2011年4月11日月曜日

学生に告ぐ!:批判するとはどういうことか?

批判するとはどういうことか



<アリガタイ事としての「批判」>
 批判されるのは嫌なものです。誰だって貶(けな)されるよりも褒められたいものです。この世にあらゆる批判に耐えられる人間などいません。しかし、学問の世界ではこれが無いと何の意味もありませんし、「学問≒批判」と言ってしまっても良いくらいに大切なものです。このことを大学までやって来た19歳はまずとにかく自分に言い聞かせなければいけません。批判的営為のない学問とは形容矛盾であると。
 でもそんなことはわかっているのです。批判的考察が無く、ただ褒め続けるだけの世界で知性など発達しないなんて当たり前です。ワカッテマス。しかし、わかっていてもムカつくのです。批判されると。面白くありません。なるべくなら批判なんかされたくありません。そんなところに留まっていると、いつまでたっても勇気をもって大学生活を送ることができませんから、やはりこの問題についてはちゃんと考えなければなりません。批判し、批判されることがどれだけの御利益を含んでいるかをきちんと知れば、非建設的なムカつきから解放されますから、やはりここは少し考えましょうというわけです。
 まず非常に当たり前のことなのに、多くの人たちに忘れられている、あるいは見過ごされていることがあります。それは「批判する」という行為が非常に愛に溢れた行為だということです。愛が大袈裟なら、敬意や尊敬でもいいでしょう。よく「愛憎」などという言葉が使われますが、このセットは非常に多くの誤解を生み出す傾向にあります。「愛と憎しみ」という、この対極的な感情が云々とお決まりのフレーズと共に使われますが、実は多くの方がもはやお気づきのように、愛の対概念は憎しみではありません。私から言わせれば、「愛」も「憎しみ」もいずれも実に愛に溢れたものです。相手を、誰かを憎むというのは、大変なエネルギーを必要とする行為です。対象に向けた相当な「気持ち」を動員しなければ、早々憎むことなどできません。ですから、愛情の対概念は憎しみではなく「無関心」です。対象を路傍の石とみなすことです。
 このような前提からすれば、相手を批判するということは、相手に多大なる関心を持っているということであって、それはつまり根本的な部分で相手に対して愛情と敬意が存在するということの証なわけです。言い換えれば、相手を批判するということは、相手を愛玩動物のようには扱わない、一人の人間として重んじているということです。実は、愛玩動物のように相手を扱うと良いことが一つあります。何よりもそうすると相手から嫌われません。未熟な人間はそのことをもって「自分は愛されているはずだ」などという哀しい誤解をします。こういう関係をよく大学でも目撃します。どう見ても、学生を愛玩動物のように扱い、すべて肯定してやり、褒めてやり、気持ちの良いところを突いてやり、笑顔を絶やさない扱いをしているのを見て、私は本当に「冷たいことするなぁ」と思います。そういう教員を私は「ツンドラ教員」と呼んでいます。そして、冷たいなと思いつつ、他方彼(女)の気持ちもよくわかります。すべての学生に同等の愛情を傾けるなど不可能ですから、自ずと強い意志を持って学びの場に臨んで来る者たちに多くの愛情を注ぐことになってしまいます。そんな時、そうでない多くの者たちを路傍の石にしてしまうと、彼らは拗ねてしまいます。これがエスカレートして、出鱈目で甘ったれたクレームでもつけられたら大変ですから、リスクを低減させるためには愛玩動物のように扱うしかない場合もあります。
 話がそれましたが、要するに批判するということは、相手をどこかでリスペクトしているからであって、だから批判をしたりされたりするやり取りが存在するということは、アリガタイことだということです。そうでなければそんな面倒なことを誰がしてくれるかと言いたくなります。もし相手が何か批判めいたことを言ってきて、その物言いが自分に対する敬意を含んでおらず、単なる悪口や中傷の域を出ない者、あるいは自己のフラストレーションのはけ口の対象として自分が「ランダムに」選ばれただけの存在とされていることに気が付いたら、その時にはもはやこちら側の相手に対する愛情や敬意が育っていく契機が失われますから、即「ツンドラ」な言葉で終わりにしてしまいます。「残念です」と。これ以外の言葉を発する必要はありません。それ以外のやり取りは、相手を重んじてしまいますから。
 批判するとは、そのような愛と敬意をもって以下のようなことをわざわざ親切にしてくれることです。実は、我々は批判するという日本語表現そのものに染み付いてしまったニュアンスから逃れていないために、批判という行為がおおよそ以下三つのことに収斂するということに気づいていません。整理して考えてみると、その言葉が持ったささくれ立ったニュアンスが弱まることに気が付くはずです。

