<憂鬱な春>
大学入学後、黄金週間が過ぎると何人かの学生が学校に来ないようになります。少しだけ心配になって、彼の仲間だった他の学生に尋ねてみると他の講義にも出てきていないようです。諸々調子が悪いなら良くなってからまた来ればいいのですが中々来ません。もうそろそろ忘れかけて来る頃に「先生、あいつ仮面浪人してるらしいですよ」と知らせてくれる者がいて、はぁなるほどと思います。
大学の入試というものは各々に本当に悲喜こもごもで、超名門大学に合格が決まり早くも自分の将来が約束されたと大勘違いをする人から、不本意な結果をきちんと受け止められず、雲がかかったような気分をこじらせて、あたりかまわずかび臭い負のオーラをまき散らして拗ねている者まで色々です。件の学生も、どうやらこの後者となっている自分を持て余し疲れて、再チャレンジを決意してこの事態を解消させようとしたのかもしれません。
高校や予備校のクラスメートがいい大学に合格し嬉々としてそれを語るのを耳にすると、自分の不甲斐なさに頭を抱えたくなるものです。それに比べてオレの行くボロ大学なんてよ、学食メニューは田舎の食堂並だし、キャンパス歩いてる奴らはどいつもこいつも皆アホ面ばっかしだぜなどと、すっかり自分を棚に上げた当り散らし振りです。坊主憎けりゃなんとやらなのでしょう。
気持ちは分からなくないのですが、そういう複雑な気持ちは30年前にすっかり処理してしまって、今や件の某君が「〇〇大学」と見下しているかもしれない大学で教員をしている立場からすれば、こう言いたいのです。つまり、若いのですから事情の許す限り、気のすむまでチャレンジしたらどうですかと。そして同時に、でも君は「今の境遇にあるオレは本当のオレじゃないし」と思っているかもしれないけれど、私から見れば「きちんと本が読めず」、「きちんと議論もできず」、そして「崩壊した日本語しか書けない」、眩しいほど若い19歳に過ぎないのだよと。大学生活は始まったばかりですから、君の力の無さは何ら非難されるものではないけれど、同じように君の駄目さ加減も別の我が大学の責任じゃありませんよと。
事情が許して、彼のように仮面浪人できる恵まれた人は良いのですが、多くの人はいくつかタメイキをついて、このキャンパスで何とか頑張ろうと思っています。再チャレンジできるだけ幸福です。ここに踏みとどまっている者たちは、ここでまた自分を磨けばよいと思って、色々な思いを封印して今日も日常を生きます。まぁ、サークルの勧誘してくれた先輩もイイ感じだったし、中国語の先生は結構イケメンだし、この学校だって一応100年以上の伝統あるらしいし、もう一度あの受験勉強するなんてありえないし、あとはもう自分次第だと、全くもって真っ当な態度です。そう考える事さえできればもう大丈夫です。
しかし、そんな大丈夫君も、一年生の少人数導入教育クラス(高校生を大学生にする矯正道場のようなもの)の時間に、自分が実は何に相変わらず囚われていたのかに気付くことになります。心の整理は付けたはずですが、いくつかのことに縛られていて、心の構造はあまり変わっていませんでした。いくつかのこととは「漠とした憧れ」と「根拠のない自己評価」です。いったいこれは何なのでしょうか?
