2015年7月15日水曜日

言葉にして、肉体を動かした人の意思は簡単に消えません


「どうせ反対したって強行採決されちゃうんでしょ?」という気持ちはよくわかりますが、「どうせ死ぬんだから生きててもしょうがない」なんて思いませんよね。

同じことです。

しかも、反対にも色々なニュアンスがあって、それがこの先無駄になるということは確定していません。

人が「それはいかがなものか?」と実感して、肉体を動かして訴えた時、それは雲散霧消しません。

なぜならば、その後も、私たちには「言葉」があるからです。
「あの時反対したが、ま・た・反対する」と言うための手段があるからです。

まだ今のうちは。

どうせ強行採決されちゃう「のに」ではなく、どうせ強行採決される「から」、あるいは「けれど」、だからと言って「黙り込む理由」もありません。

反対した。
強く反対した。
弱めに反対した。
一生懸命に反対した。
性格に引きずられじんわりと反対した。
静かだが持続性の長い高いカロリーで反対した。
それほど反対の気持ちはなかったが真摯なる態度で反対した人たちを勇気づけようとして反対した。

反対することで自分もこの世界に関わっていることを確認したくて反対した。
私の小さな反対を示す行為を誰かが見てくれて、誰かが「そう思ったらそう言えばいいんだな」と思ってくれることもあるかもしれないと思って反対した。

反対なんて一時の突風のようなもので日本人は忘れやすいから今は辛抱だというおっちょこちょいの政治家が「え?やっぱやばいかも」という気になって、1%の勇気を振り絞って「結論を急ぐべきじゃないと思います」と発言する可能性が今後0%とはかぎらないのだから、三軒茶屋の駅前で反対ボードを5分掲げて反対した。

まだ少し勇気が足らなくて反対したとまではいえない。
子供の顔を見ていたら少し叱られたような気がして反対したくなってきた。
「そういうことには関わるな」とダンナに言われたが「お前も少しは考えろよ」とムカついて反対のカードを作った。

「反対するなら対案を出せ」と言われてちょっと詰まったけど「足踏まれたるのに対案出せはねぇだろ」と思い直して「はぁ?反対する」と突っ返した。

「反対する」理由は、強行採決を止めるためでもあります。
しかし同時に、反対するのは、私たちが「民主社会を生きるために呼吸をしている」からです。

民主政治を「やる」というより、「民主社会を生きているだけ」です。

特別なことではありませんが、止めることはできません。

私たちは、うつむかねばならないことなど何もしていないです。
顔を上げて、今日も1日やるべきことをやりましょう。

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