<疾しき沈黙:300万人が亡くなった理由と日本のエリート>
2年ほど前の8月にNHKで『日本海軍400時間の証言』という特別番組が三回連続で放映されました。300万人もの人々を死なせてしまった、あの戦争の指導層であった旧海軍のエリートたちが、1980年から密かに集まり、「海軍反省会」という会合を10年以上も続けていたことが明らかになりました。しかも、そこでのやり取りがテープ数百本に記録されていて、最近それが公開され、NHKがそれをこの放送で特集番組にまとめたものです。
問題は、いくつもの範囲に及んでいましたが、最も本質的な問題、最も重要な問題は、放送で表現された「やましき沈黙」というものです。「これはいかん」とか、「どうにもこれは誤った決定だ」とか、はたまた「こんな馬鹿げたことをやっていては大変なことになる」とまで思っているにもかかわらず、何も言わずにだまって推移に身を任せることを指します。「こんなことを見過ごしている自分に、勇気の無い自分にやましい気持ちを感じながら、それでも『それはおかしいのではないのか』と言うことができず、黙り続けるということです。
こういう「まいったなぁ、でも今更俺一人が流れに逆らうようなこと言えないし」という気持ちになったり、そうした立場に思いがけずになってしまうことはあります。本当は、毎回焼肉屋で吞み会やってるけど、課長が気に入ってるし、皆も本当は「焼肉ばっかだとちょっとキツイなぁ」と思っているかもしれないけれど、ここで俺が悪者になって「たまにはすっきり系で行きませんか?」なんて言えねぇよ。黙って流れに身を任せるか。あの男(課長)すぐ拗ねるからなぁ・・・。こんな話なら、「子供が熱出しまして、女房も勤めてるもんですから帰ります」で終わりですね。年に20回くらいあります。
しかし、ここでの疾しき沈黙は、そんな馬鹿げた日常とは全く比較にならない、とんでもない結果をもたらしました。もうあと少しで、昭和天皇の使った有名な表現で言うと「民族の滅亡」に至るような大きな失敗です。破滅的な戦争の結果、とてつもない数の同胞の死と人生の崩壊、国土の荒廃に至る結果を生み出してしまいました。
このことに関しては、どうしてもきちんとしておかなければならない一つの事情がありました。それは、こうした沈黙をした人々が皆「とてつもないエリートたち」だったことです。
<優秀だったはずのエリート>
あの無謀な戦争が決断される直前に、日本のエリートたちはただただ精神論だけで、言わば感情だけであのような重大な決断をしていたのでしょうか?そんなことはありません。優秀な日本のエリート軍人、政治家、官僚は、総じて言えばアメリカの戦争遂行に必要な国力・生産力はどんなに低く見積もっていても、日本の10倍以上であること、とりわけ石油の生産量の比較をした場合には「日本を1としてアメリカは700」という単純な現実をわかっていました。日本は、開戦の約一年前に、資源を求めて南部仏印(現在のベトナム)へ軍隊を出した結果、アメリカの怒りをかって、資産凍結と石油・屑鉄の輸出を止められてしまいました。このことは日本のエリートたちに大変な衝撃を与えましたから、石油も鉄も生産できない島国がアメリカと対等に戦争できるはずはないと、冷静に理解していたのです。中でもイギリス海軍を手本として発展してきた海軍は、欧米流の合理主義を基本にしていましたし、海軍のエリート層は多くの人々がアメリカやイギリスに留学していましたから、アメリカやイギリスの国力の持つ力を知らないわけがありません。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むと、明治時代の海軍のエリートたちがどれだけ合理的にものを考え、どれだけ冷静な現状認識を持って、ぎりぎりの努力で後発型近代国家である弱小国家でもある日本の運命を考えていたかがよくわかります。
海軍のエリートとはそういう人でしたから、昭和の海軍軍人は、それほどの知的伝統を持った明治の軍人の後輩でありながら、そしてアメリカとの戦争などということがどれだけ無謀なことなのかを良くわかったまま「勝てっこないとわかっていた戦争」に突入することにしたのです。全くもって「謎」に満ちた出来事です。20世紀の戦争が兵士たちだけの間で行われるものではなく、軍服を着ていない一般人ですら「銃後の兵士」と考えて行う「総動員戦争」なのだということも、二十数年前に勃発した第一次世界大戦の経験によって、世界のエリートの間ではすでにもう明らかになっていましたから、戦争をするという決断がどれだけ多くの人間の人生と生活と運命を狂わせるかということも、賢明なエリートたちにわからないわけがありません。
