2011年8月5日金曜日

愛おしき学生に告ぐ~ 「君たちは未だ存在していない」

君たちは未だ存在していない




〈至れり尽くせりの12年間〉
英語で試験の点数のことを ”mark” と表現します。偶然ですが、これは非常に象徴的です。点とは「マーク」です。つまり、点数が付くことでマークがつく、あるいはマークが付くことで「その人が取った点」を介して、その人の存在が確認されるということです。試験を受けて成績が付くと、その人の存在が確認される(identified)ということです。
試験を受けて、点が付けばそこにいると認めてもらえるという、至れり尽くせりの境遇にあるのが、高校卒業まで通った12年間の学校のアリガタイところです。なぜならテストひとつ受けさえすれば、「君はここにいるよ」ということにさせてもらえるのですから。え?どうしてそれがそんなにアリガタイかですって?どうしてそんな質問をされるかも、私たちのようなおじさんには本当は不可解なのですが、ひるまずに説明すると、この世の中は家族や身内以外では、ほぼすべての人が自動的に貴方の存在を確認してくれるなどという奇跡のようなことは起こりえないからです。とりわけ、仕事をするような人生段階になれば、自分が存在することを必死で訴えなければ、ほぼ誰も自分の存在を認めてくれません。

〈君たちはまだいない〉
率直に言ってしまえば、今、大学のキャンパスで肺呼吸をしている大学生のうちの多くの皆さんは、大変申し訳ないのですが「未だに存在していない」のです。もちろん学籍名簿には全員の名前は掲載されています。でも「存在」していません。昔、「お前はもう死んでいる」という決めゼリフの漫画がありましたが、それはひどすぎますから「お前はまだ居ない」です。居るけれど居ないのです。昼休みも終わろうとする時間には、ぞろぞろ学食の出口から大量に湧き出てくる人々のほとんどが、居るけど居ないのです。
昨年秋、大学生の就職内定率が約60%くらいだという報道がありましたが、内定していない40%の人たちの多くは、おそらく私がここで言わんとしている「存在していない人」だと思います。確かめたわけではありませんが、おそらくそうであるはずです。
一般に、人は他者の存在を、社会的存在としての他者(物理的な意味での単体存在ではなく、共同体や他者との関係を継続しながら社会的な「生」を営む人間という意味)をどのようにすれば確認できるでしょうか?それはひどく簡単に言ってしまえば「その人が何を考えている、どのような人なのかがわかること」で、ある程度確認できます。それはそうです。横断歩道ですれ違う大量の人々が、そこには確かに物理的に存在するのに、どうして実質的には「居ない」に等しい、ただの通りすがりの人々、自分にとっては舞台のカキワリに過ぎないかと言えば、その人たちが「どんな人なのか」という情報が限りなくゼロに近いからです。
ということは、未だに存在していない多くの大学生は「何者かを知られていない存在」ということになります。自分が何を考え、どんな人間であるかを伝えるためには、教室の座席にちょこんと御行儀よく座っているだけでは駄目です。必要なのは声帯を震動させてしゃべることです。当たり前のことですよね。でも、この当たり前のことを多くの大学生がわかっていません。少人数クラスでテキストを読んで、コメントをカードに書いて、ディスカッションをすることになっているのですが、半数以上の学生は90分の間に一言もものを言いません。少人数クラスとは言え、ここは大学なので別に担任の教師がクラスの全員について、パーソナルデータを基に指導するわけではありませんから、なんら発言も質問もしない人達は、教員にとっては、居るけれどいない人たちなのです。こんなことを書くと冷たい人間と思われるかもしれませんが、ここで言葉を使わない人は、いないと同じなのです。
   授業の終わり頃になると、「ええと、本日何にも発言しなかった人は現段階で透明人間状態なので、次回は声出して存在を確実させてくださいね。今このクラスには学生は7人ぐらいしかいませんよ。このままだと、存在するこの7人の人たちとだけ授業やることになりますから、よろしくね」と嫌味なアナウンスをします。そういう嫌なことを言うものですから、焦った学生が授業の後に近寄って来ます。

学生「先生。今のところ、俺の評価ってかなり低いんすよね?」
私    「評価?低くはないよ、別に」
学生「マジっすか?」
私    「うん」
学生「もしかして俺、イケてるって言うことですか?」
私    「いや、評価が低いんじゃなくて、無いの」
学生「え?無いって?」
私    「君がさ」
学生「俺がいないんすか?」
私    「そう。評価するためのステージにまだ上がってないの

