2011年6月24日金曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その⑦「そう評価してよいのかワカラナイ」







<ワカラナイ⑦:どう評価してよいのか>
 この七番目の「ワカラナイ」こそ、学問の世界の王道を行くワカラナイです。やっとここにたどり着きましたね。自分が教室にいる理由もワカる。教員や友人や先輩が話す日本語も大方ワカる。夏休みに世界史の勉強もしたから、だんだんと前提知識もワカッテきた。今している議論の文脈では、何にフォーカスを当てるべきかもワカる。多岐にわたる議論の交通整理も、かなり時間がかかったが、自分なりにやってみることができた。しかし、最後に、自分がどのような選好(preference)に依拠して、この多様な議論を踏まえて、「自分なりに」どのように「評価(evaluation)」するべきなのかが、まだワカラナイ。つまり、どう評価すべきなのかがワカラナイということです。

 この世の学問をする人、それ以外でも、ある種の重大な決定をしなければならなくて、そのための知見を準備しなければならない立場にある人は、基本的には、この七番目の問題、もしくは六と七の中間を行ったり来たりしながら考え、悩み、発見し、失望し、またやり直しという具合にやっていると言ってよいでしょう。学者や学生は、「評価する」部分に留まって悩み続ければよいでしょう。しかし、政治家や経済人、その他「決断」をしなければならない人たち(社会的エリート!)は、ある時点で覚悟を決めなければなりません。その意味では、決断とその結果を全身で受け止めることを免除されている学生は、極めて純な姿勢でこの作業に没頭することが許されている、非常に贅沢な人生を送っているということになります。
 ここで注意しなければならないのは、ここで「ワカラナイ」とされたとしても、そのことをもって直ちに意味が失われるわけではないということです。評価とはすべて暫定的なものです。「あの時点で懸案問題に関する最終的な評価が定まった」などと回顧する言い方がありますが、時代が変われば「新しい評価」、あるいは「再評価」というものが生まれるかもしれないからです。
 さほど大それた話ではないにしても、例えば個人において「どう評価してよいかワカラナイとしても、暫定手的に、常に暫定的でよいと腹をくくっておけばよいし、ワカラナクテも、ああでもないこうでもないと悩みながら発した大量の言語は、ともに考え、議論した他者にとってどれだけの刺激となるかもわかりません。何を鼓舞するかもわかりません。交通整理ができているだけでも大変なものです。いくら世界に一人の自分として評価せよと言われても、あらゆる思考のレベルで押し引き、綱引きが生じて、甲乙付けがたいことは起きるわけで、その時はその時で仕方がありません。そういうワカラナイは、そこに至るまでの葛藤が強く、切ないものであればあるほど、問題に深みと切実さをもたらします。我々教室で働く者たちも、こういうワカラナイで、ともに悩みたいというのが本音です。こういうワカラナイなら、喜びを感じるというものです。

<大切なこと:解答ではなく「問い」そのもの>
 これまで大雑把に「ワカラナイ」を七つに分類して来たのですが、ここまでお読みいただけば、「何がワカラナイのかがワカラナイ」という事態が、どれだけ悲惨なものかということがお解りになったはずです。裏から言えば、我々は「何がワカラナイのか」がワカレば、問題の半分以上が解決したに等しいということに気が付きます。ものを学ぶということは、「学べば学ぶほど、ますますワカラナクなっていく」体験なのだということは、このことを別の言葉で表現したものです(「学ぶほどに自分が賢くなっていく実感がある」と言ってしまう人間は、どこか浅はかなのだということです)。
 高校を卒業するまで、ひたすら穴埋めのパズルのような「解答探し」をやってばかりだった人は、ここで人生で初めて、最も重要なのは解答を手に入れることではなく、世界を腑分けて、交通整理をして、「問いを立てること」なのだということに出会うのです。ある政治家が「政治とカネ」の問題をめぐって有権者の六割以上の人に「議員辞職するべきだ」と思われていますが、本当にそうなのかどうかを考える過程で大切なのは、この問題に「本当に正しい解答が一つあるはずだから、それを手に入れること」なのではなく、きちんと考えることのできるデータをフェアに共有した後に、「どのような問い」を立てるのかということです。意味があるのは、「政治家は一点の曇りもない潔癖さを用意しておくべきかどうか」という問いの立て方なのか、「事実に反するような判断に基づいて、公権力とメディアが一人の政治家を報道を通して潰すようなことが民主政治と呼べるのかどうか」という問いなのか、いずれの問いが問題の核心をついているのか、いずれの問いが我々の真の公共の問題解決に貢献するのか。このように考えるのが、メダカの学校と学問の府大学との違いなのです。

 そうなると、講義が終わった後に、真面目な19歳がシャーペンとノートを持って「結局、ナショナリズムって無い方がいいんですか?(まだ先生の答えを聴いてないんですけど)」と質問してきたら、「それは君が決め、判断し、評価することであって、その評価を下すために、君がどういう問いを立てるかがすべてなんだよ。僕の評価が君のと異なっていたらどうするの?」と逆に返すことになります(10年前には、この手の質問にひたすら驚いて、目をパチクリしていたものですが、最近は少し心にも頭にも体にも筋肉がついてきて、このぐらいの返しができるようになりましたが)。「オザワイチロウってやっぱダメなんすか?」じゃなくて、君がすべきなのは「オザワイチロウがダメなのかどうかを考えるために、どんな問いが必要なのかを考えること」なのです。そして、そのためには、七種類の説明してきた「ワカラナイ」をちゃんと区別して、いったい自分はどの意味でワカラナイのかを少しは確認してから「ワカラナイっす」と言いなさいというわけです。そうでないと、与えられた、つまり本当に正しいのかどうかもワカラナイ「解答」をただただ受け取るだけの「餌をもらう金魚」のような存在、言い換えると「人の言いなりの人生を送る者」となりますよということです。

 「君はいったい何がワカラナイのか?」という問いは、それほど大切な問いなのです。

 
 この項目終わります。お読みいただき、ありがとうございました。