<とてつもないほどのエリートたち>
そもそも、軍のエリートがどれだけ「エリート」だったのかといえば、それはもう大変な人達だったのです。海軍のエリートになるためには海軍兵学校、略して「海兵」(筆者の父親は、生まれた年がやや遅く、このエリートになり損ねた世代なので、今でも憧れの表情で「カイヘェ」と言います)に入学しなければなりませんが、ここに入るためには「帝大(東京帝国大学)」に入るより難しい試験をパスしなけれがならなかったそうです。女学生は皆海兵の制服姿の凛々しい男子に憧れを持っていたそうです。もちろん陸軍も陸軍士官学校(「陸士」(リクシ))というエリート養成学校を持っており、いずれも選りすぐりの若者を輩出していました。「リクシカイヘイ」とよくセットで言われます。
今の人たちが誤解しそうなので注意を喚起するならば、こうしたエリート層を今の大学進学率のようなものを基準に考えてはいけません。今日、義務教育を終えて高校に行き、またその上の学校に進学する人は、大体同世代の半分です。つまり、高校を卒業した後も約半分の人々がなおも学校に行きます。しかし、海兵や陸士に多くの男子が憧れた戦前には、そもそも旧制中学(今の高校ぐらいの位置づけ)に行く人は同世代の一割ぐらい、旧制高等学校(今の大学1~2年ぐらいの位置づけ)に行く人となれば、もう同世代の1%ぐらいなわけです。戦前の日本では、同じ年に生まれた日本中の同級生のうちの90%は、普通は尋常小学校を出れば、丁稚となって働きに出るか、もう二年だけ高等小学校という「おまけ」みたいな学校に行って、そこを終われば後はもうひたすら働きづめの人生が待っていました。ですから、旧制の中学・高等学校を出て、それくらいまで「選ばれた」人々の間でも、そうそう合格できない、勉強もピカイチでかつ頑健なる肉体をも備えていなければならない、本当に一握りの者だけが行けたエリート学校が「陸士・海兵」だったのです。圧倒的なエリートです。
あの戦争の決断・実行・指導を担当したのは、そうしたエリート達の中でも卒業順位がシングルナンバーで(海軍では「ハンモックナンバー」と呼びます)、その先にまた超難関と言われた海軍大学校の卒業席次もにおいても優秀とされた、大人の世界での立ち回りの上手な出世頭ばかりが集まる「軍令部」に所属する参謀たちでした。同じ立場は陸軍では「参謀本部」と呼ばれますが、ここで働く参謀たちこそが、あの戦争の指導における実質的な頭脳だったのです。つまりあの戦争は、少なくとも海軍に関しては「アホな軍人たちの暴走によって起こったこと」というよりも、「あんなに優秀とされた人達があれほど集まっていたにもかかわらず、だれも止めることができなかったこと」なのです。後に詳しく述べるように、ここには「学校秀才が必ずしも賢明(wise)であるわけではない」というひとつの典型的な真実があります。
生き残り、かつ指導者として決断や決定をする立場にあった者が、このように優秀な海軍のエリートの中枢部で起こったことや、なされた議論、対立、判断、封印された問題などをできる限り思い返して、なぜあんなことになったのかを検証し、記録して、後世に伝えるべきであるという、真に賢明な判断により行われたのが、100回を超える海軍反省会の趣旨でした(ただし、この会が行われている最中は、公開してしまうと自由なことを言えなくなってしまうので、記録はするが非公開としたため、この詳細が明らかになったのは、最後の会合から十数年後の今日だったわけです)。
<合理ではなく「空気」を読んだエリートたち>
