2011年9月8日木曜日

愛おしき学生に告ぐ~ 「間違ったスタートラインはダメです」



間違ったスタートラインはダメです



<憂鬱な春>
 大学入学後、黄金週間が過ぎると何人かの学生が学校に来ないようになります。少しだけ心配になって、彼の仲間だった他の学生に尋ねてみると他の講義にも出てきていないようです。諸々調子が悪いなら良くなってからまた来ればいいのですが中々来ません。もうそろそろ忘れかけて来る頃に「先生、あいつ仮面浪人してるらしいですよ」と知らせてくれる者がいて、はぁなるほどと思います。
 大学の入試というものは各々に本当に悲喜こもごもで、超名門大学に合格が決まり早くも自分の将来が約束されたと大勘違いをする人から、不本意な結果をきちんと受け止められず、雲がかかったような気分をこじらせて、あたりかまわずかび臭い負のオーラをまき散らして拗ねている者まで色々です。件の学生も、どうやらこの後者となっている自分を持て余し疲れて、再チャレンジを決意してこの事態を解消させようとしたのかもしれません。
 高校や予備校のクラスメートがいい大学に合格し嬉々としてそれを語るのを耳にすると、自分の不甲斐なさに頭を抱えたくなるものです。それに比べてオレの行くボロ大学なんてよ、学食メニューは田舎の食堂並だし、キャンパス歩いてる奴らはどいつもこいつも皆アホ面ばっかしだぜなどと、すっかり自分を棚に上げた当り散らし振りです。坊主憎けりゃなんとやらなのでしょう。
 気持ちは分からなくないのですが、そういう複雑な気持ちは30年前にすっかり処理してしまって、今や件の某君が「〇〇大学」と見下しているかもしれない大学で教員をしている立場からすれば、こう言いたいのです。つまり、若いのですから事情の許す限り、気のすむまでチャレンジしたらどうですかと。そして同時に、でも君は「今の境遇にあるオレは本当のオレじゃないし」と思っているかもしれないけれど、私から見れば「きちんと本が読めず」、「きちんと議論もできず」、そして「崩壊した日本語しか書けない」、眩しいほど若い19歳に過ぎないのだよと。大学生活は始まったばかりですから、君の力の無さは何ら非難されるものではないけれど、同じように君の駄目さ加減も別の我が大学の責任じゃありませんよと。
 事情が許して、彼のように仮面浪人できる恵まれた人は良いのですが、多くの人はいくつかタメイキをついて、このキャンパスで何とか頑張ろうと思っています。再チャレンジできるだけ幸福です。ここに踏みとどまっている者たちは、ここでまた自分を磨けばよいと思って、色々な思いを封印して今日も日常を生きます。まぁ、サークルの勧誘してくれた先輩もイイ感じだったし、中国語の先生は結構イケメンだし、この学校だって一応100年以上の伝統あるらしいし、もう一度あの受験勉強するなんてありえないし、あとはもう自分次第だと、全くもって真っ当な態度です。そう考える事さえできればもう大丈夫です。
 しかし、そんな大丈夫君も、一年生の少人数導入教育クラス(高校生を大学生にする矯正道場のようなもの)の時間に、自分が実は何に相変わらず囚われていたのかに気付くことになります。心の整理は付けたはずですが、いくつかのことに縛られていて、心の構造はあまり変わっていませんでした。いくつかのこととは「漠とした憧れ」と「根拠のない自己評価」です。いったいこれは何なのでしょうか?

<不毛な比較:10035
四月の最初の授業の際に学生の顔を見れば、経験上もう誰がいまこの大学の教室にいることで項垂れているのかがわかります。「本当ならば俺はここから電車で40分ぐらいのあの大学の教室にいるはずだったのに」と顔に書いてあります。こういう顔を見るのがまたそれはそれでこの職業の醍醐味なのですが、少々困るのは、こうした負の「気」が他の学生に伝染することです。とくに こういう気にほとんど免疫が無い付属高校出身者です。「え?やっぱ俺らの学校ってアホ学校なんだぁ」となります。こうなりますとクラス全体が「なんかダメっぽくねぇ?」となりますから、これを避けるために毎年慣例のディレクションをします。どうにも嫌な教師だね。しかし。

岡田「まぁ、ここにいる諸君は色々な気持でここにいるんだろうけど、でもここから頑張るしか無いわけですね。で、はじめが肝心なんだけど、そこの君。そう、君よ、君」
学生「俺ですか?」
岡田「そう、君。人と話をするのに帽子も取らない、君よ」
学生「はぁ(なおも帽子取らず)」
岡田「君はさ、大学を出た四年後にどうなっていたいの?」
学生「いや、まだ入学したばかりなんでぇ、何も考えてないっす」
岡田「まぁ、そうだろうね。でもなんだか君の顔見てるとさ、何だかショボくれてるように見えてしょうがないんだよねぁ。やっぱりこの学校は滑り止めなの?」
学生「あ、いやっ、あんまり、その、ちょっと言い辛いんですけど、まぁ、そうです」
岡田「そうすると、高校の時の友達でいい学校行った奴らが羨ましいだろうなぁ」
学生「・・・まぁ、そんなところですけどね・・・」
岡田「トーダイやキョーダイやケーオー行った奴らはいいよなぁ、就職もいいとこ決まるだろうし、ケーオー行ってりゃ女の子にもモテるだろうし、あいつ英語もできるし、顔もイケてるし、もう何か全部俺より上行ってる感じがするんだよなぁ」
学生「って言うか、高三の11月までアメフトやって、普通に現役でキョーダイとかってありえないっすよね?これでも自分、高三の春からマジで勉強しましたから」
岡田「アメフトやってて現役でキョーダイかよ。あんまり友達になりたくないな。そういう奴」
学生「いやっ、けっこういい奴っすよ」
岡田「さぁーってとっ、そんじゃ聞くけどね、お前さん、今ここにいる自分に点数つけるとしたら何点つける?」
学生「何点?何の点数ですか?」
岡田「顔の点数のわけねぇだろ?」
学生「はぁ、そうっすね」
岡田「知的水準って言うかさ、能力って言うか」
学生「まぁ、国立行けなかったし、英語できなかったから、英語できなかったからソーケーもだめだったし、哲学書とか読んでいる友達からカントの本借りたんですけど、チンプンカンプンでしたから、そうですねぇ、35点ぐらいですかねぇ?」
岡田「ずいぶんと低いんだな、35点かよ?」
学生「いやぁー、もう全然っすよ」
岡田「だぁめだコリャ(いかりや長介風)」
学生「はぁ?」
岡田「てんでなっちゃいねぇよ。そんなんでスタートなんて切れねぇよ」
学生「(はぁ?)」

