2011年12月13日火曜日

愛おしき学生に告ぐ:「イイタイコト」の無い文章を書いても意味がありません


「イイタイコト」の無い文章を書いても意味がありません


<「ただ」書くのはやめて下さい>
 学生も若いオフィス・ワーカーも、色々な文章を書いています。学生も、デスク・ワークがメインの勤め人もそれをしないとどうにもなりません。答案を書かないと単位が取れませんし、企画書や営業の報告書を書かないとビジネスになりません。だから書きます。しかし、多くの人が「ただ」書いています。「ただ」書くとはどういうふうに書くことなのでしょうか?
 「ただ」書くとは、「イイタイコト」を最もビシッと伝えるためにはどうやって書いたらいいのかに心を砕くことなく、「漫然と」、「漠然と」書くことです。ちなみに「イイタイコト」のことを別名「論旨」と言います。そこにある「論述の要旨」のことですから「論旨」です。論旨の無い文章のことを普通は「記号」と呼んでみたりします。つまり時々漢字の混じった、大方ひらがなとカタカナでできた「イイタイコト」がさっぱりわからない文字の羅列ですから、「記号」です。そして、何の知的訓練を受けていない20歳前後の人々が書く文章の大半がこの手の文章です。
 通常、そこに言葉があればそこに必ず意図があると考えます。何の意図もなく言葉を使う人はほとんどありません。虚空に向かって「畜生!」と叫んでいる人だって、「何だか面白くねぇんだよ!」という意図を表現しているのです。こんなことは何も6歳ぐらいからずっとある程度学校に行っていた人に言うことではないのですが、このことをたまには自覚的に意識しないと、皆さん本当に意図のない文章を書いてしまうのです。一読し終わって、イイタイコトが何なのか判然としない、崩壊した日本語が暴力的なまでにこちらの精神と脳細胞を破壊せんと迫って来ます。大学の少人数教育の教室で、私はいったい年間に何回「要するに一番イイタイコトは何なの?」と質問しているのでしょうか?本当に伝えたいという基本的欲望があるのかと疑いたくなるような薄いシャープペンシルの芯で書かれた答案を何千枚も読んで何度「解答のポイントが読み取れんぞ」と溜息をつくのでしょうか?
 私が困っているのは、そして企業の管理職の皆さんが困っているのは、主として若い人が書く文章が稚拙だからではありません。稚拙なのも本当は天を仰ぐぐらい困るのですが、それより以前に、まず何とかしてほしいのは「イイタイコト」がわからないことは書かないで欲しいという、ものを書く時の最初のルールの話です。言い換えると、「伝えようと思っていることをはっきりさせないで、漫然と『ただ』書くのはやめてほしい」ということです。そういうことを書かれるぐらいなら、小学生が書くような稚拙で幼稚な日本語でもいいですから「ぼくわまりちゃんのことをしぬほどきらいです」と書かれるほうが100倍人と共に生きることの喜びを堪能できます。
 このことに意識的になるだけで、皆さんの書く文章はあっという間に2ランクほど上がるといって良いでしょう。文章がある。そこには意図がある。その意図をどうしたら有効に伝えられるか。そのために言葉を選ぶ。段取りを工夫する。装丁を美しくする。価格設定で営業に泣いてもらう。影響力のある人に謹呈する。すべては「イイタイコト」を十全に世界に伝えたいからです。すべてはそこに起点があります。

<イイタイコトにはそう言う理由がある>
 イイタイコトを伝えるのに、イイタイコト「だけ」を書けばよいはずがありません。それだけではダメです。イイタイコトを「ただ言う」だけで許されるのは、原則的に読み手が自分自身であると言うことになっている「日記・独白」の類だけです。これは伝えることが目的ではなく、自分自身が忘れないように書き留めておく、あるいは何らかの目的のために記録を残すことが目的だから、それでよいのです。
 論旨を伝えるためには、「論拠」が不可欠です。そうイイタイと思う理由のことです。だから論拠のない主張・判断は、論述ではなく「独り言」です。「気持ち」を伝えることが目的ならば、必ずしも「論拠」のような堅苦しいものでなくても良いでしょうが、「申し訳ないという気持ちを伝えたい時に、闇雲に「すんません!すんません!」と百回謝られるよりも、そう思い至った心の軌跡を理由として添えた方が人の気持ちは暖まるでしょう(逆効果になるときもあります)。
 日本の国語教育は本当に独特なもので、「作者の心情を考えてみよう」という、「心のありか」などという曖昧な、明確な論拠を示す必然性を弱めてしまうようなアプローチが取られるために、私たちは子供のころから「気持ち」や「感想」というものを吐露することが発言することだという考えが身に付いてしまっています。しかし、イイタイコトを論理的に伝えるためには「印象を吐露する」手法だけでは十分ではありません。それどころか曖昧な物言いを「日本語独特の婉曲的表現」などというお門違いな評価によって、大切なことを曖昧にしてよいという暗黙の社会規範が作られることに手を貸すことにすらなります。文章には必ずそうイイタイと判断した根拠を示さねばなりません。

