2012年2月3日金曜日

愛おしき学生に告ぐ:「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません

愛おしき学生に告ぐ:
「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません

~私たちは何のために議論をするのか?~

<身に付いてしまった心の習慣>
 ニッポン人は皆おしゃべりは大好きですが、発言はしません。「何か発言はありますか?」「・・・」「それでは終わります」「ガヤガヤガヤ・・・」これが私たちの社会の一般的特徴のひとつです。「発言」という日本語に含まれたニュアンスは、英語で言うSayingmentionとは異なる「大胆にも言ってしまった取り返しのつかないこと」という暗く切迫したものです。だから、ニッポン人にとっては「本当は発言なんかしないで沈黙を保っていた方が身のためだし、余計なこと言って後で責任取らなきゃならなくなったら目も当てられない」とか、もうそういうものです。「問題発言」「トンデモ発言」「差別発言」「傲慢」といったネガティヴな言葉は一般的かつ溢れていますが、「顕彰発言」や「名誉発言」「謙虚発言」といったポジティヴな表現は全くといって良いほど使われません。皮肉なことに「勇気ある発言」という言葉は良く使われていて、これはポジティヴな意味なのでしょうが、皮肉なことにここからも「発言するのは大変なこと」というニュアンスが裏付けられてしまいます。不幸な言葉「発言」です。どうしてこうなってしまうのでしょうか。ここにはどうにも強い思い込みがあるような気がします。それは、「世間様の前でもの言う時には、それなりの立派なことを言わなきゃならない」という、大変肩に力の入った、発言することを特別な行為だと決めつけた、何かに怯えるような態度です。
もちろん不特定多数の人々の前で何か公的な発言をすることは、さほど軽いものではありません。その意味では、めったなことで発言などできないという理屈は全くもって正しいし、公的発言には本当に慎重であるべきだという一般的規範にも異論はありません。しかし、もしそうだとしても、それでは人間はいつ物を言う作法を身に付けるのでしょうか?どんな所へ来てもいつも尻込みしていたら、永遠に引っ込み思案になるだけではないでしょうか?少なくとも若い人は学校にまで来た人は特にそういう態度を見直さないと、いつまでたっても「物怖じ市民」の域を出られません。このままではマイクを向けられると「逃げて回る」ようなオジサンやオバサンまっしぐらです。それの何がいけないのかって?私は「ひとはみなそれぞれですよねぇ」とかヌルイことを言うつもりはありません。駄目です。肉体を駆使して黙々と働く人生ならいざ知らず、そういう人たちの払う税金を使って教育を受けている人は、そういう人達の考えを代弁する義務がありますから、教育を受けた人間として、ちゃんと喋れなければいけません。
 学校という所は実に幸福な所であって、なんといくら失敗してもよく、失敗すると褒められ、かつ失敗しないと何も得られない、チャンスを与え続けてくれるサーヴィス満点の場所です。「失敗するとアホの烙印を押される緊張を強いられる所」とビクビクしている貴方。もし、貴方の行ってる学校がそういう所なら、それは教員の水準が低い所ですから、ささっと別の学校に移るか、失敗を咎められたら「ここは企業じゃないんですから、大目に見て下さいよ」と言っておけばいいんです。だからそんな有難い所まで来て、「・・・」となっていても意味がありません。もったいないではありませんか。しかし、この病気はもう100年以上も日本中に蔓延していますからなかなか治らないのです。
 大学の少人数導入授業では、課題図書の内容を再現する報告が済んで、それに対するコメントを数人にしてもらうと、議論しあうべき基本素材がまな板の上に出た所で、この場を展開させるために、発言を促します。「さて、ということのようですが、どうでしょうか?」です。ところが「コメントしてみようか」と促すと、多くの学生はやはり黙り込んでしまいます。「○○君、どう?」とつっついてみると「…、自分まだ考えとかまとまってないんでぇ・・・」となります。「またかよ」です。もう判で押したように全く寸分違わぬリアクションです。何十年もです。何かすっかりと出来上がった完成品を提出しなければいけないと相変わらず誤解をしているのです。いったい何故そんな誤解をするのでしょうか。この誤解を生み出すのは、「発言する時は、先生に尋ねられた質問に対して、ただひとつの回答を言ってみせる時なのだ」という思いこみです。子供の頃から、教室では先生が尋ねるやり方はいつもこうでした。