 やや誘導尋問に近いので申し訳ないのですが、この学生はこのままでは新しい人生のスタートを切れません。その最大の理由は、彼が私の誘導に乗せられて自分の評価を「35点」としてしまったことです。無理もないかもしれません。彼は自分がなりたいイメージ構築のデータとして、良くできるキョーダイに行ったあの友人のことを念頭に置いてしまっていますから、その光輝く姿と比べてみると、何とも自分の姿がくすんで見えるのです。そして、あの友人を「100点」と措定して、自分の至らぬ点をピック・アップして次々に引き算をやっています。でも自分は零点だとやってしまうとあまりに救いようがなく、かつ小指の先っちょくらいのプライドもありますから、まぁ35点ぐらいかなとなったというわけです。何だか卑屈なのか謙虚なのかよくわからない自己評価振りです。何せ「10035」なんですから。
 そもそも(気持ちは分かりますが)何だかよく考えると不思議なのは、あの憧れの友人を「100点」という基準に設定していることです。そうしてしまう理由は一つしかありません。それは「理由が無い」からです。身も蓋もないことを言ってしまえば、憧れや「羨んしい」という気持ち、妬み、嫉み、といった気持には理由などないのです。そしてそれはそれとして、人間の自然な感情ですから、そういう気持ちがあることそのものは何の問題もありません。問題となるのは、そんな「非合理的な」憧れを、自己評価の一つの基準点にしていることです。そして、そんな曖昧なものを頼りに、あまり当てにならない引き算をして、ギリギリで自分を無しにしてしまわない35点をつけて、行き場のない自分を作り上げてしまっているからです。

65点の一気挽回は不可能である>
 こういうことから、人生の再出発をしようと思い立つ人は、本当は自分でこれまでの経験で分かっていたはずのことをすっかり忘却してしまっています。それは、65点もの点差をわずか数年で取り戻すことなど不可能であることです。
 前提として100点の根拠も35点の付け方も、何とも頼りない計算ですから、本当ならこんな話には乗っかれないのですが、それを差し引いても「わずか数年で自分がまるで別人になったかのようにはなれない」などという事は、短くも切ない20年弱の人生でもわかっていたことではなかったのかということです。
 このままだと、彼が成長し能力を伸ばすのに障害が生じます。それは不可能な目標設定をすることで、適切な「作業工程表」も「意味ある具体的な作業そのもの」も確立させることができなくなることです。
 サッカーには、最高難度のプレーに「ダイレクト・ボレーでスルー・パスを出す」というものがあります。飛んできたボールを地面に付けず直接キックして(ボレー)、かつそのコントロール困難なボレー・キックを適切な強さと方向とタイミングへと揃えて、味方の走り込んでくるスペースにパスをするというものです。もしこれを100点と設定するなら、35点とは「二回に一回くらいボレーで止まっている味方にボールを渡せる」くらいの水準でしょう。これを100点まで持っていくことは、わずかな期間では不可能です。こういう目標設定では「まずは何ができるようにならなければいけないか」という適切な問いが立て辛くなるのです。なぜならば、このままでは「どのタイミングでパスを出すか」というプロセスに行けないからです。ボレー・キックをコントロールできない者は、飛んでくるボールを空中でとらえながら同時にスペースを見出すことなど絶対にできません。でも、そんなことは元サッカー部だったこの学生にはわかっていたことのはずです。どうして大学における学問的能力の話になると、こんな当たり前のことを忘れてしまうのでしょうか?

<普通の出発点:「今が100点」>
 正しい出発点を設定するのは、実は複雑なものではなく、非常にシンプルで普通のことです。それは「今の自分を100点とする」というものです。この100点という数字選びには二つの意図が込められています。一つは35点という「落第点ギリギリ」の語感を回避することで、不要な劣等意識を薄めてしまうことです。人間は「今の俺はどうしようもないのだ」と考える所からは、あまり力が出せません。未来よりも過去のことばかり考えてしまうからです。もう一つは逆です。「100点なんだ」と思い曖昧なコンプレックスが薄まることで、不思議なことに冷静な心のリズムを取り戻すことができるのです。そして、自分に向かって次のように言い聞かせ、問うことができるようになります。

「今のお前が100点である。次は103点だ。そのために何をすべきか具体的に考えろ」

 繰り返しますが、人間は100点からいきなり165点には水準を上げることができません。所詮は35点だと考えれば、100点までは「到達の道筋をイメージできないほどの遠さ」という気持ちに押しつぶされそうになりますが、「100点から165点」と表現してみると、「え?そもそも設定自体が変じゃネェ?」という気になってくるから不思議です。「どうせダメっぽいし」と「そんな目標馬鹿臭くね?」の何たる違いよ!「どうせ35点だし」という気分と「100点からさてさてどうするべぇ」と冷静に考える態度では、天と地ほどの違いがあります。

<作業は具体的に:「ガンバリマス」?>
 そして次の部分が極めて重要です。103になるために何が必要なのかを「具体的に」考えよ、の部分です。例えば、少人数ゼミで学生にテキストを講読してもらい、レジュメを作って報告をさせますが、その出来不出来は別として、私は報告が終わると必ず「今日の報告を自分なりに評価するとどうなるかな?」と問います。報告が終わっただけでは学びはまだ半工程にしか来ていないからです。するとほとんどの学生は非常に曖昧なことを言うのです。

 「もっとちゃんとまとめなきゃダメだと思いました」
 「内容とかけっこうスカスカで、もっとわかり易くって言うかぁ・・・」
 「だらだらやってる感じでぇ、もっとちゃんと・・・」