<イイタイコトは作戦を立てて言わねばなりません>
 「五月雨(さみだれ)」という言葉を御存知でしょうか?この場合の五月とは陰暦の五月ですから、要するに梅雨の時期であって、長雨とも表現される雨の降り方です。長々と降り、途切れ、まただらだらと降ったかと思うとまた止んでといった具合に不規則にだらだらとふる雨のことを五月雨と呼ぶわけです。
 イイタイコトをきちんと伝えるためには、ものを言う有効な作戦をたてねばなりません。この作戦が全く欠けている文章を「五月雨文」と言います(私が名付けました)。とにかくこれは梅雨の降雨のように、要領を得ない曖昧な文が、文脈を途切れさせながら続き、まるで寝言の口述筆記したものかと疑うようなものです。必要なのは、「こういう順番で、こういう組立で説明するとわかってもらい易いだろう」という作戦です。以下、まとめてみましょう。
    論旨をきちんと伝えるためには、構成が存在しなければなりません。
    構成とは、イイタイコトを伝えるための段取りのことです。
    段取りには「段」が必要で、それは通常として「パラグラフ(段落)」と呼ばれます。
    段取りの組み方は書き手の自由ですが、有効な段取りについてはいくつかのモデルがあります。
(1)先制攻撃型:イイタイコトを最初に力強く述べてしまって、後にそれがどういう
ことであるかを説明していく段取り。短い叙述の場合は非常に効果的。
(2)水際作戦型:徐々に読み手の興味関心をひきながら、最後に啖呵を切るようにイ
イイタイコトをぶつける段取り。用意周到にやればやるほど効果も高い。
(3)中押し攻撃型:論旨を示唆するように書き出し、中心部分で全面展開し、最後は
さらりと流すやり方。段取り。バランスがよいのが長所だが、最後の「流し」で
ツマラナイことを書くと台無しになる場合がある。

 こうした作戦を意識して、自覚的に展開するならば、皆さんは冒頭で注意を喚起した「漫然と書くな」とか「『ただ』書くな」という意味が、またひとつよくわかると思います。相手を説得するのに、ただひたすらストレートにぶつかればよいというものではありません。直球ばかりを投げれば、そのうち打者の目が慣れてしまい150キロの球を打ち返されてしまうかもしれません。逆に、手練手管に走りすぎて策に溺れるような場合だってあります。この作業は非常に大切で、こうして書いている私自身も、この文の組み立てをどうしようかと散々悩んで悩み抜いて、半分ギャンブルのような気持ちで取り組んでいるのですから。
 肝心なことは、パラグラフには必ず全体の中での役割があるということです。この項目で書いたことを理解していない人は、必ず50行ぐらいのパラグラフの文章を提出してきます。そんな巨大なパラグラフに一体どんな意味と役割を込めているのでしょうか?通常はそういうことがありえません。例えば(1)の作戦を採用した場合には、冒頭のパラグラフは「この論述の論旨にあたるもの」をスパンと打ち出すための「カタマリ」の仕事をするはずですし、(2)ならば、意外なエピソードで読み手を「おや?」という不思議な気持ちにさせて、「これは何かあるのか?」と思わせるような文章を設定するでしょう。わかり易いのは、最後のパラグラフの役割です。これは論述の全体の長さにもよりますが、普通は、論旨を確認するかのようにまとめるか、論旨を示した直後に「この問題にはなお検討の余地がある」と、未解決の問題を示唆しておくという奥ゆかしいものかのいずれです。もし、各々のパラグラフのカタマリの役割をより明確にして伝えたいならば、それをいくつかの上位のカタマリとして合体させ、そこにセクションごとにサブ・タイトルをつければいいでしょう。本書が<>で括って「節」のようなものを表現しているのもこのことです。そして、それによって論述全体の構成というものが明らかになり、書き手の伝えようとすることの意図がわかってくるのです。

