2011年5月22日日曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その1「自分がどうしてここにいるかワカラナイ」

長いブログをいつもお読みいただきありがとうございます。過日「面白いけど、さすがにナゲぇよ」というクレームがありましたので、今回から「連載」形式でお送りいたします。


<「ワカラナイ」を仕分ける必要>
 教員という職業に就いて、学生の口から発せられた数々の言葉の中で最も高い頻度で聞こえてきた言葉は何かと考えますと、それはおそらく「ワカラナイデス」でしょう。まず間違いないでしょう。ワカラナイという言葉は、何の文脈もなく、いきなり発せられる言葉ではなく、何かの問いかけに対する反応ですから、この切ない五文字を引き出した、そもそもの嫌ったらしい質問というものがあったはずです。
 大学の教員は、目の前に居る人間たちが、もはや学問をする上での最小限の知識・情報ストックを入力されて、ここに来ているのだという前提で授業を始めます(というか始め「たい」のです)から、知識「そのもの」を、その所在を(学生の脳みその中にあるかどうかを)確かめるような質問をする契機は、高校までの学校の教員ほどはありません。ナポレオンの登場してきた時期について「ええと、○○君。ナポレオンが自ら皇帝として即位すると宣言したのはいつごろでしたっけ?」と講義中に尋ねる理由は、それについての情報ストックを○○君がどれぐらい持っているかを評価したいからではありません。西欧におけるナショナリズムの高まりの話をしていて、度々王政復古とか、メッテルニッヒという言葉が出てきているのに、多くの学生が目をパチクリさせているので、この人たちは、今、私が19世紀前半の西ヨーロッパの話をしているのだということに気づいていないのかもしれないという、嫌な汗が噴き出てくるような事態を前にして、云い様のない不安に襲われるために、その不安を必死にかき消そうとして質問しているのです。
 返ってくる反応は残念ながら予想通り「ワカリマセン」です。情報が入っていないのなら、これはいかんとまず確認して補充する、あるいは失念してしまわないように何らかの印象付けの工夫をして、次の機会に同じことが起こらないように準備しておくだけです。「入試で日本史や地理や政経を選択した諸君は、今からでも遅くないので世界史、特に政治学は近代以降の西欧史を全く知らないとお手上げなので、各自でやっておいてくださいね」と言葉を添えて、はいこの件終了ですと。さて、このナショナリズムですが・・・と、講義は続きます。

次に質問する時には、知識のストックを確認するなどという虚しいものではない質問でなきゃいけないな。そして「ナポレオン自身は、自分の存在がまさかヨーロッパ、とりわけここではドイツですけれども、ここの人々のナショナルな意識を喚起させようと思ったわけではありませんね。しかし、結果としてここでは『ドイツ的なるもの』が、あの例のフィヒテの演説なんかをきっかけに、その後観念化されていく大きなきっかけとなりましたよね?こうしたプロセスを思い返した時、同じことが極東、東アジアでもあったと考えられますかね?どう思いますか?」と尋ねます。これこそ、高校生以下のチイチイパッパのお教室とは一線を画した、大学の授業における質問です。
ところが、いつも反応は同じです。やはり「ワカリマセン」
学問をしている人間は、「わからないということ自体」には、何の評価も加えません。むしろワカラナイということは、あらゆる学問の出発点ですから、基本的には重要なことだと思っています。しかし、こちらが教室で何を聞いても、少し困ると直ちに「ワカリマセン」とやられると、だんだんと心が荒んでくるのです。「ワカラナイ」は結論ではない。ゴールではない。出発点なんだよ!だから結局わかりませんでしたじゃなくて、ワカラナイので考えてみたのですが・・・とやらないと「あっそう。つまり君は〇〇な人なのね。はい。じゃ、そういうことで」として終りになってしまうのです。だからこういうことがあまり続くと、人間ですから無意識のうちにこちらの物言いも嫌味が強くなって、「うん。君がワカラナイってことはヨクワカッタよ。それでどう思う?」などとたたみかけることになります。困った学生は、今度はもうワカリマセンすら発することを止めて、死のような沈黙に陥ることになります。
この間まで高校生だった人たちが、デッカイ大学教授に「どう?」なんて質問されれば、身もすくむような気持ちになるでしょうし、うまく答えられないと思った瞬間に頭の中が真っ白になって、どうにも苦しくなって、しかたなくてどうしようもなくて「ワカリマセン」と言ったのかもしれません。だから、そこで身も蓋もないこと言って、その学生が地上に存在しないようなふりをすることなく、やっぱり丁寧に「尋ね直し」をしなければいけないのです。
この時、根本の精神の部分で、「ワカラナイこと、その事自体は大した問題ではない。問題なのは、その場しのぎの、苦しさから逃れるためだけに『ワカリマセン』という癖がついているならば、それは明日につながらないということなのだよ。ワカラナクてもいい。そこから切り開いていけるきっかけを考えて、少なくとも『何が』ワカラナイのかぐらい言語化しなさいね」とちゃんと触れなければいけないのです。

そうです。いま一度確認してごらんなさい。君は何がワカラナイのかと。なぜならば、「ワカラナイ」には、たくさんの種類があるからです。君のワカラナイは、何番目のワカラナイなのか?
すべてのスタートがここにあります。