<不毛な比較:100対35>
四月の最初の授業の際に学生の顔を見れば、経験上もう誰がいまこの大学の教室にいることで項垂れているのかがわかります。「本当ならば俺はここから電車で40分ぐらいのあの大学の教室にいるはずだったのに」と顔に書いてあります。こういう顔を見るのがまたそれはそれでこの職業の醍醐味なのですが、少々困るのは、こうした負の「気」が他の学生に伝染することです。とくに
こういう気にほとんど免疫が無い付属高校出身者です。「え?やっぱ俺らの学校ってアホ学校なんだぁ」となります。こうなりますとクラス全体が「なんかダメっぽくねぇ?」となりますから、これを避けるために毎年慣例のディレクションをします。どうにも嫌な教師だね。しかし。
岡田「まぁ、ここにいる諸君は色々な気持でここにいるんだろうけど、でもここから頑張るしか無いわけですね。で、はじめが肝心なんだけど、そこの君。そう、君よ、君」
学生「俺ですか?」
岡田「そう、君。人と話をするのに帽子も取らない、君よ」
学生「はぁ(なおも帽子取らず)」
岡田「君はさ、大学を出た四年後にどうなっていたいの?」
学生「いや、まだ入学したばかりなんでぇ、何も考えてないっす」
岡田「まぁ、そうだろうね。でもなんだか君の顔見てるとさ、何だかショボくれてるように見えてしょうがないんだよねぁ。やっぱりこの学校は滑り止めなの?」
学生「あ、いやっ、あんまり、その、ちょっと言い辛いんですけど、まぁ、そうです」
岡田「そうすると、高校の時の友達でいい学校行った奴らが羨ましいだろうなぁ」
学生「・・・まぁ、そんなところですけどね・・・」
岡田「トーダイやキョーダイやケーオー行った奴らはいいよなぁ、就職もいいとこ決まるだろうし、ケーオー行ってりゃ女の子にもモテるだろうし、あいつ英語もできるし、顔もイケてるし、もう何か全部俺より上行ってる感じがするんだよなぁ」
学生「って言うか、高三の11月までアメフトやって、普通に現役でキョーダイとかってありえないっすよね?これでも自分、高三の春からマジで勉強しましたから」
岡田「アメフトやってて現役でキョーダイかよ。あんまり友達になりたくないな。そういう奴」
学生「いやっ、けっこういい奴っすよ」
岡田「さぁーってとっ、そんじゃ聞くけどね、お前さん、今ここにいる自分に点数つけるとしたら何点つける?」
学生「何点?何の点数ですか?」
岡田「顔の点数のわけねぇだろ?」
学生「はぁ、そうっすね」
岡田「知的水準って言うかさ、能力って言うか」
学生「まぁ、国立行けなかったし、英語できなかったから、英語できなかったからソーケーもだめだったし、哲学書とか読んでいる友達からカントの本借りたんですけど、チンプンカンプンでしたから、そうですねぇ、35点ぐらいですかねぇ?」
岡田「ずいぶんと低いんだな、35点かよ?」
学生「いやぁー、もう全然っすよ」
岡田「だぁめだコリャ(いかりや長介風)」
学生「はぁ?」
岡田「てんでなっちゃいねぇよ。そんなんでスタートなんて切れねぇよ」
学生「(はぁ?)」
やや誘導尋問に近いので申し訳ないのですが、この学生はこのままでは新しい人生のスタートを切れません。その最大の理由は、彼が私の誘導に乗せられて自分の評価を「35点」としてしまったことです。無理もないかもしれません。彼は自分がなりたいイメージ構築のデータとして、良くできるキョーダイに行ったあの友人のことを念頭に置いてしまっていますから、その光輝く姿と比べてみると、何とも自分の姿がくすんで見えるのです。そして、あの友人を「100点」と措定して、自分の至らぬ点をピック・アップして次々に引き算をやっています。でも自分は零点だとやってしまうとあまりに救いようがなく、かつ小指の先っちょくらいのプライドもありますから、まぁ35点ぐらいかなとなったというわけです。何だか卑屈なのか謙虚なのかよくわからない自己評価振りです。何せ「100対35」なんですから。