<批判する①:事実を示す>
 批判するという行為の中には「事実はこうですよ」と指し示すことが含まれます。特に、ある事実を示した人に対して、「正しい事実はこちらの方ですよ」と示すことで批判することになります。ある国会議員の秘書が3人逮捕されて、3人全員が「自ら有罪を認めている」という「事実報道」がなされていますが、事実は3人全員が一貫して無罪を主張しています。これは完全に誤報ですから、全国紙の新聞報道によって伝えられたことは「事実ではありません」という指摘をすれば、これは批判作業です。あるいは、フリーのジャーナリストが、大新聞とテレビの記者が作っている閉鎖的で権威的な記者クラブからいつも理不尽な排除を受けるので、自らの経費負担と努力で有力政治家の会見を行ったところ、記者クラブはこの会見を「記者会見」と報じず、「インターネット番組」と意図的に誤報したため、フリージャーナリストが作る自由報道協会は、「インターネット番組というのは事実ではありません」と批判しました。わかり易い例です。一番シンプルな批判行為は、「ファクト(事実)が違いますよ」と注意を促すことです。「この嘘つき!」と言われると、「言いやがったな、この腐れ外道がぁ!」となりますから結果的に「喧嘩を売る」ことになりますが、「事実はこちらの方ではないかと思われますが…」とやるとジェントルな「批判」となります。

<批判する②:「説得力が弱い」と指摘する>
 批判するとは、「そんな説明では駄目ですね」と言うことです。駄目だと言われても、駄目さ加減もいろいろありますから、ヴァリエーションを示す必要があります。
 まずは(a)説明の弱さ、次に(b)問いそのものの有意性の低さ、の2つがあるでしょう。例えば、元与党代表は「政治とカネ」の問題に鑑みて議員を辞職するべきだという主張があった場合、(a)に依拠した批判はどうなるでしょうか。(a)は「説明の弱さ」ですから、説明が弱いということは理屈として説得力が弱いということです。辞職を主張する人は、「秘書も3人逮捕されて罪を認め、本人も政治資金規正法に反する虚偽記載を理由に起訴されているから」と根拠を示します。しかし、実際は秘書全員無罪を主張しており、無罪となる可能性もあります。そもそも議員の起訴理由とされているものは刑法上の罪と呼ぶには前例から見ても余りにも軽く小さなもので、与野党含めて他の議員も何百人もの人たちが同じことをやっていて、この議員以外全員「記載訂正」するだけで罪に問われていません。この議員の場合だけ、元々検察すら起訴を諦めたのに、実態の不透明な検察審査会によって強制的に起訴されました。そうなると「責任を取って辞めるべきだ」とする主張には、あまり説得力があるとは言えません。その意味で、批判されるでしょう。
 そうなると(b)の駄目さ加減、つまり「元代表は辞職するべきか否か?」という問いそのものの立て方自体に問題があるという話にもなります。そもそも「何の責任」であるのかが、全く明らかにされていないのですから、「責任を取って」という部分が無意味となるでしょう。つまり、「貴方のおっしゃる事は、合理的にものを考える人間をきちんと説得するにはあまりに根拠が弱く、彼を辞職させる妥当性についての説明能力が低いです」という批判になるのであって、さらにもう一歩進めれば、「これまでのところ、元代表に責任があると判断する根拠として示されているのは『全国紙記者の著名なOBが直感として有罪に決まっていると言っているから』、という事と、『彼の政治の師であった旧派閥の親分の政治手法を伝統的に受け継いでいると言われているから』の2つしかありませんね。これはいずれも『思い込み』の域を出ない、ただの印象に過ぎませんから、そもそも『辞職すべきか否か』という問いを立てること自体にあまり意味がないですね」と批判されて終わりです。
 言論の評価において最も大切な基準は、その論が「強いか弱いか」です。そして、この場合の「強弱」とは、「説明能力が高いか低いか」という事だけを意味します。根拠が弱く、まともに筋道を立ててものを考える人々をどれだけ納得させられるのか、そもそもその問題の出発である「問い立て」は意味あるものなのかが重要で、もしそうでなければ「論が弱い」と批判を受けます。「その言い方では説明力が足りません」と言う評価のことです。言わずもがなですが、この説明を試みている人の「人柄の悪さ」や「親切心の足りなさ」などは、この論の批判とは何の関係もありません。その人の容姿も関係ありません。「いかがなものか」とされているのは、ただただその「理屈の力のなさ加減」であり、逆に言えばその「反論と反証のやり易さ加減」です。「そんな簡単に反論できることおっしゃってどうするのですか?」という突っ込みです。

