/politician_b_7729434.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001