2015年4月22日水曜日

私が学生にしつこく「映画!映画!」と言う理由:物語を堪能することで飛び越えられるもの



 政治権力を行使する者の愚劣と横暴をとがめるべき者が、萎縮して戦わなくなり、かつ当人が「居直る」という最強の作戦が展開された時、我々がやるべきことは思いの外たくさんはないかもしれません。居直らない己の側において、「我々にすり込まれたものの脆弱さを確認して自由を確保する」ことかもしれません。

 難しい言い方になっているので、この後「映画を観る理由」という言い方でこれを説明します。

 物語を堪能する際に、私たちは必ず登場する者の誰かに自己を重ね合わせます。「きちんとすること」に少々疲れてしまったときは、車寅次郎の台詞「おじさんにないのはお金。たっぷりあるのは時間だよ」に乗っかって、丸の内のエリート・サラリーマン(もはや半分死語か)の冷たい合理主義に嫌悪のまなざしを向け、ほんわかとした気持ちでエンドロールをながめます。

 こうした「重ね合わせることの容易さ」は、外国の作品を観た時に実感します。自分自身で驚いたのは、高校生の頃テレビの再放送で『コンバット』を繰り返し観ているうちに、自分の大叔父を戦争で殺したアメリカ軍の兵士であるサンダース軍曹やケリーやリトル・ジョンやカービーに乗っかってしまい、「アメリカーナ!」と叫ぶドイツ兵に対して憎悪の感情を持ったことでした。

 クリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』においても、スピルバーグの『太陽の帝国』においても、ぬおっと現れる日本兵の不気味さには恐怖心を覚えます(『太陽の帝国』のガッツ石松は怖かったぁ)。自分と属性を共有する日本兵が異形に見え、気が付くと米英陣営に心理的に寄り添っているのです。

 これを「名誉白人意識」と切ってしまうと、この話は終わりです。そうではなくて、自分の帰属する「ナショナルなもの」とは、かように根拠が弱く、いとも簡単にその境界を行き来してしまえるものだということを確認したいのです。「日本国籍の在日日本人」というあり方は、もっと身体の奥に刻み付けられているはずだと多くの人は思います。しかし、日本サイドから描いた『硫黄島』を観た直後に『父たちの星条旗』を観ても、たやすくこれが起こります。硫黄島でゲリラ的に抵抗する日本兵は本当に怖い。そこに自分の縁戚の兵士がいたのかもしれないのにです。

 物語を堪能する、物語を享受する際に必ず通るプロセスとしての「誰かに自分を重ねる」というものが持つ、大切な副作用です。

 私のFBでの映画レビューは、フォロワーや友人、そして学生に向けて「意図的に(もちろん!)」アップされています。それは、この物語性と現実との位相の交差に直面し、人間の身体性を感受するための多様な刺激と視角を沢山経験することで、そこになんらかの「心身ともにこびりつき、良し悪しともにそろった政治性」というものを突き放す契機を共に見出したいからです。

 やはりカタいのので言い直します。

 物語を堪能することで、良い意味での「自分は何ものでもない」という境地に至れる。そのために私たちには映画が必要だ・・・ということです。

 だから井筒監督の『パッチギ』の持つ物語に乗っかったものは、韓国人も朝鮮人も在日の人々も、みな好きではないと思っていても、気が付くと主人公のアンソンやキョンジャの側に立って、「イムジン河を歌うな!」とわめく京都のラジオ局のおっさんを大友康平がシバくシーンで喝采するはずです(しない人もいます)。

 もし、『パッチギ』を観て相変わらず「在日特権許すまじ」とか思っている人がいたら、その人は物語を堪能したのではありません。最初から、政治的慣性に加力する目的でプロパガンダを観たのです。

 映画を観ましょう。「この映画は反日だから」という理由で公開作品がフィルタリングされつつある悲惨な国にあって、そこそこの数の物語を堪能できる時間は余り残されていないかもしれませんから。

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