 「この答がわかる人は手を挙げて」

つまり、コメントするということは、「答を言うこと」なのだと思っていて、それが十九歳の今まで抜けないのです。もし、学問の場での発言やコメントというものがすべて、「完成した答の提出」だとするならば、その場すべて死の沈黙の支配する場となってしまうでしょう。学問の世界には完成した解答など存在しないからです。このままでは先に進むことはできません。とにかく「すべての発言は未完成なもの」として、「コメントすること」の内容の振り幅を広げなければなりません。

<発言とは「ああでもないこうでもない」の全プロセス>
 「発言するとは正解を言うことではない」ということを端的に示すために、議論の場で現れてくる大量のやり取りの中に、いったいどれだけの種類のコメントが含まれているかを示してみましょう。ひと言で「コメントする」といっても、その具体的な行為は様々です。思いつくままに書いてみましょう。

・「事実を列挙する」(こういう事実を確認して下さい)
・「意味付けを提供する」(これは要するに〇○ということなんだと思うのです)
・「優劣を示す」(こちらのほうが説明としては説得的だと思います)
・「善悪を示す」(これは大変真っ当なお考えですね)
・「一般的な評価と対比させる」(少数ですが〇○という評価もあります)
・「事実の有無を問う」(それに関して確かに〇○という事実があるのですね?)
・「大切な事実を確認する」(それは確かだと考えていいのですね?)
・「他者の発言を別の表現で言い換えてあげる」(〇○さんは、つまりこうおっしゃりたいのです)
・「要約してみせる」(ポイントを確認すると〇○ということです)
・「反論をぶつける」(〇○のような考え方も他方で存在すると思いますが)
・「同じ判断に別の根拠をつける」(こういう別の理由もあると思います)
・「わからなさ加減を説明する」(おっしゃる事の理屈は分かるのですが意図がよくわかりませんね)
・「他者の発言を促す」(先ほどの御話に関連して〇○さんの意見も聞いてみたいですね)
・「部分的同意を与える」(前段部について異論はありません)
・「立論そのものの妥当性の評価をする」(そうした問題の設定で良いのかと思いますが)etc。
 
いかがですか?これらはそれぞれを取って見ても、「立派なことを言っている」わけではありませんよね。やや硬い言葉で説明されていますから何か高尚なことを言っているような印象を受けますが、高校生以下が使用する幼児語に翻訳すれば、「意味付けを提供する」ということは「ぶっちゃけ○○っていうことじゃねぇ?」だろうし、「立論そのものの妥当性の評価をする」と言うと仰々しいですが、要は「それもとからありえなくねぇ?」でしょう。大した発言ではないのです。しかも、これらは皆「自分」を主人公にしているわけではありません。「他者の発言を別の表現で言い換えてあげる」など、「それってこういうことを言いたいんですよね?」と、相手をステージに上げようとしています(それが唐突だと「それ無茶振りじゃねぇ?」とリアクションされますよね)。議論に集う者たちにとって、時として大変ありがたいのがこの「他者の発言のきっかけを与える」ような、参加者の発言です。有難い理由は、これを絶え間なく誰かがやってくれれば、その場にいる者たちのエンジンは自然に暖まってくるからです。気の利いた学生がたまに言ってくれるのが「ちょっと僕自身も判断に悩む部分があるんだけど、〇〇君なんかは先ほどの発言からすれば、このあたりにヒントをくれそうなんですけど、どうですか?」といった、ナイスなコメントです。これは言わば「舞台回しコメント」とでも呼べる類の「つなぎコメント」であって、このコメントには実質的には新しい事実やそれの解釈や分析、価値付けや評価は含まれていません。でもいいのです。それで十分なのです。流れというものが生れて来るからです。
 今ざっと挙げたコメントの数々は、本当にざっと挙げたものですから、このまま突き付けられても漠然とした印象しか持てないでしょう。でも、おおよそ発言の場では飛び交う言葉の種類は次のように整理できます。「自分の言いたいことを言う」と「他人の発言を促す」の二つ、そしてその上で、「説明する」、「評価してみせる」、「尋ねてみる」の三つぐらいです。講演会のように一方的に自分の考えを伝えるだけなら、相手はただの聞き手にすぎませんが、議論するとなればこれは対話するという往復運動ですから、時には相手の言葉や論理を引き出すということが必要となります。ですから「自分で自分の言葉を引き出す」と「他者の言葉を引き出す」の二つです。「説明、評価、質問」の三つは、ある発言者の言った事「これはこういうことです」と説明し、「これはなかなか鋭い指摘です」と評価し、そして「これはこういうことですよね」と確認することです。こう分けてみれば組み合わせて6種類のコメントを考えてみることができます。