<批判する③:異なる世界解釈を示す>
 「そんな説明じゃ納得できません」と批判するだけでなく、それにおっ被せて「こう考えるのが妥当じゃないですか?」と一歩進んで、相手と異なる世界の解釈、世界の理解の仕方を示すのも、極めて建設的な批判行為です。ある政党が、これまでの政府の政治運営の駄目な所をすべて改革することを訴えて選挙に臨み、多くの有権者の支持を得て政権交代を果たしたとします。ところが数年後には、手のひらを返したように次々と公約を反故にして、前政権のやって来たことをそのままなぞるようなことになった場合、この有様はどのように理解され、解釈され、そして説明されることになるでしょうか?
 新しい政府への期待が大きく、同時に旧政権への失望も大きかった人々は、こうした新政権の変化を「裏切り行為」と解釈するかもしれません。野党時代には、清く正しく斬新なことを言っていた連中も、権力を握った途端に堕落を重ねて、利権と癒着して、腐敗して、有権者や公共の利益を蔑(ないがしろ)にして、要は私利私欲に走ったのであって、だから政治家など所詮は皆そんな連中でであって、今後何度政権担当者が入れ替ったところで政治は変わりなどするはずもなく、損をして裏切られるのは常に我々弱き民草なのだと。
 しかし、少しでもこの世の大人の世界を知り、もう少し現実の有様を踏まえつつ、自分の頭で考えることができる人なら、こうした事態をただ単に「裏切られた革命」という素朴な話の中に落とし込むような安易なことはしないでしょう。いったい自分は何者なのかという、小指の先ほどの謙虚さがあれば、このような勧善懲悪の裏返しのような反応をして嘆き悲しむようなことはありません。この「裏切られた革命」説は、事態の解釈としては別のさほど荒唐無稽なものでもありませんが、日本の政治は痩せても枯れても、所詮は100点満点の55点のものであっても、一応民主政治というシステムとルールの下で行われています。ですから、心がけの悪い、悪徳政治家が権力掌握と共に一気に、一挙に腐敗して、同じ党派の政権担当集団のメンバーが一斉に雪崩を打ったかのごとく悪に手を染めて私利私欲に走るなどということが起こるはずはありません。そんなことは、この巨大なシステムの下では逆に構造的に起こり難いし、制度やルールの「慣性」といものを考えても、それほど安易に権力を暴走させることが可能であるはずはなく、一部の権力者が他を圧倒するような権力構造が現行の政治制度で即稼働することも不可能なのです。
 そうなると「裏切られた革命」説は、退屈を紛らわす読み物としては悪くありませんし、そのことで人々の情念に健全な波風を立たせるものとなれば、それはそれとしてある種の役割を果たすことになるかもしれませんが、冷徹なる現実の解釈としては、あまりにナイーヴなものとされる可能性もあります。元来、それほど道徳的な善悪がはっきりとした中で政治が展開するならば、これほど政治学が苦闘するはずがありません。善意が反転し、悪意が偶然の力学の中で人民を救い、巨悪が駆逐される事態に手を貸し、かつ人々の無意識が獰猛なる停滞を固定させ、保守する心とその精神の稼働が世界を流動と液状化へと導くことすらありうるのが「政治」の営みである以上、政治の世界はもう少し冷えた、そして乾いたタッチで把握されなければならないはずです。
 長い間野党の立場で研鑽を積んだ、さほど無能とも思えないような、そして我々同様一夜にして志を豹変させるわけでもなく、かと言って正しき道を頑なに固守する鋼のような精神を用意しているわけでもない、そして志のためには人民に命を預ける勇気もないが、それでもある時には我を忘れてコミュニティにコミットすることだってある、要するに「我々のような凡庸な人々」が政治家です。そうした人々が、もし長年にわたる旧政権のやり方をそのままなぞるような、現状追認のようなパフォーマンスに終始するようなことになっているのなら、その時にはその理由をそうした政治ゲームのアクターの「心がけ」の問題として問うのではなく、アクターが替わっても、メンバーが入れ替っても、依然として変わらぬ「構造」、「カラクリ」、「隠れたゲームの裏ルール」、そして「相変わらず残り続けているアクターたち」の存在に何らかの原因と、このような事態を招いている要因を求めることで得られる、「大人の解釈」といものが存在するはずです。この場合、世界の解釈は「裏切られた革命」とはならず、「連綿として続く何らかのものについて」というものになります。
 有権者の期待を背負って、新政権の船出をしたが、選挙で入れ替わることが無い官僚は、様々な業務のレベルやプロセスで「洗練されたサボタージュ」を執拗に繰り返し、100年以上もの時間をかけて熟成させた、芸術的なまでに巧妙な手口で既得権益を擁護せんと、社会をエンジニアリングできると素朴に信じる経験不足の若手政治家をチームで洗脳し続けた。行政事務、とりわけ予算編成にかかわる膨大な情報をほぼ独占している状況の下で、官僚は財政の基本構造には絶対に手を加えることができないように様々な工夫を凝らして、政治任命の大臣たちを籠絡し続けている。このようなことが隠然と行われているにもかかわらず、これを有権者に伝える使命と責任を持つはずのマス・メディア、報道機関は、元からあったかも疑わしい「ジャーナリストとしての矜持」を完全に放棄した。そして自らの情報渉猟の無能も手伝って、国家行政機関がリークした「大本営発表」を全社横並びで垂れ流すだけで、行政や政府を監視する機能を果たすどころか、長期にわたって続いた旧体制下で習わしとなっていた様々な悪しき慣行が露見することを恐れ、既得権益を死守せんとする巨大な利権・官僚省益と共同で、改革を委ねられた新政権を引きずり降ろそうとなりふり構わずに与党の足を引っ張った結果、人々は新政権の無能と不能と不実をなじり、改革の旗は降ろされ、二大既得権益集団である官僚とマス・メディアの誘導した通りに、世論は形成されつつある。このように解釈されることあり得ます。まさに批判的解釈、批判的現実考察です。
 ここでは「裏切られた革命」説に対して、「隠れた利権集団による世論誘導」説が、別の、異なった現実解釈、現実理解として示されることで、前節を「批判する」ことになっています。②同様、やはりここでも「裏切り説」では、現在生じている事態を十分に説明できていないという批判から、多くの人々が合理的に考え、大人の常識で考えればある程度納得できるだろう説明をぶつけることで、批判的な考察がなされることになります。ここから「昨今の状況は、政治家が変わってしまったからではなく、旧構造を守ろうとする者たちによる抵抗によって起きていることだ」という見方が示され、裏切られた革命説という解釈では不十分だという評価が出てきます。まさに批判とは「異なった解釈の提示」です。この時、またまた言わずもがなですが、批判する側が現政権に好意的であるかないかは(気持ちはあるにはありますが)、やはりこの議論には何の関係もありません。問われるのは、とにかく新しい解釈が「話として出来が良いか悪いか」だけです。もし出来が悪ければ、誰かまた別の論者が、また別の解釈を示してくるかもしれません。そしてそれは、自ずと前者2つの解釈にとって批判的な存在とならざるを得ません。
 批判的な解釈を示されたからといって、ムカつく必要は全くありません。逆に、胸を張るべきだとも言えます。何しろ自分の世界の解釈が存在したために、そのお蔭で、別の人の解釈を生み出させた可能性もありますし、少しでも多くの人々が肯(がえ)んずることのできる解釈を作ろうと努力がなされたことで、この問題にかかわる多くの人々全体のレベルが向上したかもしれないのですから。こうしたことも、「敬意を伴う批判」によってのみ生ずるのです。