そもそも(気持ちは分かりますが)何だかよく考えると不思議なのは、あの憧れの友人を「100点」という基準に設定していることです。そうしてしまう理由は一つしかありません。それは「理由が無い」からです。身も蓋もないことを言ってしまえば、憧れや「羨んしい」という気持ち、妬み、嫉み、といった気持には理由などないのです。そしてそれはそれとして、人間の自然な感情ですから、そういう気持ちがあることそのものは何の問題もありません。問題となるのは、そんな「非合理的な」憧れを、自己評価の一つの基準点にしていることです。そして、そんな曖昧なものを頼りに、あまり当てにならない引き算をして、ギリギリで自分を無しにしてしまわない35点をつけて、行き場のない自分を作り上げてしまっているからです。
<65点の一気挽回は不可能である>
こういうことから、人生の再出発をしようと思い立つ人は、本当は自分でこれまでの経験で分かっていたはずのことをすっかり忘却してしまっています。それは、65点もの点差をわずか数年で取り戻すことなど不可能であることです。
前提として100点の根拠も35点の付け方も、何とも頼りない計算ですから、本当ならこんな話には乗っかれないのですが、それを差し引いても「わずか数年で自分がまるで別人になったかのようにはなれない」などという事は、短くも切ない20年弱の人生でもわかっていたことではなかったのかということです。
このままだと、彼が成長し能力を伸ばすのに障害が生じます。それは不可能な目標設定をすることで、適切な「作業工程表」も「意味ある具体的な作業そのもの」も確立させることができなくなることです。
サッカーには、最高難度のプレーに「ダイレクト・ボレーでスルー・パスを出す」というものがあります。飛んできたボールを地面に付けず直接キックして(ボレー)、かつそのコントロール困難なボレー・キックを適切な強さと方向とタイミングへと揃えて、味方の走り込んでくるスペースにパスをするというものです。もしこれを100点と設定するなら、35点とは「二回に一回くらいボレーで止まっている味方にボールを渡せる」くらいの水準でしょう。これを100点まで持っていくことは、わずかな期間では不可能です。こういう目標設定では「まずは何ができるようにならなければいけないか」という適切な問いが立て辛くなるのです。なぜならば、このままでは「どのタイミングでパスを出すか」というプロセスに行けないからです。ボレー・キックをコントロールできない者は、飛んでくるボールを空中でとらえながら同時にスペースを見出すことなど絶対にできません。でも、そんなことは元サッカー部だったこの学生にはわかっていたことのはずです。どうして大学における学問的能力の話になると、こんな当たり前のことを忘れてしまうのでしょうか?
<普通の出発点:「今が100点」>
正しい出発点を設定するのは、実は複雑なものではなく、非常にシンプルで普通のことです。それは「今の自分を100点とする」というものです。この100点という数字選びには二つの意図が込められています。一つは35点という「落第点ギリギリ」の語感を回避することで、不要な劣等意識を薄めてしまうことです。人間は「今の俺はどうしようもないのだ」と考える所からは、あまり力が出せません。未来よりも過去のことばかり考えてしまうからです。もう一つは逆です。「100点なんだ」と思い曖昧なコンプレックスが薄まることで、不思議なことに冷静な心のリズムを取り戻すことができるのです。そして、自分に向かって次のように言い聞かせ、問うことができるようになります。
「今のお前が100点である。次は103点だ。そのために何をすべきか具体的に考えろ」
繰り返しますが、人間は100点からいきなり165点には水準を上げることができません。所詮は35点だと考えれば、100点までは「到達の道筋をイメージできないほどの遠さ」という気持ちに押しつぶされそうになりますが、「100点から165点」と表現してみると、「え?そもそも設定自体が変じゃネェ?」という気になってくるから不思議です。「どうせダメっぽいし」と「そんな目標馬鹿臭くね?」の何たる違いよ!「どうせ35点だし」という気分と「100点からさてさてどうするべぇ」と冷静に考える態度では、天と地ほどの違いがあります。
<作業は具体的に:「ガンバリマス」?>
