「質問」とは「ただ」尋ねる事ではありません
<「教えてぇせんせぇ」の19歳>
入学式を終えて数日の19歳は、まだ右も左もわからず所在なさげな様子ですから、ぼんやりと困っている者を観ると、春先の新鮮な気持ちも手伝って、ついつい「どうした?新入生かい?わからないことがあるならどんどん尋ねなさいよ」と声をかけてしまったりします。一年生というのは本当に初々しく、彼らを見慣れると、4年生なんかはとてつもなくオッサン臭く見えてしまいます。
しかし、むやみに親切にすると後で必ず後悔することとなります。自分のところに質問の行列ができてしまうからです。しかもその質問の内容たるや、もうここにいるのは大学一年ではなく中学7年生だと思いたくなるような幼稚さです。「図書館ってどこにあるんですか?」とか「ゴミ箱無いっすか?」(実話)などと尋ねられます。忘れられないのは、クラス・ミーティングが終わった直後に「調布市役所の電話番号って何番ですか?」と、九州出身の18歳に聞かれた、三年前の4月の出来事です。市役所の電話番号・・・?先生というものはすべからく皆ドラえもんなのだという誤解がそこにあったとしか解釈ができない衝撃の事件でした。やめられません。この仕事。
でもまあ、こうした事は、困ったことがあるといつでも大人がやって来て解決してくれたという、子供の人生の延長を未だにやっているだけですから「そういうのは自分で何とかしようねぇ」と気持ちの悪い猫なで声で言っておけばいいのです。そもそも「文明社会とは子供が大人として成熟しなくても致命的な問題が起こらずに生きて行ける社会のこと」ですから、仕方がないのです。昔は「このような要件を電話なんぞで大変失礼なのですが」と謝り、本来なら手紙を書いてお願いを乞うか、自ら出向いて礼を尽くしてお願いするという「成熟した大人の振る舞い」が要求されましたが、テクノロジーの発達は、そうした熟した礼節などを一掃してしまいました。今日、こうした例から最も遠い所に来てしまって、通常は「先生今日学校来ますか?」と携帯メールを打ってキヤガリマス。
このように昨今は特に大人になんかなる必要がない、文明社会の「大甘度」が急上昇中ですから、毎年四月に19歳のオシメの取り換え作業をやる羽目に陥るのは、もはや不可避なることです。文明社会とはそういうものです。これはもう飽き飽きとしつつも、ある程度は仕方がないと思うしかありません。図書館の場所も教務課の窓口が閉まる時刻も、休講情報の入手の仕方も、慣れてくれば自然にわかりますが、それまでは10回のうち7回は「自分で調べろよ」と言いますが、3回は教えてやるしかありません。でもそういうことは何とかなるし、学問の世界というより一般の社会での振る舞いの話に吸収されます。
看過できないことになっているのは、いつまでも成熟しない授業や勉強に関する質問です。これは、二年生になっても、酷い者は四年生になっても、ほとんど成熟しません。このため何年学校に通っても、日本の若者知的水準を向上させるための機会を自ら手放してしまっているのです。あんまり勉強してないのは言うまでもないのですが、それ以前に「質問する」作法がてんでなっていないので、教員の力と愛情を上手に引き出せないのです。困ったことです。では「未成熟な質問」とは具体的にはどのような質問でしょうか?
