2015年6月24日水曜日

沖縄戦70年に思う

 6月23日は、沖縄での第三十二軍の組織的闘いが終わった日である。 すでに70年を経た。
 牛島満と長勇が勝手に腹を切った日だ。 小禄の海軍基地の地下壕で大田実中将が最後に残した打電文に、我々ヤマトンチュはどうこたえて来たのか?

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 自分は、大田中将が自決した海軍地下壕を五回訪れた。そして、その地下壕で大田が何を想ったかを何度も考えた。 首里城の32軍守備隊が敗北した時、「住民は首里城に参集し、皇軍は南下して最後まで闘うべし」と命令すれば、住民の10万人が死なずに済んだと言われている。

 今日の安保法制議論に不可避的に影を投げかけるのは、この時の「軍隊は軍隊を守るのであって市民を守らない」という歴史的教訓である。これは一般論ではない。「あの」皇軍は住民よりも皇軍が生きながらえることを当然の論理として選択したという「歴史的経験」論である。文藝春秋による「安全保障の常識」には書いていない項目だ。

 これがどれだけ戦後70年の安全保障論議の枠付けをしてしまったかを考えねばならない。どうして我々は集団的自衛権を前にしてどうしても一度立ち止まるのか? それは軍人よりも市民が沢山死んだという事実の重さがあるからだ。軍がどうしてさほど整然と国民を守るものだと前提にできるのか?

 もう一度言う。

 集団的自衛権を行使することの是非は、そういう歴史的コンテクストを無視して議論できないのだ。一般論で戦争や国防は語れない。集団だから単独より楽だとか、そう言う話ではない。 沖縄は、そういう過酷な経験と、そこに連なる戦後の苦難を経て、「アメリカに主権を奪われている状態(日米地位協定)を前提にものを考えることは止めた」という宣言とともに、オール沖縄というフロントラインを自生的に生み出したのだ。ヤマトンチュができないことを、苦悩から生み出したのだ。

 これは「沖縄の負担は、日本がアメリカを守る義務を免除された代わりに払う代償である」というロジックでは、永遠に理解できないフロントラインである。いったい誰が愛国者なのか?

  我々は、「カクタタカエリ」とされた沖縄県民の後世に格別の御高配をかけてきたのか?御高配ではなく、なおも積み重なる借財を放置してきたのではないのか? 今年もまた6月23日である。申し訳ない。本当に申し訳ない。 我々は、まだ借財を返済していない。

  行政府の長は、今日、摩文仁の丘のそばでいったい何にコウベを垂れたのだろうか? まさか牛島満という英霊ではあるまい。

  冗談は、6月23日に言ってはならない。