そして次の部分が極めて重要です。103になるために何が必要なのかを「具体的に」考えよ、の部分です。例えば、少人数ゼミで学生にテキストを講読してもらい、レジュメを作って報告をさせますが、その出来不出来は別として、私は報告が終わると必ず「今日の報告を自分なりに評価するとどうなるかな?」と問います。報告が終わっただけでは学びはまだ半工程にしか来ていないからです。するとほとんどの学生は非常に曖昧なことを言うのです。
「もっとちゃんとまとめなきゃダメだと思いました」
「内容とかけっこうスカスカで、もっとわかり易くって言うかぁ・・・」
「だらだらやってる感じでぇ、もっとちゃんと・・・」
こういうあいまい表現を耳にすると、もうこれだけでこの学生の行く末が心配になります。彼らの自己評価には「何がダメなのか」が具体的に示されていないので、それを克服するためにはどうしたらよいのか、その修正のための「作業」が決められないのです。例えば、「レジュメをただ読み上げるだけでアイコンタクトが全く取れませんでした」と具体的に指摘すれば、「ではなぜ取れなかったのか?」と考え、「発表原稿の内容が十分に頭に入っていなかったために、読むことに気を取られ、聴衆(他の学生)に語りかけるという意識が弱くなってしまったから」と出てきます。そうすれば「余裕ある息遣いと眼差し遣いを可能にするために、発表原稿を「もう五回精読する」というふうに、問題克服のための作業と訓練方法を「具体的に」決めることができるのです。「どうにも報告が滑らかに進まず、取り留めのない雑感みたいなものを残すような発表となってしまった」なら、次にやるべき具体的作業とは「メモ書きではなく、きちんと発表原稿を作ってみる」になります。そして、こうした具体的な問題点の克服方法をこなしていくことで、100から102を確実なものとさせていくわけです。
多くの学生はこのことに気が付く前には必ず「もっとテキストの内容を深くとらえられるように頑張ります」と言います。だから即言い返してあげます。
「『頑張ります』には、問題解決のための具体的作業が含まれていないよ。何をどう頑
張るのか、具体的に決めてよ」と。
「ガンバリマス」などという言葉は、昔はアイドル歌手が使う言葉だったわけで、そんな空虚な言葉を何万回聞かされたところで、我々教員の心配と失望の前では全く焼け石に水です。それより何より、我々大人が本当にイライラするのは、学生が「頑張るなどという当たり前の事は、そもそも評価項目にすら入らない」ということをわかっていないことです。頑張るのは当然です。頑張れないなら学校をやめて頑張れる別の仕事をするべきです。必要なのは「何をどのようにどれぐらい頑張るか」です。
<「できる事」ではなく「できない事」の確認>
このように考えると、新しいスタートを切るのに必要なのは「何か」や「誰か」との距離を測ることではなく、「今自分が立っている場を可能な限り正確に把握する事」だということがわかります。「あいつみたいになりたい」ではなく「今の自分の良さ加減悪さ加減を確認する事」の大切さです。でも「可能な限り」です。それは、自己評価などというものが元々あまり正確ではないからです。それならば、どうすれば自分のいる場を正確に知れるのでしょうか?いわずもがなですが、一応言っておきましょう。「だ・か・ら、学校に行って他者からの評価を全身で浴びるのだ」と。学校に来るのは、あまり当てにならない自己評価を少しでも正確にするためです。そして「良さ加減と悪さ加減」で比べれば、100を102にするために重要なのは圧倒的に「悪さ加減」、「できなさ加減」の方です。
曖昧な憧れと、根拠不明の自己評価という「眠ったような状態」から脱して、100を102にするための具体的な作業を考えるという世界に行くならば、克服すべきものを徹底的に把握しなければなりません。つまり、そこで必要な認識とは、自分に「できる事」ではなく、圧倒的に「自分のできない事」である他はありません。そのことを前提に言えば、真っ当な大人が想定する「能力」とは、「何かができる能力」と言うよりもむしろ、「何が自分にはできないのか」を冷徹に把握する力こそ本当の能力だと言うことができます。それを正確に知った時に、我々は克服すべき「具体的作業」を決めることができ、100を102にすることができるわけです。