 こういうあいまい表現を耳にすると、もうこれだけでこの学生の行く末が心配になります。彼らの自己評価には「何がダメなのか」が具体的に示されていないので、それを克服するためにはどうしたらよいのか、その修正のための「作業」が決められないのです。例えば、「レジュメをただ読み上げるだけでアイコンタクトが全く取れませんでした」と具体的に指摘すれば、「ではなぜ取れなかったのか?」と考え、「発表原稿の内容が十分に頭に入っていなかったために、読むことに気を取られ、聴衆(他の学生)に語りかけるという意識が弱くなってしまったから」と出てきます。そうすれば「余裕ある息遣いと眼差し遣いを可能にするために、発表原稿を「もう五回精読する」というふうに、問題克服のための作業と訓練方法を「具体的に」決めることができるのです。「どうにも報告が滑らかに進まず、取り留めのない雑感みたいなものを残すような発表となってしまった」なら、次にやるべき具体的作業とは「メモ書きではなく、きちんと発表原稿を作ってみる」になります。そして、こうした具体的な問題点の克服方法をこなしていくことで、100から102を確実なものとさせていくわけです。
 多くの学生はこのことに気が付く前には必ず「もっとテキストの内容を深くとらえられるように頑張ります」と言います。だから即言い返してあげます。
 「『頑張ります』には、問題解決のための具体的作業が含まれていないよ。何をどう頑
張るのか、具体的に決めてよ」と。
 「ガンバリマス」などという言葉は、昔はアイドル歌手が使う言葉だったわけで、そんな空虚な言葉を何万回聞かされたところで、我々教員の心配と失望の前では全く焼け石に水です。それより何より、我々大人が本当にイライラするのは、学生が「頑張るなどという当たり前の事は、そもそも評価項目にすら入らない」ということをわかっていないことです。頑張るのは当然です。頑張れないなら学校をやめて頑張れる別の仕事をするべきです。必要なのは「何をどのようにどれぐらい頑張るか」です。

<「できる事」ではなく「できない事」の確認>
 このように考えると、新しいスタートを切るのに必要なのは「何か」や「誰か」との距離を測ることではなく、「今自分が立っている場を可能な限り正確に把握する事」だということがわかります。「あいつみたいになりたい」ではなく「今の自分の良さ加減悪さ加減を確認する事」の大切さです。でも「可能な限り」です。それは、自己評価などというものが元々あまり正確ではないからです。それならば、どうすれば自分のいる場を正確に知れるのでしょうか?いわずもがなですが、一応言っておきましょう。「だ・か・ら、学校に行って他者からの評価を全身で浴びるのだ」と。学校に来るのは、あまり当てにならない自己評価を少しでも正確にするためです。そして「良さ加減と悪さ加減」で比べれば、100102にするために重要なのは圧倒的に「悪さ加減」、「できなさ加減」の方です。
 曖昧な憧れと、根拠不明の自己評価という「眠ったような状態」から脱して、100102にするための具体的な作業を考えるという世界に行くならば、克服すべきものを徹底的に把握しなければなりません。つまり、そこで必要な認識とは、自分に「できる事」ではなく、圧倒的に「自分のできない事」である他はありません。そのことを前提に言えば、真っ当な大人が想定する「能力」とは、「何かができる能力」と言うよりもむしろ、「何が自分にはできないのか」を冷徹に把握する力こそ本当の能力だと言うことができます。それを正確に知った時に、我々は克服すべき「具体的作業」を決めることができ、100102にすることができるわけです。
 仕事をする人々の生きる世界では、自分は何ができないのかと冷静に向かい合うこともせず、ただ漠然と「今の自分は本当の自分ではない」と思っている人間のことを馬鹿と呼んでいます。知の世界で新しいスタートを切ろうと考えるすべての人間が、まずとにかく、何が何でも、脱しなければいけないのがこの状態です。

<自己実現などしなくてよい>
 人間は本当に何に縛られているのかわかったもんじゃありません。今日、深くものを考えずたくさんの大人が「自己実現」などという意味不明な言葉を使って、子供たちを騙してきたために、大変な数の若者がガンジガラメになっています。先に示した「今の自分は本当の自分ではない」と思いこんでしまった病状とセットになっているのがこの「自己実現しなきゃダメなんだ」症です。患者に言わせれば、自己実現できない人生は負け組の人生なのだそうです。本来なら自己実現できていなきゃいけない自分なのに、今なおも「やりたいことが見つからずにいる」、本当の自分に未だなっていない状態なのだそうです(だから「とりあえずバイトでもしながらゆっくり考える」んだそうです。親の金と親の家で)。
 「自己」を「実現する」という、本当に誰が考えたのかと思うほど頓珍漢な言葉の不可解な所は、実現すべき自己の未来像があたかも客観的に存在しているかのごとく、それを前提にしていることです。自分は現在こんなに不甲斐ない状態だが、いつの日かここを脱して別の何かになっているはずだと考えているのでしょうが、「実現する」わけですから、おそらく存在としても具体的な何かをもうこのプロセスに組み込んでいるのでしょう。例えばこれを仮に「公務員」としてみましょう。この場合、「ついに自己実現を果たして公務員となった」ということになるでしょう。
 しかし、公務員になることが自己実現なのだと言われても、申し訳ないのですがなんだかとってもチープな香りがします。「自己実現としての足立区役所職員!」とか言われても、地方公務員として本当に区民の役に立てる者となれるかどうかは未だ全然わからないのですから、やっぱり違和感はぬぐいきれません。そう言うと、「そうじゃなくて、もっと何て言うか『自分らしさ』を前面に押し出して行くって言うか、個性あふれる姿みたいな」と言い返してきます。これがまたこちらにはますますわからないわけです。
 「自分らしさ」を発揮できて、自分に合った仕事をして活き活きとしているという意味での自己実現と言われても、やはり何と言っても「自分らしさ」というものが何なのか、さっぱりわかりません。何じゃぁ、そりゃぁ!通常人間は自分らしさを知る方法を一つしか持ち合わせていません。それは「他者の評価を通じて」という方法です。自分らしさとは自分からにじみ出てくる、自分の匂いというか、エキスというか、そういうものを自分で確認して「これが自分らしさというものだ!」と確認可能なような類のものではなく、「ちょいと。アンタ。臭うわよ」と他人に指摘されて、「そうなんだぁ!」と不思議顔して受け入れる類のものなのです。したがって、原則的には自分らしさとは、自分では納得できないような他者によるイメージを核にしているものです。
 そうなると、そんな納得できない、「えぇ?」と思うような「らしさ」を発揮することで、どうして活き活きとできるのかが、こちらにはさっぱりわかりません。加えて、どうにも完全に順番を間違えているのが「自分に合った仕事」という発想です。どうも子供のころから大雑把な物言いを全身に浴びて来た人たちは「貴方はすでに確立した人間なのよ。自信を持って胸を張っていなさい」と言い聞かされて、そんな自分が仕事で活き活きできないのは、その仕事が「私に」合っていないからだと考えています。とんでもない大勘違いです。この世になぜ仕事が存在するのかといえば、それは「貴方に必要だから」ではなく、「この世の中に」必要とされているからです。だから貴方と仕事の関係とは「貴方が仕事に自分を合わせる」という以外にないものなのです。