<「ただ尋ねるだけ」の質問>
高校生までの学校人生をそのまま持ってくる困った質問とは、要するに「答えを聞きに来る」質問です。どうやら大学に昨今来る19歳は質問というものを「正解を教えてもらうための陳情」だと考えているようです。
授業が終わります。時間ぎりぎりにならないで終わるときには、最後の五分くらいを質問の時間にして「ここまでの講義で何か質問がある人はレイジュユァヘーンズ!(手を挙げて)」と促しますが、その場で挙手する者はたまにしかいません(挙手が認められる場合のほとんどが「エアコンが寒いんですけど」というクレームです。自分で温度下げろよ)。無いなら終わりましょうと言って黒板を消していますと、ゾロゾロとどこから湧いて来たようにノートを片手に持った人たちがほぼ扇型に私を取り囲み、何やらタイミングを見計らっています。やれやれ。またかよ。黒板を拭き終わった頃に、ようやく一人目が質問してきます。
A子「スイマセン、先生、授業の最初のところで言ってたマキャベリは政治を〇〇の関数
だと言ったとか、そおゆうことだったと思うんですけどぉ、〇〇の所って何でした
っけ?」
岡田「(・・・)そんなこと僕しゃべったっけ?」
A子「えぇ?(アセアセ)確かそう言ったんですけどぉ・・・」
岡田「マキャベリの話のところで言ったのは、『政治は自然秩序の中に埋め込まれていた
が、近代政治学とは言わばそこから政治を発見することで発展してきたのです
ね』っていうことで、それがどうして関数の話になるのかな?」
A子「はぁ?じゃぁ、この〇〇の所はホーチ(放置)で大丈夫なんですかぁ?試験とか
でぇ・・・」
岡田「(・・・ま・た・か)大丈夫だと思うよ。穴埋めの試験とか無いし」
A子「はぁ・・・(でもまだなんか不安)」
岡田「ほんじゃ、次はだれ?」
B夫「ええっとぉ、さっきちょっと終わりの頃に、なんかトーダイの先生の書いた参考文
献がどうだとか言ってたじゃないですかぁ?」
岡田「『どうだ』?何だそれ?」
B夫「(無視して)あれってやっぱ試験的にはオススメって言うか、読んだ方がいいんで
すか?」
岡田「君が読んだ方がいいと思うなら、読んだら?文庫だから安いし」
B夫「図書館とかにないんすか?」
岡田「(・・・うんざり)自分で調べろよ」
B夫「・・あっ、わかりました」(ムカついている)
岡田「んで、次は?」
C介「・・・って言うか、授業に直接関係ないんですけど、いいっすかぁ?」
岡田「(・・・嫌な予感が)ま、内容によるけど」
C介「今日、なんか『神の秩序』とか『キリスト教的愛』みたいな話あったんすけど、自
分、けっこう前からその辺(へん)アツいみたいな感じで、もしそのあたりオスス
メの本とかあれば・・・」
岡田「『あればぁ』・・・何?」
C介「教えてもらおうかなぁって・・・」
岡田「『そのあたり』って、どのあたりのこと?」
C介「神の愛みたいなぁー」
岡田「『みたい』って何だ?」
C介「いや、よく自分でもワカンナイんすけど」
岡田「じゃ、俺もワカンネェよ。悪いけど」
C介「はぁ・・・(え?俺マジウザがられてる?)」
岡田「(ふう。俺はドラえもんのぽけっとじゃねぇっつぅの)」
A子さん、B夫君、C介君と、それぞれ異なった質問ですが、まずA子さんは、質問とは「答えを教えてもらうためにすること」と考えています。19歳に典型的なパターンです。こうなる理由は、先ほどから言っている「高校までの学校人生の幼い癖」です。数か月前まで高校生だったのですから仕方がありません。B君も大差ありません。参考文献を読んだ方が試験対策になるかどうかを気にして、その判断を試験問題を作るはずの私に尋ねるというマヌケ振りですが、要は「その本には答え(となりうる)情報が入っているのかどうか」を尋ねていますから、A子さんの別ヴァージョンとも言えます。C介君は、授業の内容から刺激を受けて、独自の問題領域への好奇心をぶつけてきていますが、初めて入ったフレンチ・レストランでワインと前菜をシェフにお任せしているような風情で、楽して有益な情報を得ようとしています。
レストランなら許されます。お金を払っていますから。しかし、教室での質問の際には、オススメ本を尋ねるのは御法度です。高い学費を払っているのから、教えてやるのが当然だとおっしゃる方がいるかもしれませんが、私が言っているのは「ただ尋ねる」のは駄目だという事です。「ただ尋ねるだけ」とは、簡単に言うと「宿題やってぇーパパァー」という「面倒くさいことの代行願い」のことです。ちょっと見ただけでは、C介君の「オススメ本リクエスト」は勉強熱心な質問のように感じられますが、実は「色々面倒なので、一番の近道を教えてくれ」という、ムシのよいお願いに過ぎません。その何と言うか、「尋ねれば答えが出てくるに決まっている」という、自動販売機的感覚が私たち教員をイライラさせます。やっぱりドラえもんのポケットだと思っているだろう?俺たちの事を。
一体この三人の19歳に欠けているのは何なのでしょうか?
