2015年4月26日日曜日

「公」(おおやけ)は「国家」とイコールではありません

【公(おおやけ)の意味をすり合わせないから隣人を友人と気がつかないことになるのです】

 人々が共同で大切にしたいと思うものは、大雑把な言葉を使っていてはなかなか発見できません。他者を重んじ、家族を愛し、地域に根ざし、ある種の共同性なしに自分の人生は立ち行かないと考えるなら、そしてその気持ちを共有しているなら、「公」(おおやけ)というものを漠然と「国家」という言葉に吸収させてしまうことは、非常にもったいないことです。なぜなら、我々にはともに守りたいと思うものがたくさんあるのに、この国家というビッグワードによって、それを協力しながら守ろうという気持ちが削がれてしまうからです。
 国家という言葉の非常に困った側面です。

 以下、私が考える公(おおやけ)の意味を示し、そう考える理由を書きます。

「公」というのは、実体として存在する組織ではなく、だから「国家」などというものには回収されません(そもそも、B・アンダーソンは国家を「共同幻想」としています。国家は「国家・政府機構」だけでなく「そういう大きな括りに守られているんだなと思いたい気持ち」にも支えられているという意味です)。オオヤケとは、様々な個人的世界解釈が出合ったり、ぶつかったり、変わったりすることで、そうした人々の言葉の持つはっとさせられる隠れた力や、思いのほか説得力のない大声や、人々の沈黙の傍らに浮遊する思いなどを発見し、そしてそれら「評価する場所」のことです。
 そしてそのためには、その場に行き交う人々の言葉を受け止め、かつ「過去の人々」である亡くなった諸先輩たちや、これから生まれるであろう者たちの間ですら合意をつくれるような、連帯的で歴史的な意志形成を信じようとする場所のことです。ですから、この場合のオオヤケは「過去と現在と未来を互いに結びつけるための公開性」という意味です。
 オオヤケをひたすら「国家」としてしまうと、非常に大切なことが見失われてしまいます。民主政治の下では「人々の声を集約することで人為的に地理的に一定範囲の国家意志を形成する」のですが、ことにどうしても付随してしまう、ある「危うい現象」への警戒心が下がってしまいます。それは「国家意志が政治家や官僚を通じて、人々から自立・独立しようとする生理」のことです。
 国家は「人々によって意志を与えられ、それが民主的に選ばれた主権となるのだから、国家がオオヤケであるとして何がおかしいのか?」と法律論を根拠に反論されます。法制度の観点からはそういわざるを得ません。しかし、国家は「機構」であり「組織」であり、「意志を政策化するための交換装置」ですから、もしそうした装置が固有の「意志」を持ち始めたら、それは人々の気持ちや意志とは疎遠なものとなってしまう可能性を常に抱えています。つまり、そこに「注意せよ」という札をはっておかないと国家意志を相対化させるための契機が失われてしまうのです。
 「国家の意志は人々が注入したものだが、それが常に人々の考えと一致し続ける保証はない」というのが「法制度」ではなく、「政治的に」デモクラシーを考える大前提ですから、その意味でオオヤケには「常にああだこうだと人々が自由に言葉で行き交える場とチャンス」という役割が求められます。そしてそれを根本から支える原理が「公開性」です。

 これは、私が公を定義する際の最大の理由です。

 ここに照らして、この「公開性」を毀損するもの、阻むもの、障害となるもの、台無しにするもの、言葉、運動、政治が立ち現れたとき、私はこの公開性を取り戻すために言論活動を随時展開します。

 私は、昨今の小林よりのりと政治的に連帯したいと考えますが、ここをきちんと詰めれば、沢山の友人のひとりとなるかもしれません。
 『新戦争論1』を読んで見ようと思います。