2011年6月13日月曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その⑤「発言の目的がワカラナイ」⑥「選択できない」

<ワカラナイ⑤:発言の目的が>
 次のワカラナイは、質問の意味も論理もワカルが、どうしてこの文脈で「そんなことを言うのか」がワカラナイというものです。つまり、発言の意図や目的がワカラナイというものです。これは、自分が心情的にコミットしてしまっていることに引きずられて、全体の流れとシンクロしないままものを「言い募ってしまう」ような時に現れます。

 20世紀の帝国主義的構造の中で、各国は経済的利益を衝突させながら結局は世界大戦に至ってしまうのですが、この考え方で見れば、戦争は経済構造が主たる原因で生ずるものという理解になるでしょう。戦争が起こる理由は様々ですが、より社会科学的に考えるなら、あるいは過去の歴史をデータに実証的に推論していけば、20世紀の戦争は爆発的な生産力を背景にした「近代世界」がもたらす歪みのようなものの、ひとつの暴力的な帰結だったと推論することができます。教室では、こんな大きな問題にいきなり答えを出すことは不可能ですから、少なくとも、何らかの因果関係を論理的に想定して考える試みをさせようというやり方となります。

 ところが、本人は悲しくなるくらい真剣なのですが、いきなり挙手をして次のようなことを言い始める学生がたまにいます。
 「戦争が起こる理由について皆さん色々なことをおっしゃいますけれど、最も大切な話が抜けているんじゃないかと思うんです。それは『愛』です。戦争は人を殺します。それによってたくさんの人々が悲しみのどん底に突き落とされます。でも愛があれば、慈しむ心が失われなければ、戦争を止めることはできると思うんです。ヒットラーだって子供のころから邪悪な人間ではなかったと思うんです。殺伐とした愛の失われた人生を彷徨ううちに、人にとって一番大切な心を失ってしまったと思うのです。慈しみの心があればユダヤ人を何百万人も殺すようなことはなかったはずです。みなさん、経済とかの話をしていますが、こういう大切なことを忘れては戦争の議論はできないと思います」目にはうっすらと涙すら光っています。なるほど。おっしゃるとおりかもしれません。論理も大変素朴ですが、別に間違ったことを言っているわけでもないようです。

 こういう時には、意外にも普段はほとんど何も発言せず、いつ教室からいなくなるのかなと思われているような、大人しい学生が、ボソッと、かつ的確にこの愛の使者に向かって言うのです。「間違ってるとか思わないけど、そんなこと言って何になるわけ?」と。この発言をきっかけに感情的なやりとりにならないように、教員は職業的能力を駆使します。「今の疑問は、いわば『愛』の議論と経済構造の話がどう意味ある結びつきを持てるかっていうことだよね?」と(気が遠くなるほどのマヌケぶりです)。もう少しひねくれた学生になると(昔の自分ですが)、「18年も人生やってきて、色々あって、真っ直ぐな心だけではどうにもならないこともたくさんあるって、わかって当たり前なのに、なんでそんな甘ったるい事言えるのか、正直言ってわかんないっす」と実に手厳しい反応となります。

 それでは彼は「愛なんか○○の役にも立ちゃぁしねぇべさ」と思っているかといえば、そんなこともありません。「それはワカルけど、何でいま、こういう流れで、こういう話になってるのに、『あんな』理屈を持ち出すのか、それがワケワカンネェヨ」というでしょう。これが、所謂「ワカルけどワカンナイ」というやつです。これまで出て来たパターンとは、やや(というかかなり)趣(おもむき)を異にしていますね。何しろ、ワカルけどワカンナイのですから。
 こうしたやり取りは、何も学生の間でばかり起こるわけではありません。最初から政治的な目的を設定して議論をする人と、言葉のせめぎあいの中から生まれる奇跡のような発見を期待する人とがやりとりすると、必ずこういうことが生じます。政治とは、言わばこの「なぜ今、ここで、そんな話となるのか?」という疑問に答えことなく、強引に自分の土俵に相手を引きずり込んで、可能ならば相手が主体的に、自分で合理的に納得して、自らの主張に同調してくれるように仕向ける巧妙な行為なのかもしれません。