   大学に来て、クラスで一切声帯を震わせない人は、これまでの学校人生の心の習慣が出来ていて、何度警告しても、注意を促しても本気で人の言うことを考えようとしないのです。でも私の職業は企業の上司ではないので、どんなに疲れていても原則として「若者にチャンスを提供する」という仕事をしなければなりません。ですからわかるまで次のように言い続けるしか無いのです。

私: 君達は大学に入って来たのだから、一応高校野球で言うと、野球部に入部したのと同じでさ、でもボールをどれだけ早く、正確に、そして遠くまで投げられるかも、どれだけ早いボールをバットに乗せて遠くまで打ち返せるのかもわからないからさ、背番号も貰えないし、地区予選にも出られないから、「え?そんな奴いたっけ?」って思われてるんで、つまりは「居ない」と思われてんの。え?甲子園?ああ、あれはね、ウルトラ・スーパー・エリート、本当にごく一部の超人たちだけが行くところだから、この世の普通の人たち、そうそう君や私のような人間とは全く無縁な所だから、考える必要も無いの。だからまずは、選手として背番号を貰って地区予選に出なきゃ何も始まらないと言うことよ。え?人間として否定されてるような気がする?いやいや、誤解しないでね。最後まで言葉で何とかするという前提で出来てる、大学の学問の世界での話だから、一般社会じゃないよ。地球人としては、君は存在してるに決まってるじゃ無いの。そうそう、・・・おいおい、泣くなよ。要は、黙ってお地蔵さんでいるなら、お金がもったいないから、働いた方がいいよって、言ってるだけだから」

〈なのに何もしない大学生〉
   野球選手だって、ボールを投げたりバットを振ったりするのに、大学にくる人たちはどうして発言もしなければ質問もしなければ、本も新聞も読まないでボンヤリしているのでしょうか?地区予選で背番号を貰いたいと思っている選手は、ミーテイングで話をするコーチの言葉をノートにとっているだけなら、絶対に試合になんか出られません。女子マネじゃないんですから。やはりボールを投げ、取り、そして打ち返しますよね。当然ですよね。それなのに、どうして大学生は、言われないと、いや、言われても「何もしない」状態なんでしょうか?普通に考えて、不思議で仕方がありません。
   大学を卒業して就職するということは、やはり野球で言えば、どこかのチームに入団するということです。入団と言われても、最高峰であるプロ野球の選手になれるのは、本当の超人だけですから、そこまでは言えませんが、まぁ地方の独立リーグや社会人チームといったところに入団することができれば、めでたく就職ということでしょう。そんな設定であるとして、地区予選にベンチ入りもできなかった選手に入団のための願書、エントリーシートを送りつけられても、人事としては判断のしようがありませんよね?
   それでも何でも、奇特な人事関係者が仕事をするふりをする目的で、たまたま運良く面接に紛れ込んでも、当の本人が「ボールは投げられます」、「自分、来た球は一応打ち返すやる気だけは負けません」、あるいは「塁間27mを走る練習だけは下級生をぐいぐい引っぱってリーダーシップを発揮しました」とマニュアル通り(何とマヌケなマニュアルでしょう!)言うだけです。「時速何キロのストレートを投げるのか」、「アウト・ローのスライダーをレフト前に打ち返せるのか」といった、人事のする評価の基本資料すら、ちゃんと説明し、説得することもできないのです。そうなれば、「内定」などもらえるはずがありません。先ほど触れた、内定をもらえない40%の人たちとは、要するにこういう人たちのことです。

〈学生証だけで「存在」していた昔の学生さん〉
   昔は事情が異なりました。かつての日本のエリートたちというのは、同年代の10%以下くらいの人たちで、その人数はだいたい旧制高等学校の定員くらいでした。高等学校から大学に行くのはさほど大変ではなく、高校の定員とほぼ同数の定員が大学の定員だったからです。つまりエリートになるための最難関は高等学校の入学試験であって、これをクリアできれば、ほぼ自動的にエリートの仲間入りができたのです。
   このグループのメンバーであることの証明書こそが「学生証」でした。これさえ持っていれば、もうこの人間がどういう存在かは十分に認知・承認されていたのです。基本は「末は博士が大臣か」ということであって、だから酒を呑んで高歌放吟して多少暴れて物なんか壊しても、「まぁ、学生さんのしたことだから」という、今の人には理解不能な一言でほとんどが大目に見てもらえました。要するに、高校入学の段階でもはや全員「存在」していたのです。
   ところが今日、大学は相当に大衆化してしまい、間口が大きくなってしまいました。1960年代半ば位までに大学生層は戦前に比べればかなり広がりましたが、それでも進学率は10%代半ばくらいで、やはりまだ学生証だけで安心してもらえてたのですが、それ以降進学率も上がり、30%を超えるようになります。そして、25年前に大学を卒業した私の時代に比べて、今日21世紀、大学生は100万人も増えてしまいました。進学率も50%、つまり小学校の入学式で一緒だった友達の半分が大学にくることになっているのです。
    そうなるともう今や学生証があるだけでは「その人間がどの程度の自(地)力を持った者なのか」がわからなくなってしまいました。当然です。とにかく大量にいるんですから。しかも、少子化のためにかつてよりも激しい競争の経験をしたことがない、おっとりとした人たちがほとんでですから、ただただボンヤリして学生証を持っているだけで、アピールもできないし、そもそも存在そのものすら現段階では社会に伝わっていないし、伝えるためには努力が必要だということがピンと来ていません。みんな豊かになって育ちが良いので、自分で何かをハンティングするのではなく、「待っているとセットしてくれることになっているお子様ランチ待ち」の人達の比率が上がってしまい、そのまま放置されているのです。自分たちはもはやただ学生証を持っているだけでは存在していないままだということの意味もよくわからずにいるのです。