①「自分の言いたい事を説明してみせる」
②「自分の言いたい事を評価してみせる」
③「自分の言いたい事を質問の形で確認する」他者の発言を引き出す場合は、
④「他者の説明を引き出そうとする」
⑤「他者の評価を引き出そうとする」
⑥「他者の言う事を確認する」大体この六つしかありません。少しは気が楽になりませんか?

こう考えれば、発言とは「一回完結!決まったぁ!」というようなものとは程遠い、淡々と重ねて行くようなものだということがわかります。一発で決める事なんかできません。このあたりが、経験の浅い若い人々にはわからないのです。学生を指導していると時々歯がゆく感じます。サッカーで言えば、「まともに仕掛けても無駄だと思ったら、このプレスから抜け出して、ボールを一度ボランチか最終ラインに預けてしまえばよいのに・・・」という感じでしょうか。しかし、未経験者にはそれを上手にやるレトリックが全く備わっていません。「この点については、正直言ってクリアーな事は言えませんけど、B君のさっきの指摘が気になっているので、もう一度説明を聞いてみたいんですけど・・・」と言えば、なんだか「それらしい」コメントに聞こえます。実質的には「俺は分からんからBに代わりに言ってもらってよ」なのですが、沈黙してお通夜のような場づくりをしてしまうよりも、この方が知的コミュニティとしては100倍ましなのです。
 どうしてこんな「だらだら」でいいのかと言えば、もう一度繰り返しますが、議論の場においては、正解など最後まで出てこないからです。ここに列挙したコメントのどれをとっても、前提になっているのは「結論(暫定的な判断)はまだまだ出ませんが」という留保をつけるような基本姿勢です。要するに「話し続けて結論なんか出ないでしょうけど」という認識です。拍子抜けするでしょう?無理もありません。この認識は、大学の教室に入って来た人たちが12年間かけて身に付けてきた基本認識と「ネガとポジ」の関係にあるからです。正解が見つかったら勇気を出して答えを言ってみるトライを12年もやって来て、13年目にたどり着いた学校では、すべての発言が「正解なんか無いけど」とされるからです。シンプルに言ってしまいましょう。「正解などありませんから何でも言いましょう」です。