<「自己」とは自分の欲望プラス他者の評価>
 どうやらこうして書いてきますと、一番の勘違いポイントとは「自己」の理解の所だとわかります。「自分とはこうだ」という自己規定や、「自分はこのぐらいの水準だ」という自己評価が、すでに確定していることを前提にして、勝手にままならぬ人生に対してブルーになっている人々が、自己実現などという言葉を安易に使うのです。自己の評価とは「自分でした評価のこと」だと思っているからです。
 しかし、これまでも指摘しましたように、自己の評価を自分ですることほど当てにならないものはありません。自己評価とは、自分でした評価ではなく、他者にしてもらうものだからです。でもそれでは「人の言いなりになってしまうではないか」と反論されるかもしれません。自分でする評価は当てにならないとすればもう他人の言うことに右往左往するしかないというわけです。でも、人間の自己理解というものは、他者からの評価のみで成立しているわけではありません。何よりも自己の「欲望」が明確でなければ意味がありません。自分は何者かという問いに意味があるのは、「自分はかくありたい」という展望と願望がセットになっているからです。つまり人間の自己理解とは、根本的なものとしての自己の欲望プラス、他者の評価との「織合わせ」としてのみ成立するのです。自分はこのようでありたいとか、あのようになりたいと願う一方で、他者の目に映る自分は全く異なるものであることを知り、そのことで人間は自分の持つ願望や欲望のトーンを変えたり、ニュアンスを複雑にしたり、欲望の向う対象を微妙にずらしたりすることがあります。これはどちらが正しいのかという話ではありません。この世界で、この世界との「関係」の中で生きて行く以外に道の無いほとんどの人々は、自己の持つ大甘な、願望交じりの気持ちと、他者の判断するものとを両方取り込みつつ、トータルで「そこそこ楽しく充実した日々だった」と、相当老年の域に達した時に振り返るのであって、百歩譲って自己実現のようなものに評価を与えることがあったとすれば、それはそういう「後々」の御話なわけです。

<合言葉は「勇気」>
先に私は「今を100点とする」ことから始めよと書きました。そして、これを100点から始める理由、裏から言えばどうして35点からではダメなのかを書きました。それは「今の自分は所詮35点だ」という自己評価がほとんど「このままじゃダメだ」の域を出ない、あまり当てにならないものだからでした。同じ理由でまさに自己実現など、そういう当てにならない前提の上に成立した、あまり意味のない言葉なのです。つまり、それは自分を勝手に35点として、それでいて何ら具体的な努力計画も立てず、言い訳のように「ガンバリマス」と言って、何だか暗い顔をしている、あの仮面浪人直前の人達の話と基本は同じだということです。
スタートラインを間違えてはいけません。「漠とした憧れ」と「曖昧な自己規定」に基づいてスタートを切る者は、必ず行き詰まり、大きな前進も成果もなしに燻り、今の自分は本当の自分ではないと自分で評価し、未だ自己実現できていない自分に焦り、そして何もできず、自分に仕事が合っていないと転職を続け、その度ごとにキャリアを下げます。まさにこの大学は俺に合っていないと、まだ自力も何もついていないのに勝手に「自分で評価」をし、仮面浪人となり、夏休み前には「寝たきり浪人」となり、何も変わらず、何も見出さず、戸籍年齢と肉体年齢だけ一つ増やして、また同じ教室に姿を現すのです。
「俺には俺のやり方がありますから」と言い訳をしている貴方。貴方はこれまで「貴方なりのやり方」をやり続けてきて、「こう」なっているわけです。今後もまた「俺流」でスタートを切れば、何百年経っても自己実現できませんし、100102にすることを実効的な計画に従ってやり続けるという、特別な才能など持ち合わせない普通の人間が成長する時の唯一のパターンを経験することはできません。もう一度、しつこく言います。スタートラインを間違えてはいけません。
これは能力の問題ではありません。ひとえに「勇気」の問題です。

2011年8月5日金曜日

愛おしき学生に告ぐ~ 「君たちは未だ存在していない」

君たちは未だ存在していない




〈至れり尽くせりの12年間〉
英語で試験の点数のことを ”mark” と表現します。偶然ですが、これは非常に象徴的です。点とは「マーク」です。つまり、点数が付くことでマークがつく、あるいはマークが付くことで「その人が取った点」を介して、その人の存在が確認されるということです。試験を受けて成績が付くと、その人の存在が確認される(identified)ということです。
試験を受けて、点が付けばそこにいると認めてもらえるという、至れり尽くせりの境遇にあるのが、高校卒業まで通った12年間の学校のアリガタイところです。なぜならテストひとつ受けさえすれば、「君はここにいるよ」ということにさせてもらえるのですから。え?どうしてそれがそんなにアリガタイかですって?どうしてそんな質問をされるかも、私たちのようなおじさんには本当は不可解なのですが、ひるまずに説明すると、この世の中は家族や身内以外では、ほぼすべての人が自動的に貴方の存在を確認してくれるなどという奇跡のようなことは起こりえないからです。とりわけ、仕事をするような人生段階になれば、自分が存在することを必死で訴えなければ、ほぼ誰も自分の存在を認めてくれません。