開戦の決断、特攻隊攻撃の立案と実行など、重大な決定の局面において、相当多くのエリートたちが「これは誤りだと思っていたが、それを公然と声に出して言うことができなかった」と告白しています。その中でも、非常に印象に残った言葉が、「あの時、強大なアメリカを相手に一戦打って出るということは、もはやあの状況ではあれは世界の大勢だったとしか言えません」というものです。「世界の大勢」という言葉で最初に思い浮かぶのは、言うまでもなく昭和天皇の玉音放送で使われた「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み」という、例のあの冒頭部分です。世界の大勢とは、世界の「おおよその形勢」のことですが、そもそもここで使われる「世界」というのが、一体どれだけの概念的、観念的、あるいは空間的な幅を持った「世界」だったのかは、あれほど優秀だった人々の言葉からは全く推論できません。言いかえれば、「もはやあの状況においては河の流れを止めることができんかったのだ」ぐらいの意味でしょう。ということは、スーパー・エリートたちにとって、資源・工業大国のアメリカと対等に戦争をする国力が日本にはないのだという「事実」認識は、開戦という「判断」に何ら影響を与えることもなく、開戦という決断に影響を与えたモーメントは「もはやそういう形勢が作られていたのであって、それに逆行するような議論をする流れではなかった」という、「流れ」にあったということを意味します。この「流れ」は言いかえれば、「空気」と言ってもいいでしょう。ということは、「アメリカと戦争をするなどという判断は狂気の沙汰とした言いようがない。みなさん、冷静になってもう一度考えてください。開戦となれば、数百万の戦闘員と非戦闘員の生命財産や人生を台無しにすることになりかねない、とてつもなく重い決定です。そのようなことを『そういう空気だから』などという曖昧な理由で決定できるのですか?」と、横並び、あるいは縦の関係において問いただすことすら「KYである」というのが、当時のスーパー・エリートたちの間にあった空気だということです。
なんたることでしょう。幾千万もの「ことば」を通じて、知識や教養、豊饒なる旧制中・高等学校の教育を受けて、人もうらやむ社会的立場を持った、国と人々の人生と運命を預かったエリートが「空気を読んで」開戦の流れに身を委ねたというのです。「世界の大勢」という言葉の意味内容すら、ここまで曖昧にして、この流れに乗るとどこに行きつくのかを相当に正確に推論することも予想することも可能であった頭脳を持ちながら、300万人を死なせるような決断を「流れとしてそれに抵抗できなった」という理由でしたというのです。
開戦に至った詳細な経緯をここで検証する余裕はありませんし、それに関しては優れた研究者がなお今日においても懸命に検証作業を続行中ですから、あまり深く足を突っ込みませんが、開戦直前の海軍の作戦第1課の参謀たちが書き上げたレポートのいい加減さは酷いもので、これを書いた者たちはもしかすると「マッド・サイエンティスト」に近かったかもしれません。「狂った危険な天才たち」は、エリート集団の中には必ず一定の比率で存在しますから(そういう連中を上手にコントロールすることができるということも含めてエリートの能力というものは考えられねばならないのです)、これは1日も早く駆除すべきだったという問題です。
信じられないのは、この作戦一課の「第一委員会」という閉じた世界で書かれたレポートを読んだ、海軍組織ナンバー・ワンの立場にあった永野修身軍令部長がこのレポートを読んで甚く感激し、強大な国力を擁するアメリカとの戦争に危惧していた昭和天皇に「大丈夫です。心配ありません」としゃあしゃあと言ってのけたことです。この第一委員会のレポートを読んだ「兵站・輜重」(物資の供給や補給を担当する部門)関係の元海軍軍令部にいた人々は、「兵器として物の数にも含めることができないようなポンコツや使い物にならない老朽化したものも全部書いてある、まことにいい加減な戦争計画書」と反省会で断罪しています。懸命なる軍令部のエリートたちの中には、永野軍令部長のおかしな発言や行動を訝る合理的な根拠を持った人々が必ずいたはずです。軍隊という縦割りの官僚組織の中で、軍令部総長にものを言える人間は沢山はいません。しかし、真珠湾攻撃の作戦を立てた、かの有名な山本五十六元帥は、アメリカとの開戦については「狂気の沙汰とした言いようがない」と、当初から問題外とみなしていましたし、何と言っても予算が止められれば、つまり巨大な軍艦も航空機もガソリンや重油なしではただの鉄の塊にすぎませんから、当時の財務の責任を担った旧大蔵省が「そんなお金はございません」とひたすら頑張れば、「しばし再考の時間を必要とせん」となったかもしれません。それぞれの立場のエリートたちは、それぞれの場でもう少し何とかできたのではないのかと、今日においても悔やまれます。一体、エリートの賢明さとは何なのでしょうか?日本のエリートとは、マヤカシのエリートだったのでしょうか?
