数年前に「あなたと私は違うんです」という謎の言葉を残して総理大臣を辞めた人がいましたが、その人の御尊父であった故福田赳夫元首相は、よく自分の政治哲学について「政治は最高の道徳である」とおっしゃっていました。世間では、この言葉よりもどちらかというと、赤軍派による国際テロ人質事件の時に、獄中にいた赤軍メンバーを釈放するよう要求され、苦渋の決断としてテロリストを釈放した際に述べた「人の命は地球よりも重い」の方が有名です。いずれの発言も、「人としてどうあるべきか」ということに関わる発言でした。「地球よりも」の発言は、国内では称賛されましたが、国際社会では驚きを持って受け取られました。この評価の差に一体何があるのでしょうか?ここでは、「政治は最高の道徳である」ということの意味を考えてみたいと思います。
政治が道徳であるとはどういうことでしょうか?道徳を表現するのにいくつもの行為や行動がありますが、その中で政治という行いは最高形態のものという意味なのでしょうか?そしてそこから発して、人は道徳的に政治を行わねばならないと言っているのでしょうか?政治の良し悪しを判断し評価する基準は、道徳的であるかどうかだということを言わんとしているのでしょうか?これは、当たり前のことを言っているようでも、実はさほど簡単に通り過ぎることができない話です。加えて、この部分で誤解をされると、私たちの政治も政治家も私たち自身も、政治において大切なポイントを見逃し続けることになりかねません。
<「道徳」が基準となると起こること>
もし「政治は道徳だ」が、政治家は正しく行動し人々のお手本にならなければいけないという意味なら、第一に、多くの人々の政治をやる気を殺(そ)いでしまうでしょう。なぜならば、我々イカガワシイ人間の中には、正しい人の道などというものを常に念頭に生きている人は極めて少数しかいないからです。政治を志した理由が、「腐敗し堕落しきったこの欲望まみれの世の中を洗浄するためです」などと眦(まなじり)を決して言われますと、表向きは「立派な志ですなぁ」などと言いますが、胸中密かに「あのミスター・清潔君は要注意だぞ」と警戒することは間違いありません。
だいたいにおいて清潔君以外に、道徳などといった窮屈なことを自分から喜んでやろうとする人間はいやしません。そもそも人生の真実として、まずは道徳的であることから出発することなど、何やら重要な部分で順番を間違えているような気がしてなりません。人間は基本的には正しく生きるために生きるのではなく、生きたいというのっぴきならない欲望があるから、「ただ」生きているのです。でもどうせならある程度世間や他人と協力しながら、何とかまともに生きていきたいから、その期において「このように生きるべきなのかどうか」という問いが浮上するわけです。こういう順番が人間の現実を脇に放りっぱなしにしないで考えるためには正しいのではないのかと思うのです。そう考えないと、ただでさえあまり人生をエンジョイさせてくれそうも無い印象に溢れている「政治」などというものに、志を持って立ち向かってくれるような人が次々に現れるようなことにはなりにくくなるのではないでしょうか。正しく道徳的に生きることすらおぼつかないのに、その上に最高の道徳としての政治だなんて・・・というわけです。
もちろん道徳道徳などと言われるとやる気を失くす人も多いですが、やはりこの世の中には大変奇特な方々がいるのでありまして、政治をやりたがる人はまだたくさんいます。だから、貴方や私は道徳がどうにもネックになって、政治から離れてしまっても、奇特な方々にお任せすれば大丈夫ですとされると、やはりそれはちょっと違うなと言わざるを得ません。というのも、政治は最高の道徳であるなどということが、深く考えられることも無く、ほとんど日常に何の影響も与えない標語の様になると、また別のもっと困ったことが起こるのです。町中に自治体の名前で旗めいている標語は、何のためにあるのかと哲学者の中島義道さんが怒っていましたけど(『うるさい日本の私』)、「みんなで協力して明るい街づくりを」などという、反論する気はないがメッセージ・ゼロである、これを掲示しようと決断した人は「精神が怠惰か用意周到なペテン師」としか思えないような標語と、「政治は最高の道徳である」が同等の「意味なし標語」になれば(もはやなっているかもしれません)、政治により直接的にコミットしている人々(政治家や官僚、運動化、ジャーナリスト)をきちんと評価し、コントロールすることが困難になってしまうという問題です。ある政治家の存在、彼の発言、行動、そして重要決定が「道徳的に見て」納得がいくとか、道徳的に評価できるということで良いのでしょうか?少し具体的事例にそって考えてみましょう。