<「この先が」ワカラナイという問い>
高校までの学校人生と大学以降のそれとの決定的な違いとは、大学に来ている人たちは原則として全員「こちらが頼みもしていないのにわざわざ面倒くさいところに自分からきた酔狂な人々」だということです。ここは大切なポイントです。もちろん多くの人が我が大学を目指してチャレンジしてくれることは大変ありがたいことです。しかし、自分が勤める大学だけではなく、一般的に言ってしまえば、大学という所は通常「来たい人だけ」が来るところです。厳密に言えば高校だってそうです。義務教育は中学までですから。 註1
しかも以外にも政府が教育にお金を拠出しない我が国でしは、年間にだいたい100万円くらいの学費が必要です。時給1000円のバイトで1000時間の労働が必要です。こんな所なんか来なければ、忙しいとは言え年収250万円くらいはもらえる職業に就けますし、ということは払った授業料との差額は350万円くらいです。大変なものを犠牲にしてこんな所まで来ていることになります。来たいから来ているというスタートラインです。
だとするならば、そんな所にわざわざ来る人は、大切なことを一つ分からなければなりません。それは、原則ここに来たら「自分の力で走り続ける」ことを前提にして生きて行かなければならないということです。「連れてってもらう」のではありません。「自分で」走るのです。大学という知的コミュニティにおいて成長するための基本原理は、「まずは自分のできることをできるだけやっておく」ということです。多くの人が気付かないまま大人になってしまうのですが、貴方は「白い無地の画用紙」ではありません。白い画用紙に、綺麗な絵の具を塗ってもらおうとしているような、依存的な精神態度しか持っていない人は、大学以降の人生が全く幸福なものとなりません。この場合の「幸福」とは、「成績優秀となる」という意味ではありません。「知的な興奮を得る喜び」のことです。
貴方は、もはや18年の短くも苦しい人生で、すでに白の画用紙に何らかの色や文字やデザインを描いて来ています。そして、大学までわざわざやって来て、何をするかと言えば、今のところはまだ何のメッセージを持つのかも不明な、貴方自身の画用紙にまた別の色や文字や「何か」を叩き付けて、世界に対して、たとえ拙い物であろうと何であろうと、メッセージを送れるようにするわけです。頼まれもしないのに、大学のようなある種のコスト・パフォーマンスのひどく悪い所に来る理由は他にありません。貴方のやることは自分自身を一つの「作品」として、それを世界に発信することです。
つまり貴方は、出来る所までマックスの力を出して常に自分の画用紙に何かを描き、まだ描かれていない部分が何であるかを考え、模索しなければならないのです。これが先ほど言った「成長」の核となるものです。そしてこの態度は、19歳以上の大人の質問をする際に絶対に不可欠なものなのです。
こうした基本となるものを努力してキープしながら「その上で」質問をすると、その質問は構造上必ず「ここまでは自分なりの理解を得られているのですが、この先がよくわからないのです」というふうになるはずです。白い画用紙に「何色で何描けばいいんですか?」と質問する者には、この世界では返す言葉は一つです。
「それはこちらで決められないので自分で決めてください」。
貴方の画用紙で世界にどのようなメッセージを送るかは、「これまでの」あなたのキャンバスに何が示されているかによって左右されますから、「何描けばいいんですか?」という他人任せの質問など、この世界で生きる大人たちには理解不能なものです。ですから、学ぶ基本意志を持った人間の発する質問で、我々教員の頭とハートと肉体がムーヴするきっかけとなる言葉はただ一つです。
「ここまではやったのですが、この先が苦しいのです。教えてください」。
我々教員は、この基本が見えない言葉や人間には原則何ら反応を示しませんし、肉体も動きません。それは、私たち大学教員自身が研究をする「学徒」の一人だからです。教授であろうと、博士号を持っていようと、広大なる世界と歴史と宇宙を前にして、知の世界においては実にちっぽけな存在です。そして、そうした謙虚な姿勢を忘れずに自分のできることを徹底してやり抜くべきだとする矜持があります。だから我々には「〇○の答えを教えてください」という丸投げ態度が理解できないということです。先ほどの原則「自分の力で走り続ける」を思い返せば、ここでの生活の基本イメージは「走りながら給水をする」ということです。間違ってもレストランに入って料理が出てくるのを待つのではありません。註2