仕事をする人々の生きる世界では、自分は何ができないのかと冷静に向かい合うこともせず、ただ漠然と「今の自分は本当の自分ではない」と思っている人間のことを馬鹿と呼んでいます。知の世界で新しいスタートを切ろうと考えるすべての人間が、まずとにかく、何が何でも、脱しなければいけないのがこの状態です。
<自己実現などしなくてよい>
人間は本当に何に縛られているのかわかったもんじゃありません。今日、深くものを考えずたくさんの大人が「自己実現」などという意味不明な言葉を使って、子供たちを騙してきたために、大変な数の若者がガンジガラメになっています。先に示した「今の自分は本当の自分ではない」と思いこんでしまった病状とセットになっているのがこの「自己実現しなきゃダメなんだ」症です。患者に言わせれば、自己実現できない人生は負け組の人生なのだそうです。本来なら自己実現できていなきゃいけない自分なのに、今なおも「やりたいことが見つからずにいる」、本当の自分に未だなっていない状態なのだそうです(だから「とりあえずバイトでもしながらゆっくり考える」んだそうです。親の金と親の家で)。
「自己」を「実現する」という、本当に誰が考えたのかと思うほど頓珍漢な言葉の不可解な所は、実現すべき自己の未来像があたかも客観的に存在しているかのごとく、それを前提にしていることです。自分は現在こんなに不甲斐ない状態だが、いつの日かここを脱して別の何かになっているはずだと考えているのでしょうが、「実現する」わけですから、おそらく存在としても具体的な何かをもうこのプロセスに組み込んでいるのでしょう。例えばこれを仮に「公務員」としてみましょう。この場合、「ついに自己実現を果たして公務員となった」ということになるでしょう。
しかし、公務員になることが自己実現なのだと言われても、申し訳ないのですがなんだかとってもチープな香りがします。「自己実現としての足立区役所職員!」とか言われても、地方公務員として本当に区民の役に立てる者となれるかどうかは未だ全然わからないのですから、やっぱり違和感はぬぐいきれません。そう言うと、「そうじゃなくて、もっと何て言うか『自分らしさ』を前面に押し出して行くって言うか、個性あふれる姿みたいな」と言い返してきます。これがまたこちらにはますますわからないわけです。
「自分らしさ」を発揮できて、自分に合った仕事をして活き活きとしているという意味での自己実現と言われても、やはり何と言っても「自分らしさ」というものが何なのか、さっぱりわかりません。何じゃぁ、そりゃぁ!通常人間は自分らしさを知る方法を一つしか持ち合わせていません。それは「他者の評価を通じて」という方法です。自分らしさとは自分からにじみ出てくる、自分の匂いというか、エキスというか、そういうものを自分で確認して「これが自分らしさというものだ!」と確認可能なような類のものではなく、「ちょいと。アンタ。臭うわよ」と他人に指摘されて、「そうなんだぁ!」と不思議顔して受け入れる類のものなのです。したがって、原則的には自分らしさとは、自分では納得できないような他者によるイメージを核にしているものです。
そうなると、そんな納得できない、「えぇ?」と思うような「らしさ」を発揮することで、どうして活き活きとできるのかが、こちらにはさっぱりわかりません。加えて、どうにも完全に順番を間違えているのが「自分に合った仕事」という発想です。どうも子供のころから大雑把な物言いを全身に浴びて来た人たちは「貴方はすでに確立した人間なのよ。自信を持って胸を張っていなさい」と言い聞かされて、そんな自分が仕事で活き活きできないのは、その仕事が「私に」合っていないからだと考えています。とんでもない大勘違いです。この世になぜ仕事が存在するのかといえば、それは「貴方に必要だから」ではなく、「この世の中に」必要とされているからです。だから貴方と仕事の関係とは「貴方が仕事に自分を合わせる」という以外にないものなのです。
<「自己」とは自分の欲望プラス他者の評価>