〈君たちはまだいない〉
率直に言ってしまえば、今、大学のキャンパスで肺呼吸をしている大学生のうちの多くの皆さんは、大変申し訳ないのですが「未だに存在していない」のです。もちろん学籍名簿には全員の名前は掲載されています。でも「存在」していません。昔、「お前はもう死んでいる」という決めゼリフの漫画がありましたが、それはひどすぎますから「お前はまだ居ない」です。居るけれど居ないのです。昼休みも終わろうとする時間には、ぞろぞろ学食の出口から大量に湧き出てくる人々のほとんどが、居るけど居ないのです。
昨年秋、大学生の就職内定率が約60%くらいだという報道がありましたが、内定していない40%の人たちの多くは、おそらく私がここで言わんとしている「存在していない人」だと思います。確かめたわけではありませんが、おそらくそうであるはずです。
一般に、人は他者の存在を、社会的存在としての他者(物理的な意味での単体存在ではなく、共同体や他者との関係を継続しながら社会的な「生」を営む人間という意味)をどのようにすれば確認できるでしょうか?それはひどく簡単に言ってしまえば「その人が何を考えている、どのような人なのかがわかること」で、ある程度確認できます。それはそうです。横断歩道ですれ違う大量の人々が、そこには確かに物理的に存在するのに、どうして実質的には「居ない」に等しい、ただの通りすがりの人々、自分にとっては舞台のカキワリに過ぎないかと言えば、その人たちが「どんな人なのか」という情報が限りなくゼロに近いからです。
ということは、未だに存在していない多くの大学生は「何者かを知られていない存在」ということになります。自分が何を考え、どんな人間であるかを伝えるためには、教室の座席にちょこんと御行儀よく座っているだけでは駄目です。必要なのは声帯を震動させてしゃべることです。当たり前のことですよね。でも、この当たり前のことを多くの大学生がわかっていません。少人数クラスでテキストを読んで、コメントをカードに書いて、ディスカッションをすることになっているのですが、半数以上の学生は90分の間に一言もものを言いません。少人数クラスとは言え、ここは大学なので別に担任の教師がクラスの全員について、パーソナルデータを基に指導するわけではありませんから、なんら発言も質問もしない人達は、教員にとっては、居るけれどいない人たちなのです。こんなことを書くと冷たい人間と思われるかもしれませんが、ここで言葉を使わない人は、いないと同じなのです。
   授業の終わり頃になると、「ええと、本日何にも発言しなかった人は現段階で透明人間状態なので、次回は声出して存在を確実させてくださいね。今このクラスには学生は7人ぐらいしかいませんよ。このままだと、存在するこの7人の人たちとだけ授業やることになりますから、よろしくね」と嫌味なアナウンスをします。そういう嫌なことを言うものですから、焦った学生が授業の後に近寄って来ます。

学生「先生。今のところ、俺の評価ってかなり低いんすよね?」
私    「評価?低くはないよ、別に」
学生「マジっすか?」
私    「うん」
学生「もしかして俺、イケてるって言うことですか?」
私    「いや、評価が低いんじゃなくて、無いの」
学生「え?無いって?」
私    「君がさ」
学生「俺がいないんすか?」
私    「そう。評価するためのステージにまだ上がってないの

   大学に来て、クラスで一切声帯を震わせない人は、これまでの学校人生の心の習慣が出来ていて、何度警告しても、注意を促しても本気で人の言うことを考えようとしないのです。でも私の職業は企業の上司ではないので、どんなに疲れていても原則として「若者にチャンスを提供する」という仕事をしなければなりません。ですからわかるまで次のように言い続けるしか無いのです。

私: 君達は大学に入って来たのだから、一応高校野球で言うと、野球部に入部したのと同じでさ、でもボールをどれだけ早く、正確に、そして遠くまで投げられるかも、どれだけ早いボールをバットに乗せて遠くまで打ち返せるのかもわからないからさ、背番号も貰えないし、地区予選にも出られないから、「え?そんな奴いたっけ?」って思われてるんで、つまりは「居ない」と思われてんの。え?甲子園?ああ、あれはね、ウルトラ・スーパー・エリート、本当にごく一部の超人たちだけが行くところだから、この世の普通の人たち、そうそう君や私のような人間とは全く無縁な所だから、考える必要も無いの。だからまずは、選手として背番号を貰って地区予選に出なきゃ何も始まらないと言うことよ。え?人間として否定されてるような気がする?いやいや、誤解しないでね。最後まで言葉で何とかするという前提で出来てる、大学の学問の世界での話だから、一般社会じゃないよ。地球人としては、君は存在してるに決まってるじゃ無いの。そうそう、・・・おいおい、泣くなよ。要は、黙ってお地蔵さんでいるなら、お金がもったいないから、働いた方がいいよって、言ってるだけだから」

〈なのに何もしない大学生〉
   野球選手だって、ボールを投げたりバットを振ったりするのに、大学にくる人たちはどうして発言もしなければ質問もしなければ、本も新聞も読まないでボンヤリしているのでしょうか?地区予選で背番号を貰いたいと思っている選手は、ミーテイングで話をするコーチの言葉をノートにとっているだけなら、絶対に試合になんか出られません。女子マネじゃないんですから。やはりボールを投げ、取り、そして打ち返しますよね。当然ですよね。それなのに、どうして大学生は、言われないと、いや、言われても「何もしない」状態なんでしょうか?普通に考えて、不思議で仕方がありません。
   大学を卒業して就職するということは、やはり野球で言えば、どこかのチームに入団するということです。入団と言われても、最高峰であるプロ野球の選手になれるのは、本当の超人だけですから、そこまでは言えませんが、まぁ地方の独立リーグや社会人チームといったところに入団することができれば、めでたく就職ということでしょう。そんな設定であるとして、地区予選にベンチ入りもできなかった選手に入団のための願書、エントリーシートを送りつけられても、人事としては判断のしようがありませんよね?
   それでも何でも、奇特な人事関係者が仕事をするふりをする目的で、たまたま運良く面接に紛れ込んでも、当の本人が「ボールは投げられます」、「自分、来た球は一応打ち返すやる気だけは負けません」、あるいは「塁間27mを走る練習だけは下級生をぐいぐい引っぱってリーダーシップを発揮しました」とマニュアル通り(何とマヌケなマニュアルでしょう!)言うだけです。「時速何キロのストレートを投げるのか」、「アウト・ローのスライダーをレフト前に打ち返せるのか」といった、人事のする評価の基本資料すら、ちゃんと説明し、説得することもできないのです。そうなれば、「内定」などもらえるはずがありません。先ほど触れた、内定をもらえない40%の人たちとは、要するにこういう人たちのことです。