<公的な論述における御法度集>
 文章を書く極意のようなものは存在しません。極意ではなく「常識」があればいいのです。昔は、本を読んで、どのようなタイプのどのような文章にはどのような言葉遣いをすればいいのかを、人々は読みながら真似ながら学びました。ところが、あらゆる領域で「何でもアリ」状態のこの国の文化状況においては、「それはこういう文章を書く時にはやってはいけないことなのよ」と言って聞かせないと、本当に何でもアリのような文章を書いて提出してきます。「ぶっちゃけぇ、オレ的にはそういうウザい話はアリえなくねぇっていう感じっすかねぇ?」とほぼ変わらないような話し言葉文でレポートが提出された時の衝撃は忘れることができません。最初は、間違いなく喧嘩を売って来たのだと思いました。でもどうやら、そうではなく19歳まで本当に何の指導も受けず、何の修正もされず、やったことは推薦入学のための提出小論文800字を面接に備えてほぼ丸暗記した程度だったから、本当に状況によって異なった日本語を使わねばならないことを知らないのです。
 本当は、日本語表記については、これまでに何千人分ものレポートと答案を読んできた経験から得られた大量項目の注意事項があるのですが、それは全部提示できません。 その代わりに、以下これさえやらなければ最悪の事態にはならないだろうと思われる「これをやってはいけない」程度の注意書きを示してみたいと思います。すべての文章スタイルに対応しているわけではなく、学生なら「答案」や「レポート」、社会人なら「企画書」や「報告書」といった、最も一般的公的文を念頭に置いています。

[やってはいけない10か条]
(1) 常体(である調)と敬体(ですます調)を混ぜてはいけない。
 まさかこんな子供じみたことを大人がするはずがないと高をくくっていらっしゃる企業の管理職のみなさん。甘いです。そして頭を抱えるのは「どうして区別しなければいけないのかがわからない」と平然と訴えてくる者たちが少なからずいることです。このあたりを許して放置すると、もうダムが決壊するような事態になります。絶対にダメです。
(2) 話し言葉を使ってはいけない。
先にも触れましたが「そうゆう認識はなにげに微妙だ」と普通に書いてくる人間がこの10年くらいの間に大増殖しています。「なにげに」は話し言葉で、どうやら「なんとなく」という意味で上は50代半ばの人たちにまで浸透しています。しかし、これを公的文章で書くことを許してはなりません。また、直接話法的な表現(「じゃないかなぁと思ったし」)を含む文が無造作に使用されていて、これは「ではないかと思った。そして・・・」と書き直さねばならないと言うと、「何が違うんですか?」と逆に問い返されるのが今日生じている事態です。
(3) 「僕は」「私は」という一人称を頻繁につかってはいけない。
 使ってはいけませんと言っているわけではありません。そうではなくて、すべての文章にこの一人称をつけなければいけないと思い込んでいる人がいて、それをやると「小学6年生の作文」のたたずまいとなる場合が多いので、大人ならそういう印象を与えるような文章を書きなさんなということです。「英語の場合は”I”と書く場合が多いじゃないですか?」と疑問を呈する方もいますが、論説文やアナリシスの文章にはあまりこの一人称は出てきません。
(4) 「~だと思う」「~だと感じた」「~と考える」を多用してはいけない。
 ここ一発と啖呵を切る場合には、揺るぎない信念に依拠して「だと思う」と書くと、論述に良き緊張がもたらされて、力強い印象を与えますが、これも多用すると、「ああ、文章を書き慣れていない、訓練を受けていない人なんだなぁ」という、残念な印象を与えてしまいます。そもそも、思った事を書いているわけですし、感じたことを「感じた」と書くのは、論理で勝負する文章においては「印象を語っているだけ」というマイナスの評価の素となってしまいます。とりわけ私たちの社会では「見解」と言うと角が立つのではという、実に脆弱なメンタリティが蔓延していますから、ややソフトな(とされている)「印象」でお茶を濁そうとする集合的無意識があり、「感じた」と書くことがあたかも何かの配慮をしているという馬鹿げたことになります。駄目です。「感じ」ではなく「見解」を書くのです。そのためには、逆に「~と思う」とやらないで言い切るのです。
(5)「~ではないだろうか?」という弱腰文を多用してはいけない。
これも本当に多くの学生が書いてくる「トホホ」フレーズのひとつです。これがもたらす困ったものは、ひとえに「論旨が弱くなる」ということです。書いた本人は、謙虚でソフトな言い方だと勘違いしていますが、オーラル・コミュニケーションとライティングとは言葉が持つ働きや力は異なります。論述文で最も大切な場面、つまりイイタイコトを示すときにこれをやってしまうと致命的となってしまいます。「え?そんなに自身が無いことを書いてるのか」と受け取られてしまうと言うことです。こういう問いかけ文は、本当にここ一発という時に使えばいいのです。
(6) 主語(主部)を意識の中で曖昧にしてはいけない。
 ちゃんと考えないと(3)で言ったことと矛盾しているのではないかと誤解しがちなことですが、ここで言っているのは世界中のすべての言語に原則共通している基本構造である「何が-どうした」というものの、「何が」の部分が曖昧で確定されておらず、整理されていないと、言語としての崩壊をきたしてしまいますよという意味です。レポートの朱入れをしていると頻繁に出会うのが以下のような「二つの主部のある文章」です。これは崩壊した日本語です。例えば「大東亜戦争肯定論国内外からの反発の上がった」というものです。「上がった」が述部ですが、これの主部にあたるものが「肯定論」と「声」の二つあり、基本構造が壊れています。慌てて書くと、私もよくやる間違いです。
(7) 指示語(「それ」「これ」「その」等)を曖昧にしてはいけない。
 指示語というものは、それが受けている先行する言葉が長かったり、先行する内容全体をさしたりする場合に、煩雑な文章にならないために使いますから、「それ」が「何」を指しているのかが曖昧になったり不明になったりしたら、逆に混乱を招きます。いわゆる「文章書くのが苦手なんです」という人の多くは、こういう指示語が「何を受けているのか」を深く考えずに、フィーリングで「あれ」「それ」と使っている場合が多いです。このことを意識的にやらないと、論理的な文章は永遠に書くことができません。逆に、強くここを意識して書き始めると、驚くほど明晰で筋道の通ったわかり易い日本語になるものです。本当です。
(8) 長すぎる修飾語を伴う主語を作ってはいけない。
いわゆる「悪文」と言われるものの代表は、一分の構造が「頭でっかち」になっているものです。例えば「私たちの日本社会が意図せずに不可視な存在に追いやってきた在日コリアンは納税者だ」という文など、この典型です。構造的には、主部は「コリアン」で、述部は「納税者だ」です。にもかかわらず長い長い修飾語「私たちの日本社会が意図せずに不可視な存在に追いやってきた」が、この文のバランスをとても悪くしています。これは関係代名詞で連なる、英語の翻訳文などには良く見られるもので、「~であるところの」という英文和訳の初学者がやる表現に引きずられた時に起こります。これを多用すると本当にわかり難い悪文になります。
(9) 人畜無害で信念の欠片もない「例のあのパターン」を使ってはならない。
 以下は、教員生活において実際に経験した実例です。どれも皆虚空を木霊し、言霊として成仏できないようなものばかりです。底の浅さを自ら宣伝しているようなものです。こんなツマラナイ、何のメッセージも含まれない表現に依りかかるくらいなら、拙い表現でも、自分の肉体からにじんでくるような物言いをするべきです。以下、やや学生への指導という部分に比重があるものとなっていますが、具体例を示します。ビジネスの場では、必ずしもすべてが当てはまるものではありません。