<一人も死ななければ良いのか?>
故福田元首相は、人質に取られた人間の命を失わないように、仕方なくテロリストを解放しました。「一人も人が死なないようにすること」が最も人道的で道徳的な政治決断だとすれば、福田さんの政治判断は「道徳的に」正しかったということになります。しかし、釈放されたテロリストが、その後世界中で次々に政治テロを敢行し、なおもっと多くの人々が亡くなったり傷ついたりする可能性もあります。そんな時、「でもあの人質の命を救った決断は道義的に見て合理的な判断だったのだ」と言われても、何か心の底に澱(おり)のようなものが残る気がします。しかも、福田さんの政治決断に対して、国際社会は「テロに屈した」という評価を与えました。テロリストの要求に屈して仲間を釈放するようなことは、欧米ではそのような評価となります。ちょうど同じころ、イタリアの元首相アルド・モーロ(Aldo Moro)氏が左翼テロリスト集団の赤い旅団に誘拐されましたが、当時の内閣は赤い旅団からの逮捕者の釈放要求を拒否した為にモーロ氏は殺害されました。車のトランクから発見されたモーロ氏の遺体がテレビ画面に流れた時の衝撃は30年を経ても忘れることはできません。同時に、同じような事態となった時に日本の首相がした決断とイタリアの首相がした決断のはっきりとしたコントラストに、当時高校生だった筆者は考え込んでしまいました。驚いたのはモーロ氏が遺体で発見されただけではありません。元首相が殺されても、ヨーロッパのメディア、政治家が「テロの脅しに屈するわけにはいかないから、残念だが仕方がない」という、まことにクールな(冷静な)態度を取っていたことでした。日本の首相は、人質を殺さないことで何を守り、イタリアの首相は人質を死なせてもテロリストを釈放しないことで、何を守ったのでしょうか?今でも、この問題に明確な答えが出せません。ただ一つ言えることは、イタリアの政府の発想には「道義」や「道徳」という発想が感じられなかったことです。この「乾いた」、「毅然とした」感じは、ペルーの大使館人質事件で、特殊部隊を送り込み、実力で犯人をあらかた射殺してしまった当時の大統領フジモリ氏から滲み出ていた雰囲気に重なります。
<嘘さえつかなければよいのか?>
道徳に関わるもう一つのキー・ワードは「嘘」です。嘘をつくことは世間では道徳に反することだと思われています。それなら、正直であることが常に手放しの称賛を得ることなのかと言えば、必ずしもそういうわけではありません。子供に「嘘つきは泥棒の始まり」と教えることと、「正直ならばどんなことになってもそれでよい」と教えることは同じことではありません。しかも、これが子供の話ならともかく、政治の話となれば、事情はもっと深刻で複雑になります。
過日、国会、つまり立法府の議員であり、同時に行政府である内閣の閣僚であった社民党の党首が、沖縄普天間の米軍基地移転をめぐる政治決着の際に、「これまで言ってきた言葉を裏切れない。嘘をついてまで、このアメリカ主導の移設案を良しとする閣議決定には納得できないし署名もしない」と言って、多方面からの説得を振り切って閣僚を辞任してしまいました。大臣になったからと言って、これまで社民党党首として度々言ってきたことと違うことは言えないし、もし署名をしたら嘘をついたことになるのでそれはできないという、全く天晴れな正直者ぶりでした。嘘をつくことを心情快しとしない、道徳的に見て高潔なたち振る舞いというわけです。この人は、この直後に行われた選挙でも「言葉を裏切らない政治」という、よく考えるとよくわからないスローガンを掲げていました。福田さんが御存命なら、最高の道徳を貫いたと言うかもしれません。この元大臣を、彼女のした「政治」を「道徳的に見て評価できる」とすることは、本当にこの政治家を評価することになるのでしょうか?