〈学生証だけで「存在」していた昔の学生さん〉
   昔は事情が異なりました。かつての日本のエリートたちというのは、同年代の10%以下くらいの人たちで、その人数はだいたい旧制高等学校の定員くらいでした。高等学校から大学に行くのはさほど大変ではなく、高校の定員とほぼ同数の定員が大学の定員だったからです。つまりエリートになるための最難関は高等学校の入学試験であって、これをクリアできれば、ほぼ自動的にエリートの仲間入りができたのです。
   このグループのメンバーであることの証明書こそが「学生証」でした。これさえ持っていれば、もうこの人間がどういう存在かは十分に認知・承認されていたのです。基本は「末は博士が大臣か」ということであって、だから酒を呑んで高歌放吟して多少暴れて物なんか壊しても、「まぁ、学生さんのしたことだから」という、今の人には理解不能な一言でほとんどが大目に見てもらえました。要するに、高校入学の段階でもはや全員「存在」していたのです。
   ところが今日、大学は相当に大衆化してしまい、間口が大きくなってしまいました。1960年代半ば位までに大学生層は戦前に比べればかなり広がりましたが、それでも進学率は10%代半ばくらいで、やはりまだ学生証だけで安心してもらえてたのですが、それ以降進学率も上がり、30%を超えるようになります。そして、25年前に大学を卒業した私の時代に比べて、今日21世紀、大学生は100万人も増えてしまいました。進学率も50%、つまり小学校の入学式で一緒だった友達の半分が大学にくることになっているのです。
    そうなるともう今や学生証があるだけでは「その人間がどの程度の自(地)力を持った者なのか」がわからなくなってしまいました。当然です。とにかく大量にいるんですから。しかも、少子化のためにかつてよりも激しい競争の経験をしたことがない、おっとりとした人たちがほとんでですから、ただただボンヤリして学生証を持っているだけで、アピールもできないし、そもそも存在そのものすら現段階では社会に伝わっていないし、伝えるためには努力が必要だということがピンと来ていません。みんな豊かになって育ちが良いので、自分で何かをハンティングするのではなく、「待っているとセットしてくれることになっているお子様ランチ待ち」の人達の比率が上がってしまい、そのまま放置されているのです。自分たちはもはやただ学生証を持っているだけでは存在していないままだということの意味もよくわからずにいるのです。

〈存在していないのに大企業を希望する切なさ〉
グローバリズムという流れと、それが生み出した構造は、20世紀の主要産業のビジネスモデルを変えてしまい、国単位で仕切られていた人と物と金の流れをより一層拡散させてしまいましたから、日本の大企業ですら、明日はどうなるかわからない、極めて不安定で不透明な時代となってしまいました。景気は冷え込んだままかなりになりますし、国内の格差についても議論され始め、何やら明るい見通しがないようです。こういう時にはやはりどうしても安定志向が強まりますから、そして何がどう変わったかは誰にも正確にわかりませんから、相変わらず寄らば大樹の陰ということで、大企業への就職を希望する学生も変わらず沢山いるわけです。
    ところが何も知らない、何も読まない、そして何もメッセージじを発信しない、四半世紀前より100万人も増えてしまった大学生が、かつての感覚と常識でエントリーシートを出して、就職活動をしますから、ものすごい数の、学生証を持つ「存在している学生」と、心優しき「未存在の学生」が、渾然一体となって日本の全企業の1%に過ぎない大企業に殺到します。ですから、増えた分の100万人、全体の40%ぐらいの「学生証しかもっていない」人たちがはじき出されて、内定が出ないということになっているわけです。
   マス・メディアは、ただでさえ若者が紙の新聞を読まず、今やテレビすら見なくなってしまったところに、あまり悪く言うと益々マス・メディア離れがひどくなるとビクビクしているので、こうした当たり前のことを書きませんし、報道もしません。だから論調は、「リーマン・ショック以降の景気後退で就職氷河期の真っ只中にいる不憫な若者」という風になり、「学歴が必要だ」という、かつては当たり前だった常識だけを頼りに学生証「だけ」を持っている、それ以外は基本的に何もしない(「本とかは、読まないっす」と何の羞恥心も示さずアッケラカンと言う、そういう意味)人たちが「この世界は不公平だ!」と人のせいにすることが許されてしまうのです。こういう先輩の姿たを見ている次世代は、ばく然とした未来への不安をかこちつつ、この温いニッポンを生きています。このスパイラルは何処かで止めねばなりません。

〈存在するために必要なこと〉
   存在するために必要なこととは、とにかくまずは「声を出すこと」です。と言っても、奇声を発するだけではだめです。「たくさんの言葉」を作って、たくさんしゃべるということです。これは(こんなことをわざわざ言わねばならないことになっているのが不思議ですが)自分が「意思ある存在(市民)」ということを伝えるために、どうしても必要なことです。
    日本の学校では、黙っていることで大人しくて良い子とされる、波風立てない従順さが高い評価を受けますが、このすり込みはかなり強力です。この様な風景と雰囲気の中で同調圧力を持続的に感じながらバランスを持ってやっていく癖がついている人間は、知らず知らずのうちに自己主張を明確にすることは、あたかも道徳的に悪であるという認識を身につけることになります。自己主張を控えるのは、あくまでも「政治的な判断」に過ぎないにもかかわらず、区別がつかなくなります。これが道徳的判断か政治的判断かは、非常に重要な問題ですが、いずれにせよ10年以上も続けて来た心の習慣をいきなり改めることができないために、学生は相変わらず大学の教室に来るに至っても、「常時様子見スタイル」を崩すことなく、パッとしない四年が過ぎて、勤め人(しかも残念な勤め人)になってしまうのです。これを避けるための第一歩は、とにかく「声帯を震わせる」ことです。

この項目つづく。

2011年6月24日金曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その⑦「そう評価してよいのかワカラナイ」







<ワカラナイ⑦:どう評価してよいのか>
 この七番目の「ワカラナイ」こそ、学問の世界の王道を行くワカラナイです。やっとここにたどり着きましたね。自分が教室にいる理由もワカる。教員や友人や先輩が話す日本語も大方ワカる。夏休みに世界史の勉強もしたから、だんだんと前提知識もワカッテきた。今している議論の文脈では、何にフォーカスを当てるべきかもワカる。多岐にわたる議論の交通整理も、かなり時間がかかったが、自分なりにやってみることができた。しかし、最後に、自分がどのような選好(preference)に依拠して、この多様な議論を踏まえて、「自分なりに」どのように「評価(evaluation)」するべきなのかが、まだワカラナイ。つまり、どう評価すべきなのかがワカラナイということです。