「今後、このようなよい社会の到来を期待したい」
このような傍観者的態度は最も意味がありません。社会の到来などと、あたかもお天気や自然現象を待つかのような態度には、社会の一員として「我が事」として問題と取り組む姿勢が全く垣間見えません。社会を構成しているのは書き手自身でもあるのですから、人任せにして期待してどうしようというのでしょうか?

「世界の人々に平和がもたらされることを祈念して、ここで筆を置きたい」
論理的に文章を書いて来て、根拠を添えて、何とかいえる範囲でそれなりの主張をして来ても、最後の最後に精神の怠惰が顔を出して、お仕着せの、例の、陳腐なこういう表現を丸写し的に書いて、それまでの論述が水泡と化すことがあります。言葉は正直なものです。身に付いていない、信念のない、覚悟の無い言葉使いは、読み手にすぐに伝わって、「ああ、ハートを込めて書いてないね。この人」と一発でばれてしまうのです。文章能力以前に、その人の「伝えようとする誠意」にすら疑問符がついてしまいます。その意味で文章を書くとはとても恐ろしいことなのです。とにかく、お祈りなら、お墓や教会でするべきです。

「大切なのは、相手を理解してあげることだ」
知的な人間とは「皮膚一枚隔てて外部に存在する他者というものを完全に理解することは元々原理的に不可能なのだ」という健全なペシミズムを前提にして世界や社会を考えます。こういう態度を持っているかいないかで、申し訳ないのですが最初の腑分けがなされてしまいます。ですから「大切なのは相互理解です」というのも、「他者は理解不能なのです」というのも、いずれも世界を考察する際の結論ではなく、基本態度として持つ前提なのです。ですから、簡単に言ってしまえば、こんなこと書いて前提を結論にしないで下さいということです。これを誤解している人が何とも多いことか。論述において、最後にこれを結論に持ってきたら、残念ですが一発アウトです。よく覚えておいてください。