「助けてほしい」という質問と言っても、色々なヴァリエーションがあります。もちろんすべての場面で、このような態度、非の打ちどころのない態度で臨むのもシンドイです。ちょっと聞くぐらいのことは、日常のキャンパス・ライフではあります。例えば「それってどこの出版社から出てましたっけ?」なんていう質問に対して、先ほどの原則を振りかざすつもりはありません。「ああ、それは白水社から翻訳が出てるよ。少し読みにくいけど頑張ってね」などと教えてやります。
でも、本当はこの質問も基本は「データを下さい」というものですから、「助けてください」という事であって、それなら「どこまでは自力で頑張ったのか」が問われます。種類から言えば、データそのものを「下さい」というもの、データの所在、その有無を教えて「下さい」とするもの、そしてデータの解釈について貴方(先生)の判断を確認させて「下さい」というものと色々ですが、これを自分の画用紙を白紙にしたままで「下さい」と尋ねることは許されません。それに対しては「どこまでご自分で調べましたか?」という、「貴方の画用紙を見せてください」という逆質問を受けることになります。それに対して「自分の場合、こんな画用紙となっているのですが・・・」と言われれば、我々学問の世界では、ようやく「やり取り」が始まるというわけです。
学部レベルではめったにはありませんが、この画用紙に描かれているものが非常に興味深く、また(ここが大切ですが)そこに大変な悪戦苦闘の痕跡が垣間見えた時などは、自分も知の宇宙の中では「塵(ちり)」のような存在、すなわち「宇宙塵」に過ぎないという謙虚な気持ちを思い返して、「じゃぁ、もしお時間があれば私の研究室でゆっくりと話しましょうか?」という事になります。こうなると「あれもこれもと教えてあげよう」という連鎖が起こり、同時に教員自身も、もっともっと勉強しなければ駄目だと、自分を叱咤するという、うれしい副産物すら生まれます。何と幸福な二人でしょう。でもこうなった理由は一つだけです。質問者が「この先がワカラナイのですが・・・」と尋ねたからです。あるところまで格闘した者たちに対して持つ、私たちの態度とは恐ろしく強力的かつ寛容なものです。ここに気が付くと、我々と学生の関係は極めて幸福な関係となって行きます。
<「聞く前にググれよ!」という事>
色々と書き連ねましたが、ここで言ったことは、それほど難しい話ではありません。大人なら、自分でまず努力して、何が自分に必要なことなのかをある程度確定させてから人に頼めよということです。ツイッターなどを見ていますと、若者にとってのカリスマ的存在である有名な思想家や評論家に対して、今日は直接メッセージを送れるため、色々なやり取りがこちらにも丸見えなのですが、時々、件の評論家が気の毒になるのは、こうした大人の作法をいくつになっても身に付けていない不特定多数の人たちに質問攻めにされているからです。うんざりしたその人は、「ったく、聞く前にググれよ!(「グーグルで検索する」の意味)」と突き放していますが、本当に気持ちはよくわかります。私たちが学生だった時代にはインターネットなどありませんでしたから、調べ物は原則図書館に丸一日籠って、何千枚もの図書カードと格闘することを意味しましたし、新聞の縮刷版を何万ページもめくる作業でした。今日、20年分の朝日新聞の記事の中に「リベラル」という言葉が何回出てくるのかを調べるのにかかる時間は数分に過ぎません。とにかく、とりあえずググれば良いのですから、丸投げ質問なんかするなということです。「質問の仕方、その内容を見れば、その人間のある程度の水準がわかる」という一般論がありますが、まずは「子供」と思われないように、「ここから先がわからないのですが」と言えるようになってください。
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註1 誤解されているのは、「ミドルティーンの者は中学に行って勉強する義務がある」と思われていることです。違います。ミドルティーンの若者には教育を「受けさせる義務」が「親にある」のです。
註2 「教育にも市場原理を」などという、完全に間違った考えが導入されつつあり、一定の財と引き換えに教育サーヴィスの提供を受ける消費者のニーズに応えるなどという、教育を崩壊させるやり方があるようです。サーヴィスの品ぞろえを消費者が判断できるように、シラバスという名の「メニュー」を用意しろなどと寝言を言っています。あらかじめ学ぶことわかっており、それをサーヴィスとして購入すれば自分がどれだけ豊かになるかが確定しているなら、そこには教育などというものは必要ありません。「学び」と「消費行動」とは峻厳なる区別をしなければなりません。