<近代日本のエリートの底の浅さ:一番病>
評論家の鶴見俊輔は、こういう日本のエリートたちの持つ疾患を「一番病」と言って強く軽蔑します。この病気のモデルは、東京帝国大学を首席で卒業した、自分のお父さんであり、戦前の文筆家であり政治家だった鶴見祐輔さんです(同時に彼は、東京市長、台湾総督府民政長官、満鉄総裁だった後藤新平の娘婿)から、長いお父さんとの付き合いから、そしてそうしたエリート・コースに適応できなかったという意識から、この問題について極めて鋭い観察と認識を与えてくれています。
鶴見さんに言わせると、一番病とは、近代日本の学校教育において、外からやってきた教科書にもっとも文句を言わず適応し、オウム返しでその内容を暗誦する能力という基準だけで、最も成績が良い者たちのかかる病気です。そして彼らが有能なのは「新しい教科書」の内容をどのようにオウム返しで答えれば、教師が喜ぶだろうかということを誰よりも先回りして認識することができるという点だけです。東京帝国大学というナンバー・ワンの学校の「銀時計組」(一番で卒業する者には「恩賜の銀時計」が与えられたのです。「恩賜」とは「天皇陛下からいただいた」という意味です)が、その典型です。
こういう病気に集団で陥った近代日本のエリートは、「世界の大勢」が変わり、昔とのコンテクストが完全に切断された、まるで違う紙芝居が始まるかのように、これまでと全く違う教科書が入ってくると、かつて教わったことと、その教科書の内容がどれほどつじつまが合わなくても、どれほど矛盾するものであっても、ほとんど精神的に葛藤を起こすことなく、あたかも一瞬のうちに健忘症にかかって、何のストレスもなく新しい教科書に適応できるという、本来なら精神のバランスを崩さなければ到底出来そうもないことを苦もなくやってのける、特殊な能力を持ち合わせています。
東京帝国大学の法学部を一番で卒業した鶴見さんのお父さんは、戦時中は近衛文麿の大政翼賛会に熱狂していましたが、終戦とともに占領軍がやってくるという段になると「自分は英米法専門であったし、英語もしゃべれるから、アメリカ軍のために役に立つ仕事は何かできないだろうか」と、何の心の葛藤もなく言ったそうです。鶴見さんは、そういう無節操で、精神的苦悩もなく、あっという間に「次の教科書(アメリカン・デモクラシー)」の下で優等生になろうとする父親に対して、激しい嫌悪と軽蔑の気持ちを持ったそうです。鶴見さん自身は、病的なほど自分を溺愛した結果自分を縛りつけた母親との葛藤の中で不良乱行の限りを尽くした結果、開戦の数年前にアメリカのハーバードに留学させられながら、日米開戦の際には「日本はアメリカに確実に戦争に負けることはわかっていたが、戦争が終わった時に負けた側にいたかったという理屈抜きの気持ちに従って、帰国船で日本に帰ってきた」という、ある種の「葛藤」を経た人間でした。ですから、破滅的な戦争に進む日本の旗振り役をしておきながら、ひとたびマッカーサーがやってきたら、今度はかつて自分が旗を振ったことなど一瞬のうちに失念して(あるいは「河の水のようにもう流れてしまったことにする」)、次のステージでまた「一番になる」ことに執心するような、人間としての絶望的な無節操と軽さに激しい憤りを持ったのです。
鶴見さんのお父さんのとった態度は、「昨日までの敵にぺこぺこする人間としての卑しさ」という、(それはそれとして大事な問題ですが)一般的道徳の問題ではありません。ポイントはそこにあるのではありません。重要なのは、こうした軌道修正を精神的な苦悩や葛藤を生み出すことなく、すんなりとできてしまう、様々なイデオロギー的な、思想的な衝突をすべて瞬時に「棚上げ」にすることができる、その精神構造は何かを考えることです。
<思想的葛藤>