〈存在していないのに大企業を希望する切なさ〉
グローバリズムという流れと、それが生み出した構造は、20世紀の主要産業のビジネスモデルを変えてしまい、国単位で仕切られていた人と物と金の流れをより一層拡散させてしまいましたから、日本の大企業ですら、明日はどうなるかわからない、極めて不安定で不透明な時代となってしまいました。景気は冷え込んだままかなりになりますし、国内の格差についても議論され始め、何やら明るい見通しがないようです。こういう時にはやはりどうしても安定志向が強まりますから、そして何がどう変わったかは誰にも正確にわかりませんから、相変わらず寄らば大樹の陰ということで、大企業への就職を希望する学生も変わらず沢山いるわけです。
    ところが何も知らない、何も読まない、そして何もメッセージじを発信しない、四半世紀前より100万人も増えてしまった大学生が、かつての感覚と常識でエントリーシートを出して、就職活動をしますから、ものすごい数の、学生証を持つ「存在している学生」と、心優しき「未存在の学生」が、渾然一体となって日本の全企業の1%に過ぎない大企業に殺到します。ですから、増えた分の100万人、全体の40%ぐらいの「学生証しかもっていない」人たちがはじき出されて、内定が出ないということになっているわけです。
   マス・メディアは、ただでさえ若者が紙の新聞を読まず、今やテレビすら見なくなってしまったところに、あまり悪く言うと益々マス・メディア離れがひどくなるとビクビクしているので、こうした当たり前のことを書きませんし、報道もしません。だから論調は、「リーマン・ショック以降の景気後退で就職氷河期の真っ只中にいる不憫な若者」という風になり、「学歴が必要だ」という、かつては当たり前だった常識だけを頼りに学生証「だけ」を持っている、それ以外は基本的に何もしない(「本とかは、読まないっす」と何の羞恥心も示さずアッケラカンと言う、そういう意味)人たちが「この世界は不公平だ!」と人のせいにすることが許されてしまうのです。こういう先輩の姿たを見ている次世代は、ばく然とした未来への不安をかこちつつ、この温いニッポンを生きています。このスパイラルは何処かで止めねばなりません。

〈存在するために必要なこと〉
   存在するために必要なこととは、とにかくまずは「声を出すこと」です。と言っても、奇声を発するだけではだめです。「たくさんの言葉」を作って、たくさんしゃべるということです。これは(こんなことをわざわざ言わねばならないことになっているのが不思議ですが)自分が「意思ある存在(市民)」ということを伝えるために、どうしても必要なことです。
    日本の学校では、黙っていることで大人しくて良い子とされる、波風立てない従順さが高い評価を受けますが、このすり込みはかなり強力です。この様な風景と雰囲気の中で同調圧力を持続的に感じながらバランスを持ってやっていく癖がついている人間は、知らず知らずのうちに自己主張を明確にすることは、あたかも道徳的に悪であるという認識を身につけることになります。自己主張を控えるのは、あくまでも「政治的な判断」に過ぎないにもかかわらず、区別がつかなくなります。これが道徳的判断か政治的判断かは、非常に重要な問題ですが、いずれにせよ10年以上も続けて来た心の習慣をいきなり改めることができないために、学生は相変わらず大学の教室に来るに至っても、「常時様子見スタイル」を崩すことなく、パッとしない四年が過ぎて、勤め人(しかも残念な勤め人)になってしまうのです。これを避けるための第一歩は、とにかく「声帯を震わせる」ことです。

この項目つづく。

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