(10) コピペをしてはいけない。
昨今、我々が直面している困った問題が「何でもコピペで済ませる傾向」です。恐るべき事態です。これは文章を書くという行為の根本の部分に関わる問題です。この世に文章というものがあれば、そこには必ず「書いた人」が存在します。書いた人が「誰が書いても取り換え可能なもの」を書く場合には、原則として記名する必要はありません。例えば、「今日は〇月〇日である」という文章は、その内容が事実に即しているならば、この文章に記名は不要です。記名が無いということは「人格」が宿っていないということです。ということは逆に言えば、記名されている文章には人格が背後にあるのですから、この人格は取り換え不能のものです。それは単純に「個人は取り換え不能である」ということ別表現です。そういうものを「自分の書いたもの」として提示するのは、他者の人格と自分の人格を区別していないことになります。そういうことにこだわりのない人は、文章を書いて公に提示する基本的資格のない人です。もっと簡単に言ってしまいましょう。自分の書いたもの他人が書いたものを区別しない文は「盗作」と言われます。これは、原則的には人の物を盗むのですから刑事上の責任を伴う「犯罪」です。

<「ちゃんと書ける」ことの比重は実はとてつもなく重い>
 私はこの章でこれまで、「漫然と書くのはダメ」、「イイタイコトの根拠が無きゃダメ」、「イイタイコトを言う作戦が無きゃダメ」、「こんなことやったらダメ」と書いてきました。まったく「ダメダメ説教爺」です。しかも、かなり強いトーンで皆さんに物を言ってきました。最大の理由は、書くという仕事が現実には他の行為よりも決定的な評価を受けてしまうからです。知的生活のための自力として私が言う「ちゃんと読める」、「ちゃんと話せる」、「ちゃんと書ける」はどれも原理的には皆おなじだけ重要な自力なのですが、この世の現実レベルで考えてみると、ちゃんと書けることの比重は実はかなり高いからです。
 大学の場合、上記の自力はいずれも学生評価に不可欠な項目ですが、日常的にこれらをすべて十全にチェックできるかというと不可能です。ゼミの学生10人程度だけを教えているならば、様々な場面で学生の能力を総合的に評価できますが、現実には数百人の学生が履修登録をしている講義科目を担当していると、数百人と面接をして「ちゃんと話せるか」、「ちゃんと読めているか」を判断することは物理的な時間が無いという意味で不可能です。ですから我々の社会ではほとんどの学生の評価を「ちゃんと書けるか」で判断しているわけです。つまり試験の「答案」です。面接をして口頭試問をして、かつ書いた文章も評価のために読むとなると、一人だけでの大変な時間を要します。しかし、答案なら速い時には一分以内(白紙答案なら一秒!)、遅くても五分以内で評価をすることができます。
 会社でも事情は同じです。部長も課長も皆忙しいのです。新しい商品企画を説明するのに、もちろんパワーポイントなどを使ったプレゼンも大切ですが、それはその企画がかなりいいところまで行ったところで与えられるチャンスであって、もしそれが公募のような形を取れば、応募者は何十、何百ともなるかもしれません。そんな時個別のプレゼンを何十回もやってくれるほど企業は暇ではありません。また、報告書の作成や部下の評価レポートなども、社長含めてマンションの一室でやっている会社ならともかく、部下が何十人もいるような組織ではいちいち時間作って対面でコミュニケーションをとれるほどの余裕はありませんから、「メール添付で出しといてくれ」ということになるのです。役所のような所になれば、仕方なくではなく証拠残しと前例踏襲に引きずられて「文書作りそのもの」が目的化したような仕事ぶりです。
 つまり、現実的には私たちの仕事をする近代社会のオフィスワークでは、とにかく書けないと仕事にならないのです。大学では、いくらか企業とは事情が異なりますが、それでも「ちゃんと書ける」ことに依りかかって人間が評価されていることは間違いないのです。そうなれば、もう書くこと、ちゃんと書けることの重要性は決定的ということです。諸般の都合で、この項目について本書ではここらあたりまでしか触れられませんが、本当はこのテーマだけで一冊の本を書かねばなりませんし、実際に書店に行きますと文書作成のためのマニュアルが溢れるほど置かれています。
 これをお読みの皆さん。ここに書いたことは知的生活のための最小限のアドヴァイスです。この「書く」能力だけは、修練に終わりというものがありません。そして、この問題は職業人生を送る限り、必ずついて回ります。逃げられない問題です。私自身もなお修練中です。