正直さを貫いたというのは、「人間としては」立派なのかもしれません。小政党とは言え、頭の固い労働組合の幹部、旧社会党員だった頑固で原理主義的な地方の活動家、狂信的なフェミニストなど、厄介な人々を取りまとめ、リーダーシップを発揮しなければなりませんから、大人の常識として判断すれば、だたの正直者だけでは務まりません。そんな中、みんな少しずつ「手練(だれ)」の政治家になって行くのに、福島さんは閣僚になってまで正直さを貫いたのですから。筆者なら、3日で逃げ帰るでしょう。
しかし、問題はこの「人間として」という部分です。政治家だって人間なのだからそれでいいのだと言われれば一瞬そうかもしれないと思いますが、やはりそれではあまりに大雑把な話になると言わざるを得ません。やはりそれではだめなのです。社民党党首は痩せても枯れても「政治家」なのですから、「政治家として」天晴れだと言われなければならないのです。そして政治家が天晴れだとされるのは、政治家に付託を与えた有権者の利益を守り、公益を増進させることが「結果として」できた時なのです。重要なのは、この「結果として」というところです。彼女は「自称」政治家などという素人ではありません。「玄人政治家」の定義は、これまた非常に難しいのであまり深く入り込むのは避けますが、ここでは立法府、行政府のメンバーとして公職の責任を全うすることが期待されている政治家としておきましょう。つまり、彼女は公権力を行使する立場の政治家です。昔は女性解放と男女平等を訴える弁護士でしたが、今は政治家です。つまり、「核兵器のない平和な世界を!」であるとか、「男女の賃金格差をなくせ!」、あるいは「今だからこそ平和憲法を擁護!」と、日比谷の野外音楽堂で人々に呼びかけている運動家(activist)とは、やらなければならない仕事が異なるのです。
政治家は、海兵隊の利益を守ろうとする軍隊の利益代表が多数いる上院、下院の議会と上手に取引をしないと自分の政策を実行することも、大統領の地位に留まることも危うくなるという事情の下で、かつての合意事項から一歩も出る気が無いオバマ大統領の揺るがない態度を前提に、極めて困難なものとならざるを得ない日米交渉から逃げるわけにはいきません。日本の国益だけでなく、政府与党内の意見のバランスや連立する他党とのコミュニケーションを考慮しながら閣僚間の折衝もしなければなりません。自分の判断や行動を見守る党内の政治家から協力を取り付けるような仕事も重要です。社民党党首という公人としての政治家とは、沖縄の普天間と名護の人々の人生と運命を大きく左右するような公的機関の決定を下す、重い責任をともなったメンバーであるということです。市民運動家とは全く異なるのです。この違いは極めて重要です。そして、一つの政党が半世紀にわたって政治権力を独占していたため、野党の中になかなか育ってこなかった認識です。つまり、政治における公的決定と政治運動の違いです。端的に言えば、旧社会党の政治家のセンスは「立法府のメンバー」としての「現実の中で実効的でかつ実効可能な法を作る立場」というものを全く理解していない、組合運動の連続線上にあったわけで、彼らは政治家ではなかったのです。
市民運動の活動ならば、理想と理念を人々に訴えかけ、厳しく激しい糾弾と批判の言葉をもって、そして抉るような実態調査や現状報告を片手に、多数の市民に「ここにこのような不正があります!」、「封印されていた極めて重大な問題がここにあるのです!」、そして「私のことを夢追い人という人もいますが、私は一人ぼっちではありません。いつか皆さんが仲間になって、世界は一つになるのです!」と、注意や関心や未来を喚起させることができます。それが彼らの大きな仕事であり、彼らの存在意義もひとえにそこにあります。古ぼけつつあるとは言え、今なおも隠然とした影響力を維持している「核抑止論」とアメリカ軍事産業のロビイストのたっぷりとした資金を使った巧妙かつ強引な活動によって、世界の核兵器が無くならなくても、男女同一賃金は同一の責任と義務を伴うから、寿退社していつでも仕事を辞めてやろうと思っている「同志の女性」の無関心と裏切りによって、相変わらず女性の賃金が男性の70%であろうと、そして世論調査の結果、改憲に賛成する人が60%を超えようとも、運動家の評価はその結果をもって下されたりすることは決してありません(内ゲバという評価は昔ありましたが)。むしろ、これほど絶望的な状況においてすら志を曲げずに信念を叫び続ける姿が感動を呼んだり、陰ながらの称賛と尊敬を生みだすことだってあります。壮大なる夢を信じて、なおも歩みを止めることなく前進し続ける天晴れな人々としてです。