どうやらこうして書いてきますと、一番の勘違いポイントとは「自己」の理解の所だとわかります。「自分とはこうだ」という自己規定や、「自分はこのぐらいの水準だ」という自己評価が、すでに確定していることを前提にして、勝手にままならぬ人生に対してブルーになっている人々が、自己実現などという言葉を安易に使うのです。自己の評価とは「自分でした評価のこと」だと思っているからです。
しかし、これまでも指摘しましたように、自己の評価を自分ですることほど当てにならないものはありません。自己評価とは、自分でした評価ではなく、他者にしてもらうものだからです。でもそれでは「人の言いなりになってしまうではないか」と反論されるかもしれません。自分でする評価は当てにならないとすればもう他人の言うことに右往左往するしかないというわけです。でも、人間の自己理解というものは、他者からの評価のみで成立しているわけではありません。何よりも自己の「欲望」が明確でなければ意味がありません。自分は何者かという問いに意味があるのは、「自分はかくありたい」という展望と願望がセットになっているからです。つまり人間の自己理解とは、根本的なものとしての自己の欲望プラス、他者の評価との「織合わせ」としてのみ成立するのです。自分はこのようでありたいとか、あのようになりたいと願う一方で、他者の目に映る自分は全く異なるものであることを知り、そのことで人間は自分の持つ願望や欲望のトーンを変えたり、ニュアンスを複雑にしたり、欲望の向う対象を微妙にずらしたりすることがあります。これはどちらが正しいのかという話ではありません。この世界で、この世界との「関係」の中で生きて行く以外に道の無いほとんどの人々は、自己の持つ大甘な、願望交じりの気持ちと、他者の判断するものとを両方取り込みつつ、トータルで「そこそこ楽しく充実した日々だった」と、相当老年の域に達した時に振り返るのであって、百歩譲って自己実現のようなものに評価を与えることがあったとすれば、それはそういう「後々」の御話なわけです。
<合言葉は「勇気」>
先に私は「今を100点とする」ことから始めよと書きました。そして、これを100点から始める理由、裏から言えばどうして35点からではダメなのかを書きました。それは「今の自分は所詮35点だ」という自己評価がほとんど「このままじゃダメだ」の域を出ない、あまり当てにならないものだからでした。同じ理由でまさに自己実現など、そういう当てにならない前提の上に成立した、あまり意味のない言葉なのです。つまり、それは自分を勝手に35点として、それでいて何ら具体的な努力計画も立てず、言い訳のように「ガンバリマス」と言って、何だか暗い顔をしている、あの仮面浪人直前の人達の話と基本は同じだということです。
スタートラインを間違えてはいけません。「漠とした憧れ」と「曖昧な自己規定」に基づいてスタートを切る者は、必ず行き詰まり、大きな前進も成果もなしに燻り、今の自分は本当の自分ではないと自分で評価し、未だ自己実現できていない自分に焦り、そして何もできず、自分に仕事が合っていないと転職を続け、その度ごとにキャリアを下げます。まさにこの大学は俺に合っていないと、まだ自力も何もついていないのに勝手に「自分で評価」をし、仮面浪人となり、夏休み前には「寝たきり浪人」となり、何も変わらず、何も見出さず、戸籍年齢と肉体年齢だけ一つ増やして、また同じ教室に姿を現すのです。
「俺には俺のやり方がありますから」と言い訳をしている貴方。貴方はこれまで「貴方なりのやり方」をやり続けてきて、「こう」なっているわけです。今後もまた「俺流」でスタートを切れば、何百年経っても自己実現できませんし、100を102にすることを実効的な計画に従ってやり続けるという、特別な才能など持ち合わせない普通の人間が成長する時の唯一のパターンを経験することはできません。もう一度、しつこく言います。スタートラインを間違えてはいけません。
これは能力の問題ではありません。ひとえに「勇気」の問題です。
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