 この世の学問をする人、それ以外でも、ある種の重大な決定をしなければならなくて、そのための知見を準備しなければならない立場にある人は、基本的には、この七番目の問題、もしくは六と七の中間を行ったり来たりしながら考え、悩み、発見し、失望し、またやり直しという具合にやっていると言ってよいでしょう。学者や学生は、「評価する」部分に留まって悩み続ければよいでしょう。しかし、政治家や経済人、その他「決断」をしなければならない人たち(社会的エリート!)は、ある時点で覚悟を決めなければなりません。その意味では、決断とその結果を全身で受け止めることを免除されている学生は、極めて純な姿勢でこの作業に没頭することが許されている、非常に贅沢な人生を送っているということになります。
 ここで注意しなければならないのは、ここで「ワカラナイ」とされたとしても、そのことをもって直ちに意味が失われるわけではないということです。評価とはすべて暫定的なものです。「あの時点で懸案問題に関する最終的な評価が定まった」などと回顧する言い方がありますが、時代が変われば「新しい評価」、あるいは「再評価」というものが生まれるかもしれないからです。
 さほど大それた話ではないにしても、例えば個人において「どう評価してよいかワカラナイとしても、暫定手的に、常に暫定的でよいと腹をくくっておけばよいし、ワカラナクテも、ああでもないこうでもないと悩みながら発した大量の言語は、ともに考え、議論した他者にとってどれだけの刺激となるかもわかりません。何を鼓舞するかもわかりません。交通整理ができているだけでも大変なものです。いくら世界に一人の自分として評価せよと言われても、あらゆる思考のレベルで押し引き、綱引きが生じて、甲乙付けがたいことは起きるわけで、その時はその時で仕方がありません。そういうワカラナイは、そこに至るまでの葛藤が強く、切ないものであればあるほど、問題に深みと切実さをもたらします。我々教室で働く者たちも、こういうワカラナイで、ともに悩みたいというのが本音です。こういうワカラナイなら、喜びを感じるというものです。

<大切なこと:解答ではなく「問い」そのもの>
 これまで大雑把に「ワカラナイ」を七つに分類して来たのですが、ここまでお読みいただけば、「何がワカラナイのかがワカラナイ」という事態が、どれだけ悲惨なものかということがお解りになったはずです。裏から言えば、我々は「何がワカラナイのか」がワカレば、問題の半分以上が解決したに等しいということに気が付きます。ものを学ぶということは、「学べば学ぶほど、ますますワカラナクなっていく」体験なのだということは、このことを別の言葉で表現したものです(「学ぶほどに自分が賢くなっていく実感がある」と言ってしまう人間は、どこか浅はかなのだということです)。
 高校を卒業するまで、ひたすら穴埋めのパズルのような「解答探し」をやってばかりだった人は、ここで人生で初めて、最も重要なのは解答を手に入れることではなく、世界を腑分けて、交通整理をして、「問いを立てること」なのだということに出会うのです。ある政治家が「政治とカネ」の問題をめぐって有権者の六割以上の人に「議員辞職するべきだ」と思われていますが、本当にそうなのかどうかを考える過程で大切なのは、この問題に「本当に正しい解答が一つあるはずだから、それを手に入れること」なのではなく、きちんと考えることのできるデータをフェアに共有した後に、「どのような問い」を立てるのかということです。意味があるのは、「政治家は一点の曇りもない潔癖さを用意しておくべきかどうか」という問いの立て方なのか、「事実に反するような判断に基づいて、公権力とメディアが一人の政治家を報道を通して潰すようなことが民主政治と呼べるのかどうか」という問いなのか、いずれの問いが問題の核心をついているのか、いずれの問いが我々の真の公共の問題解決に貢献するのか。このように考えるのが、メダカの学校と学問の府大学との違いなのです。

 そうなると、講義が終わった後に、真面目な19歳がシャーペンとノートを持って「結局、ナショナリズムって無い方がいいんですか?(まだ先生の答えを聴いてないんですけど)」と質問してきたら、「それは君が決め、判断し、評価することであって、その評価を下すために、君がどういう問いを立てるかがすべてなんだよ。僕の評価が君のと異なっていたらどうするの?」と逆に返すことになります(10年前には、この手の質問にひたすら驚いて、目をパチクリしていたものですが、最近は少し心にも頭にも体にも筋肉がついてきて、このぐらいの返しができるようになりましたが)。「オザワイチロウってやっぱダメなんすか?」じゃなくて、君がすべきなのは「オザワイチロウがダメなのかどうかを考えるために、どんな問いが必要なのかを考えること」なのです。そして、そのためには、七種類の説明してきた「ワカラナイ」をちゃんと区別して、いったい自分はどの意味でワカラナイのかを少しは確認してから「ワカラナイっす」と言いなさいというわけです。そうでないと、与えられた、つまり本当に正しいのかどうかもワカラナイ「解答」をただただ受け取るだけの「餌をもらう金魚」のような存在、言い換えると「人の言いなりの人生を送る者」となりますよということです。

 「君はいったい何がワカラナイのか?」という問いは、それほど大切な問いなのです。

 
 この項目終わります。お読みいただき、ありがとうございました。

2011年6月13日月曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その⑤「発言の目的がワカラナイ」⑥「選択できない」

<ワカラナイ⑤:発言の目的が>
 次のワカラナイは、質問の意味も論理もワカルが、どうしてこの文脈で「そんなことを言うのか」がワカラナイというものです。つまり、発言の意図や目的がワカラナイというものです。これは、自分が心情的にコミットしてしまっていることに引きずられて、全体の流れとシンクロしないままものを「言い募ってしまう」ような時に現れます。

 20世紀の帝国主義的構造の中で、各国は経済的利益を衝突させながら結局は世界大戦に至ってしまうのですが、この考え方で見れば、戦争は経済構造が主たる原因で生ずるものという理解になるでしょう。戦争が起こる理由は様々ですが、より社会科学的に考えるなら、あるいは過去の歴史をデータに実証的に推論していけば、20世紀の戦争は爆発的な生産力を背景にした「近代世界」がもたらす歪みのようなものの、ひとつの暴力的な帰結だったと推論することができます。教室では、こんな大きな問題にいきなり答えを出すことは不可能ですから、少なくとも、何らかの因果関係を論理的に想定して考える試みをさせようというやり方となります。