しかし、公権力を担う政治家はこれとは全く異なります。自分が野党時代に言い続けてきた言葉にいくら正直で誠実で忠実であろうと、そのようなことで言論を基礎とする議会人としての佇まいをいくら守ろうとしても、「結果として」自分が連立を離脱したことで、そのことが直接間接影響して、自分が閣僚を辞任する以前に落ち着きそうだった妥協案よりも、沖縄の人々にとって総体的に見てマイナスとなるような決定がなされたならば、その政治家は、どれだけ正直であろうと、どれだけ嘘をつかない結果になろうと、沖縄の人々を「結果的に」不幸にし、「結果的に」彼らの利益を損なったのですから、「人間として」ではなく「政治家として」、それなりの評価が下されることになるのです。
辞めた本人は、まことに爽やかで、さっぱりとしているかもしれませんが、苦しく険しい交渉の場に残された人々や、結果的に交替する結果を今後受け入れてもらう「やり切れないお詫びと説得」を迫られる政治家も、そしてもちろん基地を負担し続けることになる沖縄の住民の地獄も、いずれもまだ続くのです。正直で嘘はないが、「目の前の石ころ一つ前に動かせない政治家」というのは、言葉の真の意味で形容矛盾です。結局、閣僚を辞任して選挙にも負けた政治家が守ったものは、彼女を長きにわたって支持してきた反安保・反基地・護憲を標榜する沖縄の人々ではなく、「嘘をつくことから免れた、まださほど汚れていない(かなり汚れちゃったけど)アタシ」だったということにならないでしょうか?彼女は道徳律を守り、自分の政治家としての「見栄え」は守りましたが、沖縄住民を守れませんでした。誤解しないでください。このような現実であることの責任が氏にあると言っているのではありません。社民党党首は、いったい何を本当は守りたくて、閣僚辞めたのか、沖縄の人々の状況がほんの少しでもいいから改善されるために、そこから引き算をして、「自分はどうなってもいい」という覚悟をもって、やれることは本当になかったのですか?閣僚を辞任することで、沖縄の人々の状況は少しでも良くなると本当に信念を持って言えますかと、お尋ねしたいということなのです。おそらく彼女自身の評判は、さほど下がることはないでしょう。なにしろ多くの人が曖昧に、何となく、普通の人間に適用される一般道徳との区別をしないで「政治は道徳的じゃなきゃ」と思っているのですから。しかし、そう考えない人だって少数ですがいるのです。
<特別の基準が必要な政治家>
近代の黎明期に、イタリアのフィレンツェでニッコロ・マキャベリという外交書記官が、自分の仕えるメディチ家の君主に対し、「徳がある君主とは、もし徳があると思われることで『結果として』外敵からこのフィレンツェを守れると判断するなら、徳があるように見せることができる君主のことを言うのです」とアドヴァイスして以来、政治と道徳は明確に区別されてきました。これは、政治と道徳のどちらが大切かなどという浅薄な話ではありません。もしフィレンツェの君主が「本当の意味での徳」を身に付けることにだけ心を砕けば、フィレンツェはあの恐ろしいチェーザレ・ボルジアによって滅ばされたでしょう(実際にはアルプスを越えてやってきたフランス軍やトルコ軍やスペイン軍によってイタリアは16世紀に焦土と化します)。高徳なる君主の儚い思い出だけを残してです。「有徳」だったのにもかかわらず国を守れなかったのではありません。フィレンツェが壊滅した理由は、道徳的で有徳であるということ以外に君主を評価する基準を、君主自身も、側近も、一般民衆もだれも持ち得なかったからです。マキャベリは一生懸命警戒警報を出したのですが。
誤解無いように言いますと、筆者は「結果を残すためには政治家は道徳に反して嘘をつかねばならない」と主張しているのではありません。そうではなくて、道徳は道徳として、そして政治は政治として別々の基準で評価がなされなければならないと言っているのです。そうでないと、「正直だけが取り柄の独裁者」によって、国が破滅に導かれる危険を察知することも防ぐこともできませんし、結果的に国民の三百万人を死に追いやりつつ、「私自身は大御心(おおみごころ)に忠実であっただけで、それで国体を護持できると信じた」などと、本人だけが盲信したような戯言によって、政治責任というものを理解しない愚劣なリーダーがまたぞろ現れることを避けることができません。ですから、このことは政治をめぐって一億総「ぶりっ子」のまま、知らず知らずの間にみんなが地獄にズブズブと沈んでいくことを避けるために、どうしても認識しておかねばならないことなのです。