<私たちは何のために議論などするのか?>
 多くの人々は、議論をするということの目的を「正解を導き出すため」と思い込んでいます。実に不幸な勘違いです。それでは心も口も頭もこわばるわけです。学問の世界に足を突っ込んでかれこれ30年の私ですら、議論の場で「正解だけを発言願います」という縛りをかけられたら、永遠に沈黙を守りとおすことになるでしょう。
 まずこの「正解」という言葉がいけません。お勉強から学問へと世界を変えるためにまず必要なのは、「答えは一つ」「真理は一つ」という考えを完全に捨て去ることです。でも真面目な人はこう反論するでしょう。「それじゃ、これまで学校で『正しい答えを書きなさい』と言われてやらされてきたことは何だったのですか?無意味なことだったのですか?」と。そりゃそういうふうに言いたくもなります。延々とそれをやらされてきたのですから。現代国語の試験で「筆者の言わんとすることを説明しなさい」と設問されて、解答に「色々な気持ちです」と書いたら、「不正解」となるという理不尽なことが行われているのが日本の学校です。ですから反論する気持ちは分かります。
 しかし、すべての評価は部分評価ですから、このようにも言えるのです。つまり、6歳からの12年間は「答えは一つではありません」ということを深くきちんと考えるためには絶対に必要な最低限の技法と知識を身に付ける時代だったということです。「答えは一つ」と指定してくる馬鹿馬鹿しさには、私は14歳の時に既に気づいていましたが、どうして答えは一つというふうに教育せねばならないのかは気づきませんでした。大学以前の学校が、ひとつの答えを要求してきたのは正確には「答え」ではなく、「とにかく頭の中に入れておかねばならない重要データ」だったということです。「シクサンジュウロク」だとか「ハッパロクジュウシ」、あるいは「イイクニ造ろう鎌倉幕府」や「以後染み残す鉄砲伝来」といったデータは、それが無いと生きて行けないという知識ではありませんが広義の教養の部分をなすものであって、必要なものです。人間は最低限の素材とデータが無ければ世界や人間を考えることができません。それがあっての「学問」ということです。
 しかし、もはや大学においては、「ここはもうそういうものは一通り身に付けている人が来るところ」というところからものごとを始めていますので、当然そういう意味での「答えは一つだチィパッパ」のようなものはしていません(タテマエ上はです)。だからもう「正解を言わねばならぬ」という焦りは必要が無いのです。「少子高齢化社会化が加速度的に進行する現代において日本の税制はどのような基本フレームで考えるべきか」という問題を大学教員が出し、それを「わかる人?」と尋ねるかということです。そんな巨大な問題を大学の教室で尋ねる教員がいれば、それは正解を要求しての質問ではなく、こういう問題に未熟ながらも学生がどういう問いを立てて来るのかを探るためにやっていることであって、真面目に正解を問うはずはありません。「3×3=?」には答えは一つしかありませんが、「参議院選挙の一票の格差はどれぐらいが許容範囲か?」という問題に答えが一つしかないわけがないじゃありませんか。
 「発言=正解提出」という誤解に加えて、人々が発言しにくくなるもう一つの誤解が、人間が議論をする目的に関するものです。発言することをあまり大変な作業だと考えないためにも、一度立ち止まって考えてほしいのは、私たちが人と議論をする理由です。私たちのコミュニティでは、議論するということを「言いたいことをとにかく主張する」とか、「正しいかどうかは別として、とにかく思いの丈をぶつけてみる」、あるいは「言葉で切った張ったする」ことだと思っている人たちがまだ相当たくさんいます。とくに強いのは「文句を付けること」「気持ちをぶつけること」「反対者をコテンパンにすること」の三つが多いです。残念ですがどれも駄目です。道徳的に糾弾することはありませんが、それでは知的水準は上がりませんよということです。
 あまり耳慣れない言い方かもしれませんが、私たちが議論をする理由は「自分はあの人といったいどこで分かれてしまったのかを確認するため」です。そうするとあの人と考えが違うことがはっきりするから、そうなればしこりも残すし後味も悪いではないですかと不安を訴える人もいます。もちろん議論の仕方によっては「今はもう遠い距離が二人を隔てているのだな」という気持ちを強めます。しかし、私がここで強調したいのは「異なる点」だけではありません。この前に「〇○までは同じ道を歩いていたのだ」ということを確認することの大切さを強調したいのです。そして何が違うかだけでなく「何を共有しているのか」を確認することのポジティヴな意味を評価したいのです。議論によって対立点を明らかにするというのは、別に間違った物言いではないと思いますし、正確な認識を得るためには大切なことです。しかし、「ここまでは共有していた」ということを確認することで、では何を克服すれば共有地平を増やすことができるだろうかとなるわけです。
 例えば、私は昔ある友人の言葉の端っこを過大に受け止めてしまって、「あの野郎はとんでもねぇ右翼だ」と決めつけて、売り言葉に買い言葉で相手もこっちのことを「左翼ファシストめ」と思い込んでいました。ところがひょんな機会にちゃんと話してみたら「自分の愛する故郷や地域の人間こそ最も大切な人達である」という基本姿勢と「大資本のスーパーよりも個人がやってる商店街にお金を落とすというように、虐げられている経済的弱者へのシンパシーを持っている」ことが完全に一致していました。えっと思ってもう少し話してみたら「そういう世の中を父親のような権威を通じてまとめるか、よたよたしながらでも皆で相談しながら決めて行くか」の部分で袂を分かっているに過ぎないことに気が付いたのです。考えてみれば、強力なリーダーに重きを置くことと、より民主的に物事を進めることの間にある違いは所詮は「程度」の違いに過ぎません。様々な中間領域があるからです。このやり取りの後、両者の心に残ったのは「俺らそんなに違わなかったんじゃん」という温(ぬく)い気持ちです。そして「俺らが本当の戦う相手」が誰なのかが問題となって行きます。つまり、議論をして袂を分かつのではなく、議論をすることで人間が結び付くことの方が、我々全体の水準を上げて行くと思うのです。そのために私たちは議論をするのです。
 発言することに大仰な意味を込めすぎている人は、発言して議論して結論を出すなどと考えれば、とても億劫になってしまい、ギスギス感も増大しますし、自分にはそんな切った張ったはできないと思ってしまいます。ですからそうならないためにも、議論するそもそもの目的というものをもっと前向きに理解した方がいいと思うのです。ちゃんと話すと友人が増えるのだと。
<とにかく沈黙の連鎖から抜けること>
 大学に入って、議論の場に遭遇して「コメントしてごらんなさい」と言われ、途方に暮れている諸君は、まずは一つの事を出来るようにすることです。それはとにかく「お通夜状況」に陥らないようにすることです。何度も強調してきましたように、立派なことは言わなくてよいのですから、お地蔵さんのようになる、あるいはそう決め込む、そうやってやり過ごそうとすることを止めることです。この習慣を取り払わなければ、今後の知的世界において未来はありません。なぜならば、学問の世界とは声帯を震わせることなくしては「存在していないこと」にされてしまうからです。しゃべらない奴は「居ない」のと同じという事です(「君たちは存在しない」の章参照)。