<ワカラナイ①:自分はどうしてここにいるのか?>
 何と言っても、ワカラナイの中でメガトン級のパワーで我々教員を押しつぶしてしまう勢いを持つのが「自分がどうして今こんな所に居るのかがワカラナイ」というワカラナイです。四半世紀ぐらい前なら、こういうワカラナイ君は「五月病」と呼ばれた病気に罹った若者に多く見られたものでした。苦しい思いをして、一族郎党の期待やプレッシャーに負けそうになりながら、緊張と禁欲の日々をハイティーンの肉体と衝突させながら、非人間的受験勉強をやり遂げた暁には、それだけ楽しく素晴らしく、偉大なる人生が待っているのかと期待をして、艱難辛苦を乗り越えて、桜の舞い散るキャンパスにやって来たのに、そこにあったのは、自分が本当にツマラナイ砂粒のような存在と思えてしまうほど大量にいる学生たち、基本のコミュニケーションすら成立していない数百人対一人の味気ない講義、「知」の上にヤマイダレが付いているとしか思えないアホ顔(ヅラ)の先輩達、いくら本を読んでも結果が目に見えない学問の世界、「あとは個人の自己決定だよ」と言われて何も決められない自分の未熟さ、あれほど憧れた「女子大生」の幼稚さ、何から何まですべてが失望をもたらすものばかりです。
 科目登録が終わり、さぁこれからという時に早くも黄金週間に突入し、小学校3年生の夏休み以来10年ぶりに「何もする必要のない一週間」が与えられ、人生でこれまで経験したことがない、質(たち)の悪い退屈と無気力が全身を包み込みます。症状が悪化すると、そのまま大学を辞めてしまい、10年後に地方都市の県庁の脇にある「中央通り」にある喫茶店の店長となっている姿が目撃されるようになったりもしました。

 しかし、キャンパスにいる80%以上が平成生まれとなった今日、あれから大学生の数がもう100万人増え、大学も300も増えて、理論上は受験番号と名前さえ書ければ誰もが大学に入れる時代となってしまいました。五月病などというものは完全に消滅してしまいました。昔は、連休が終わると男子学生の半分は大学に来ませんでしたが、今日、いつになっても大学は混雑が解消されません。教室にもぎっしりと学生がいます。ただし、そのうちの70%はほとんど講義を聴いておらず、ただ「居るだけ」です。そして、このただ「居るだけ」の中のかなりの比率で存在するのが「自分がどうしてこんな所に居るのかがワカラナくて、しかたなく教室にいる人たち」です。この人たちは、比較的大人しく行儀も良くちょこんと椅子に座っています。
 少人数の基礎演習クラスでは、大教室とは異なり一対一のコミュニケーションができますから、授業の最中、大学でのやり取りに慣れてもらおうと、様々な質問(というより、むしろ「心ほぐし」のための雑談)をしてみますが、質問された多くの者たちが怪訝な顔をして「お前はどうして俺に話しかけるのか?」というようなオーラを出しています。「どこから来てるんだ?」と尋ねると、「横浜です」。だ・か・ら、それじゃ話終わっちゃうだろう?東京の人間に「どこに住んでるの?」と訊かれて「東京です」って答えて会話になるかよ。「どこから?」と尋ねられて「北半球です」って言うのかよ?横浜ったって、山手や石川町と瀬谷はロング・アイランドとドヴァイぐらい違うんだよ。横浜のどこだよ?

「本郷台って知ってますか?」
「高校の時、バンドの奴が住んでたよ」
「あのぉ、ちょっといいっすか?」
「あ?」
「ええっと、調布市役所の電話番号知ってますか?」
「あはぁ?なんでそんなこと僕が知っているんだ?」
「いやっ、知ってるのかなと思って」
「最近、何か面白い本読んだか?」
「いやっ、本とかはほとんど読まないんでぇ」
「(ああ?)本読まないのか?」
「読まないっす」
「じゃあさ、君、何でこんなとこ(大学)に居るんだよ?」(もはやすっかり嫌な奴)
「指定校推薦です!」
「・・・あぁ?・・・」(汗)
 
 チュドーーーーーーーン!

大学で起きたことを面白可笑しく書くにもほどがあると、御立腹の読者には申し訳ありませんが、これは実際に起こったことです。「君はどうしてここにいるのか?」と問われた18歳は、昔は暗い顔をして「東大も早稲田も落ちたからに決まってるじゃないですか」と上目使いで言い返し、それでも言葉にならない、はみ出る気持ちは「どこの学校を出たかなんていう質問を無意味にするような奴になってみせますよ」というものを用意しているようでした。しかし、湾岸戦争が起きた時にまだ生まれていなかった今日の18歳は、「本当に」自分がなぜこんな所に居るのかがわからない様子なのです。「僕たちは、本当はいったいなぜこんな所に居るのですか?」という、彼らの側から発せられる問いは、良く考えるときわめてラディカルな問いです。彼らが狙ってそれを発しているわけでない分、余計に我々に迫って来ます。
こういう類の「ワカラナイ」は、新しいヴァージョンです。のっけからすごく大きな問いが付きつけられましたが、こうしたワカラナイに対応するための準備と理屈は、別の所で取り組まねばならぬ問題かもしれません。

この項目つづく。次回は、ワカラナイその②「質問や議論の意味が(日本語として)ワカラナイ」です。