私たちは、多様な利益と欲望に根ざした人間が生きるこの世界で、一点の曇りも無い、少しも手を汚さずに生きていくことはできません。でも、それでも可能ならば、できることならば、嘘をつかずに誠実に信念を持って生きていきたいと思ったりします。でも、フィレンツェの君主は、ただの人ではなく、判断一つで人民を全部殺すこともできる「普通じゃない人」でした。だから、彼の行為の評価基準は普通の人と同じではいけないのです。現代の政治家も全く同じです。政治家は普通の人でもなれますが、なった後はもう普通の人間ではありません。だから「道徳的」などという普通の基準で評価されてはならないのです。普通でない人には普通でない基準が必要です。そしてそれが、「最終的に市民と公益守る目的」から順番に考え、そのためにできることを「自分の運命など二の次にして」決断し、実行し、結果を残すことがどれだけできるかという基準です。この基準で高い評価を受けるためには、どれだけ正直で高潔で誠実で善良であっても関係はありません。この基準でダメなら、そういう政治家は退場させるか、別の仕事で後方支援していただく他はありません。
<それでも残る「嘘」の問題>
過酷な現実を生き、目の前の現実を少しでも良い方向へ持って行く仕事を担う政治家は、結果的に「嘘つき」とされることから逃れられないでしょう。世界を完全情報の下に考え、すべての人間が合理的な選択をするという保証がないのですから当然です。有権者は、思い込みたっぷりで政治家に期待しますから、なお当然です。もちろん、嘘をついてはなりません。政治は「言葉」がすべてだからです。嘘をついてもいいとか、あえてつくべきだとも、筆者は言っていません。本当です。そうではなく、どれだけ政治家の独特の基準で評価されるようなことを懸命にやっても、やはり「嘘つき」という誹りを受けることはもうこの世界では不可避なのです。だから、残された道は何かと言えば、意外につまらない結論ですが、「懸命に説明する」以外にはありません。当たり前でスミマセン。でも、そうなんだからしょうがないのです。
政治家は自分の言葉が「嘘」にならないように、事前においても、懸案の最中においても、事後においても、研ぎ澄まされた言葉をもって、件の問題に関して自分が下した判断をとりまく諸条件が変わるかもしれない、変わりつつある、そしてすっかり変わってしまったと説明し、その中で自分はそれでも最善の選択と判断をしたのだと、とにかく「必死に」、「あらゆる言葉を動員して」説明することが必要です。賢明な大人は、自分が同じ立場だったらどうしただろうと想像し、魔術師でもない限り、どれだけ優秀な人間でも、この範囲の中での決断をするしかなかったのかもしれないと考えるものです。しかし、そう考えてもらえるためには、ぶすっとした顔をして「疾しいことは一切ない」などと拗ねた印象を残すような態度ではだめです。説明し「尽くす」以外に、この普通じゃない職業の者は生き残るすべがありません。そして、それでもどうしても「嘘つき」と言われたら、潔く、その評価を受け入れるだけです。
有権者も、散々政治家の悪口を言っておきながら、「本当なら清く正しく誠実なのが政治家であるはずなのに」などという、自分でも一生かかっても到達できないような、どこにもいないような人間のあり方を勝手に基準にして、何かある度に減点して行き、最後に「あの人はもう駄目だね。点が残っちゃいないよ」などというやり方で、相も変わらず政治家を評価していると、まともな政治家を育てることも、まずい事態を避けることもできなくなりますから、もうそろそろ自分のできないことを政治家に丸投げするような態度は改め、政治や政治家を見守るべきではないでしょうか?自分は何の矢面に立たずに、買ってやると言われたアイスクリームを買ってもらえなかっただけで、鬼の首を取ったように「嘘つき!嘘つき!」と喚き散らす生き物を知ってますよね?そう子供です。大人はそういうことは言わないで、「見る所」を見なければなりません。
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