<アリガタイ関係のために不可欠な「マナー」>
 議論をし、言葉を重ね合わせることで皆の水準が上がっていくという、非常にアリガタイ関係が正しく機能するためには、私たちがこのアリガタさを忘れずにいられるための条件が必要です。なぜならば、このアリガタさは別の言い方ひとつで、あるいは使う言葉の選択のわずかな差で、いとも簡単に色あせたものとなってしまうからです。①の例では、「事実(別の)を示す」ことで批判がなされることがわかったと思いますが、これを「嘘つけ!」とやっては、温もりに満ちた心が急速に冷えて、相手を一気に攻撃的にさせてしまいます。相手の説明力の弱さを指摘するにしても、「そんな説明では何も明らかにならない!」と言うよりも、「この部分がもっとクリアになれば、より一層説得力が増すかもしれませんね」と言う方が、相手のやる気とポジティブな精神を引き出せるかもしれません。③の、別の解釈の提示においても、「これこそが現実の最良の解釈である!」として示すだけでなく、「この解釈とこれまでの解釈を統合できれば、世界はより立体的に我々の前に立ち現れるかもしれませんな」というニュアンスを加えれば、所詮は世界の部分しか解釈できない我々人間の課題が、まさに共同作業によって取り組まれるべきものであることを強調し、喚起させることに結び付くかもしれません。
 このように考えれば、批判するという行為は、常に「我々の知的共同利益をどうすれば生み出させることができるか」という志向性とセットでなされるべきものです。批判とは、切った張ったのために行うものではありません。共同で世界を切り開くための、アリガタイ営為なのです。これほど貴重なことを野卑で子供っぽい言葉や振る舞いで台無しにするのはもったいないことです。