思想的葛藤とは何でしょうか?そして、思想的に葛藤することはどういう意味を持つのでしょうか?近代日本を担ったエリートたちの辿った道筋と、そして今もなお責任をになう立場にある多くの政治・経済エリートたちの歩んでいる道を眺めた時、そうした疑問が生じてきます。あの戦争への突入を決意したエリートたちは、大方が「空気」に乗ってしまったのかもしれませんが、曲がりなりにも大変な高等教育を受けてきた人々ですから、アジア・太平洋戦争を戦ったことの意味と正当性について、いくらかでも理屈があったはずです。
例えば、正しいかどうかは別として、以下のように考えた人も多かったはずです。資本主義の独占化が進んだ20世紀転換以降、先発型資本主義列強の世界市場獲得の圧力は相当に強く、少資源国家日本は後発型の立場において、相当に苦しい立場に追い詰められ、国民に十分な富を配分するためには、絶対量としての生産が追い付かず、新たな開拓地を発展させない限り、じり貧的に追いつめられる一方だったから、国防の観点からも興産の視点からも、アジアにおいて経済的収奪を恒久的に続けようとする欧米諸国に対抗する必要があった。ところが、アジアにおける利権、とりわけ中国における経済的利益を得ようとしていたアメリカは、1930年代から継続的に日本に対して圧力を加えてきて、満州における日本の権益を認めようとせず、ついには経済制裁(粗鉄と石油の禁輸)に打って出てきた。国防も産業も現状を維持するために資源の安定供給を求めて東南アジアへ打って出た日本に対して、今度は在米日本資産凍結を実行し、最後の最後における日米交渉でも、「戦争を誘導する」としか思えない最後通牒を出してきた。欧米の横暴なアジアにおける経済的政治的支配を打破し、アジアにおける真の意味における自立を期して、日本は戦争に踏み切ったのであって、欧米の帝国主義支配を打破するための、新しい歴史を作る戦いだった。したがって、負けたとはいえ、あの戦争の決断は間違っていなかったと。
戦争に負けることは、「負けた」という事実にすぎませんから(大変な事実ですが)、それはイコール「自分たちの考えてきたことや今なお信じていることは一切無意味になった」ということではありません。白洲次郎が「我々は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」と言ったあの意味です。国際社会でそのことがどのように評価されるかは別として、「負けた。しかし、思想的には負けていない。これが正しいと信じる間は、我々が正しいと言い続けるだけだ」という態度をとることは、「内容はともかくとして、信念を持って言い続ける態度はあっぱれである」という評価を受けるはずです。
国際関係というものは、ウェストファリア条約以後、相手国との完全相互理解とヨーロッパの一体化という、「どだい無理なこと」を目指すと最後の一人まで相手を殺すことになりかねないから、そういう夢みたいなことはとりあえず棚上げにして、戦争をすることも含めて、目標を「バランスととること」に限定して、話を整理するためにとりあえず「国」というグループに世界を分類するという「大人の御約束」を前提に成立しています。だから最悪の事態(国と民族の消滅)を避けるためには、バランスをとるために戦争が必要であるという判断も「政治的には」あり得ます。そうしないともっとひどいことになっていたはずだから、ということです。しかし、その判断がどうして出てきたのか、その判断の根拠が、相当な合理性と自らのプライドと御先祖様の(亡くなった諸先輩がたの)遺訓にかけてどれだけ正しいのかは、徹底した言葉と「思想的粘着性」を持って主張し続けなければ、喧嘩相手からもリスペクトを受ける高潔な存在とはなりえません。