岡田「この時限90分の間ずっと黙っていたけど、来週はもう来る気はないのですね。はい、それでは名簿から君の名前は抹消しますね」。
学生「・・・ちょっちょっと待ってください。え?抹消ですか?」。
岡田「うん。発言が無かったでしょ?」。
学生「え?しゃべらないとクビですか?」。
岡田「はぁ?クビって言うか、そのつまり、黙っていて何の意思表明もないので学習を継続する意思が無いと判断したんだけど・・・」。
学生「いやっ、ああります!ありますよ。ちゃんとやりますよ!」
岡田「でもお地蔵さんにどんな意志があるんだろうと思っちゃうんだよ」。
学生「え?俺ってお地蔵さんなんすか?」。
岡田「何も言わないでしょう?」。
学生「それだと駄目なんすか?」。
岡田「ダメとかいう段階以前に、居ないのと同じだから、スタートラインから外れてもらうって言っているだけだけど・・・じゃ来週は存在する証拠を見せてくれる?」。
学生「証拠?何持って来ればいいんですか?」
岡田「・・・だ・か・らぁーー!声帯を振るわせろよ!それだけだよ!」

 私がここで言いたいことは、お地蔵さんから人間になりなさいということです。そして、コメントって言われても・・・と途方に暮れる姿があまりに不憫なので、コメントといっても大学の教室で飛び交うものは、大体5~6種類しかありませんよと助け舟を出しているわけです。かつ中身のないことを言ってしまう可能性があっても、つなぎや自分のための時間稼ぎのようなコメントでも良いのだと言っているのです。俯いて黙っていられると教室に病人がいるような気になってしまうわけで、最低限ここには学ぶ意志を持った健康な人間が存在することを示しなさいという事です。黙って座っているのは大人しくて手のかからない従順な良い子だとされるのは18歳までです。そこを過ぎると、世界は一変して「病人か幽霊がいる」ことになってしまうのです。だから、まずはそれを避けるべく努力をしてください。
 
 かつて書いた本の中で、私は「考えがまとまってから何かを言おうとすると、永遠にものが言えません」と言いました(『言葉が足りないとサルになる』)。そして、とにかく出だしからエイヤッと言葉を使って話し始めると、自分の中に眠っていたいろんな考えが浮上してくるから、話し始めて考えればいいともいいました。心のもやもやに言葉を当てはめるんじゃない、言葉を使って心にある考えをはっきりさせて、引き出すんだといいました。言葉と心の順番を逆にしろと言うことです。何でもいいから声帯を震わせれば何とかなるのです。もちろんそれですべてがうまくいくとは言いません。しかし、この苦手な場をやり過ごそうと、例の、あの、いつものチキン振りを維持したままでは、貴方の人生は絶対に変わりません。学校に行った人間は、話して言葉を使って活路を見出す以外に生きて行く道はないのです。