<ワカラナイ⑥:選択できない>
 「ワカラナイ」の前に、「どれを選んでいいのかが」と付くパターンがあります。議論が多岐にわたっておりおり、「どれがこの問題に関して最も重要なポイントなのかが判断しづらい」というものです。どれもみな重要な気がして、どう判断したらよいのかワカラナイのです。このパターンの前提は、「各々個別の議論、理論はワカル」ということです。もちろん「言いたい気持ち」ではなく、「理屈としてワカル」ということです。

 先にも出てきましたが、「昭和天皇に戦争責任はあったのか?」という問題などは、もちろん戦後の知的エリートの怠慢のせいで、すべて論点が出尽くしたなどということはありませんが、それでもさすがに長い年月を経て、かなり多様な論点が示されてもいます。ざっと考えても、この巨大な問題の切り口はたくさんあります。例えば、昭和天皇個人のキャラクターはどうだったのかというものです。戦時中敵国だったアメリカやイギリスにいた人々は、ヒロヒトは野蛮で残酷で残虐な悪魔のような人間だと信じていたでしょうが、多くの日本人は本当は高潔で立派な人格者だったと思っています。
そんなことは政治においては関係が無い。大切なのは、昭和天皇が「立憲君主として有能であったか否か」であるというポイントもあります。大日本帝国憲法は、憲法の中でも特に統治機構に関して、権限や責任が拡散してしまう、そもそも欠陥構造を持っていたのであって、天皇は立憲君主の在り方というものを形式的にとらえ過ぎて、現実に要請された政治的君主としての役割を果たすことができずに、結果的に無謀なる戦争を止めることができなかった。その意味において、責任が存在するのだとする議論もあります。これは、リーダーシップとは何かとする問題でもあり、同時にそうしたリーダーシップをどう制度化するのかという制度論でもあります。
そもそも議論のポイントは天皇個人にあるのではなく、天皇を利用し、大御心(おおみごころ)を踏みにじった「君側の奸」が日本を破滅に導いたことにあるのであり、天皇には責任がないとする議論も有力です。天皇は最後まで「米英相手の戦争遂行は大丈夫なのか?」と繰り返し御下問なさっていたではないか。それをあの軍令部総長がいい加減な上奏によってだましたのだと。
 他方、何を言おうと、300万の人間は天皇の名の下に行われた戦争で命を落としたのだし、特攻隊の若者の多くは口々に「天皇陛下万歳!」と叫んで敵艦に突入したのだ。そして名も知れぬ庶民は御国のためにと動員され、その最中無差別空襲で死んだのだ。そのことをどう考えるのか?政治的君主としてではなく、「人間として」どう考えるのか?少しの道義的責任も無いと言うのか?こういう意見もあります。

どれもそれぞれに信念と論理と、それらを下支えする感情というものを持っていますし、加えて昭和天皇と共に自分は生きたという実感を持つ者とそうでない者との隔たりもあります。あの時、エリートであった者と赤紙一枚で兵隊として南方に活かされた人とも、依って立つところは大きく異なるでしょう。あの戦争が終わって半世紀を経て生まれてきた、今日の学生など、こうした多岐にわたる議論を前に、重要なポイントはいったいどれなのかなど、さほど簡単に判断できるものではありません。どれも皆、大切な議論のような気がしてきます。ワカラナイのです。
ここでのワカラナイに対処するために必要な作業とは、議論の交通整理でしょう。それぞれの議論が、それ自体が持つ「展望」として何を守ろうとしているのかを見定めることで、たくさんの問いの立て方と、論の進める方向を仕分けることが必要です。そもそも帝国憲法に欠陥があったのだという議論をする人は、展望として「権限と責任を一元化する」立憲制度の構築というものがあるかもしれません。「君側の奸」を主張する人たちは、あらためてすぐれたエリートをどう養成すべきかという展望を持っているのかもしれません。天皇の道義を云々する人は、亡くなったたくさんの日本人への追悼の精神に一本太い芯棒を通すことが無ければ、戦後の思想的再出発は不可能だという、別の大義を守ろうとしているのかもしれません。
社会科学における議論は、こうした価値の問題を全く捨象して成立するものではありません。冷静で乾いた、淡々とした合理的な議論はもちろん不可欠ですが、こうした議論とそれに応じてなされるさまざまな規定や定義には、必ずそう規定した先の展望というものが含まれます。ですから、その展望に様々な差異があるなら、それらはきちんと区別されなければなりません。何を守りたいのか?何を問うているのか?それを可能な限り判別して、グループ分けすることで、「ワカル」ようになるのです。