もちろんそこに、心が軋むような葛藤があるのは当然です。アジアは遅れていて、脆弱で、最初から不利なゲームのルールを押しつけられ、圧力をかけられているから、とにかく連帯協力して、ともに欧米を上手にコントロールするために「意味不明の王様に支配された博物館ものの未開拓なへんてこな奴ら」と思われないようにしないと共倒れになるぞと、あれほど説いてふせたのに、旧態依然たる体制を少しも変えようとしない清国や事大主義的に毒された朝鮮とともに、それでも半世紀以上をかけて努力し、何とか欧米の植民地となることを回避してきたのだから、我々の役割は大きかったし、そういう歴史の経緯があった以上、いつかは欧米と決定的な対立に直面する日が来るとは思っていたが、何とも政治判断は間違えたし、やはりあれほどの結果を招いてしまったことは悔いても悔い切れない。同じ理想を実現するにしても、我々は決定的にやり方を間違えたのではなかったか。しかし、本当にあれ以外の方法があったのか。アメリカは民主主義をもたらし、小学生並みの日本の教育をするのだと言うが、国内の黒人をいまだに差別しているアメリカに、フィリピンを軍事的に侵略して実質的に植民地としたアメリカに、そして何よりも世界初の核兵器を軍事的な意味ではもはや必要が無かったにもかかわらず日本に使用したアメリカに、正義を説く資格などないではないか・・・。果てしなく葛藤は続きます。
それでも、そうした葛藤を抱えたまま、世界は回り、政治は歩み、日常は続きます。そんな中、そうした葛藤とともに人間はその場で何らかの判断をして、その現実の中で思想的葛藤を繰り返して生きて行く以外にはありません。葛藤することが大したことだという話ではありません。そうした葛藤は、新しい危機に直面した時に有益な教訓や勇気や知恵や力を発揮するために必ず役に立つものです。歴史から学ぶ、失敗から学ぶとはそういうことではないかと思うのです。そのためにも、小心翼々と新しい教科書に飛びつくという、日本のエリートたちの「精神的慣性」は非常に問題を含んでいると言わざるを得ません。
同じように破滅的な戦争に国民を導き、ニュールンベルグで軍事裁判を受けた元ナチスの大物ゲーリングは、エリートとして明確な目的意識と、「自分が確信をもって正しいと思ってやったことであって、それは今でも正しく間違っていない」と被告席で哄笑したと言います。他方、極東軍事裁判での日本の被告たちは「自分はそのような判断をする立場になかった」、「一介の軍人として上官の命令に従っただけである」、「自分はつまらないひとりの臣下にすぎず自分は天皇陛下があってこそ輝く者である」と、選良としての覚悟もなく全く毅然とした佇まいがありません。丸山眞男という政治学者は、こうした日本の政治エリートたちの精神構造と統治構造を総じて「無責任体制」と評価しました。
<言えない理由:勇気と思想>
日本のエリートたちは、このように「それはまずいのではないか」と言えませんでした。言えなかった理由は、ここに筆者が書いたこと以外にもたくさんあったかもしれません。日本史の勉強をしていて、「ゼロ戦」のプラモデルを作っていて、父親の本棚にある戦争関係の写真集を見て、「何でこんな馬鹿げた戦争をしたのか」と首をかしげ続けて、もうすぐ40年くらいになりますが、この世界が「善意と合理によって成立しているはずだ」と信じて疑わないほど、本当に狭い世界で生きてきた子供の頃は、この世界には一握りの「極悪人たち」がいて、彼らが悪だくみをしていることで正しい、正直で清い人々が苦しめられていると思っていました。そうではなくて、暗黒のような世界になる過程には、必ずものすごくたくさんの善意にあふれた、「あたしはただのおばさん(おじさん)だから難しいことはわかんないけど」と前置きをしつつ、知らず知らずに悪に手を染める人たちがいて、それも含めて、大人というものはしょうがない生き物だと学んできたわけです。だから、大人の我々は、やっぱり「エリートは信用できない」で人のせいにするのではなく、これは私たちの問題だと考えなければなりません。