 ところが、本人は悲しくなるくらい真剣なのですが、いきなり挙手をして次のようなことを言い始める学生がたまにいます。
 「戦争が起こる理由について皆さん色々なことをおっしゃいますけれど、最も大切な話が抜けているんじゃないかと思うんです。それは『愛』です。戦争は人を殺します。それによってたくさんの人々が悲しみのどん底に突き落とされます。でも愛があれば、慈しむ心が失われなければ、戦争を止めることはできると思うんです。ヒットラーだって子供のころから邪悪な人間ではなかったと思うんです。殺伐とした愛の失われた人生を彷徨ううちに、人にとって一番大切な心を失ってしまったと思うのです。慈しみの心があればユダヤ人を何百万人も殺すようなことはなかったはずです。みなさん、経済とかの話をしていますが、こういう大切なことを忘れては戦争の議論はできないと思います」目にはうっすらと涙すら光っています。なるほど。おっしゃるとおりかもしれません。論理も大変素朴ですが、別に間違ったことを言っているわけでもないようです。

 こういう時には、意外にも普段はほとんど何も発言せず、いつ教室からいなくなるのかなと思われているような、大人しい学生が、ボソッと、かつ的確にこの愛の使者に向かって言うのです。「間違ってるとか思わないけど、そんなこと言って何になるわけ?」と。この発言をきっかけに感情的なやりとりにならないように、教員は職業的能力を駆使します。「今の疑問は、いわば『愛』の議論と経済構造の話がどう意味ある結びつきを持てるかっていうことだよね?」と(気が遠くなるほどのマヌケぶりです)。もう少しひねくれた学生になると(昔の自分ですが)、「18年も人生やってきて、色々あって、真っ直ぐな心だけではどうにもならないこともたくさんあるって、わかって当たり前なのに、なんでそんな甘ったるい事言えるのか、正直言ってわかんないっす」と実に手厳しい反応となります。

 それでは彼は「愛なんか○○の役にも立ちゃぁしねぇべさ」と思っているかといえば、そんなこともありません。「それはワカルけど、何でいま、こういう流れで、こういう話になってるのに、『あんな』理屈を持ち出すのか、それがワケワカンネェヨ」というでしょう。これが、所謂「ワカルけどワカンナイ」というやつです。これまで出て来たパターンとは、やや(というかかなり)趣(おもむき)を異にしていますね。何しろ、ワカルけどワカンナイのですから。
 こうしたやり取りは、何も学生の間でばかり起こるわけではありません。最初から政治的な目的を設定して議論をする人と、言葉のせめぎあいの中から生まれる奇跡のような発見を期待する人とがやりとりすると、必ずこういうことが生じます。政治とは、言わばこの「なぜ今、ここで、そんな話となるのか?」という疑問に答えことなく、強引に自分の土俵に相手を引きずり込んで、可能ならば相手が主体的に、自分で合理的に納得して、自らの主張に同調してくれるように仕向ける巧妙な行為なのかもしれません。

<ワカラナイ⑥:選択できない>
 「ワカラナイ」の前に、「どれを選んでいいのかが」と付くパターンがあります。議論が多岐にわたっておりおり、「どれがこの問題に関して最も重要なポイントなのかが判断しづらい」というものです。どれもみな重要な気がして、どう判断したらよいのかワカラナイのです。このパターンの前提は、「各々個別の議論、理論はワカル」ということです。もちろん「言いたい気持ち」ではなく、「理屈としてワカル」ということです。

 先にも出てきましたが、「昭和天皇に戦争責任はあったのか?」という問題などは、もちろん戦後の知的エリートの怠慢のせいで、すべて論点が出尽くしたなどということはありませんが、それでもさすがに長い年月を経て、かなり多様な論点が示されてもいます。ざっと考えても、この巨大な問題の切り口はたくさんあります。例えば、昭和天皇個人のキャラクターはどうだったのかというものです。戦時中敵国だったアメリカやイギリスにいた人々は、ヒロヒトは野蛮で残酷で残虐な悪魔のような人間だと信じていたでしょうが、多くの日本人は本当は高潔で立派な人格者だったと思っています。
そんなことは政治においては関係が無い。大切なのは、昭和天皇が「立憲君主として有能であったか否か」であるというポイントもあります。大日本帝国憲法は、憲法の中でも特に統治機構に関して、権限や責任が拡散してしまう、そもそも欠陥構造を持っていたのであって、天皇は立憲君主の在り方というものを形式的にとらえ過ぎて、現実に要請された政治的君主としての役割を果たすことができずに、結果的に無謀なる戦争を止めることができなかった。その意味において、責任が存在するのだとする議論もあります。これは、リーダーシップとは何かとする問題でもあり、同時にそうしたリーダーシップをどう制度化するのかという制度論でもあります。
そもそも議論のポイントは天皇個人にあるのではなく、天皇を利用し、大御心(おおみごころ)を踏みにじった「君側の奸」が日本を破滅に導いたことにあるのであり、天皇には責任がないとする議論も有力です。天皇は最後まで「米英相手の戦争遂行は大丈夫なのか?」と繰り返し御下問なさっていたではないか。それをあの軍令部総長がいい加減な上奏によってだましたのだと。
 他方、何を言おうと、300万の人間は天皇の名の下に行われた戦争で命を落としたのだし、特攻隊の若者の多くは口々に「天皇陛下万歳!」と叫んで敵艦に突入したのだ。そして名も知れぬ庶民は御国のためにと動員され、その最中無差別空襲で死んだのだ。そのことをどう考えるのか?政治的君主としてではなく、「人間として」どう考えるのか?少しの道義的責任も無いと言うのか?こういう意見もあります。

どれもそれぞれに信念と論理と、それらを下支えする感情というものを持っていますし、加えて昭和天皇と共に自分は生きたという実感を持つ者とそうでない者との隔たりもあります。あの時、エリートであった者と赤紙一枚で兵隊として南方に活かされた人とも、依って立つところは大きく異なるでしょう。あの戦争が終わって半世紀を経て生まれてきた、今日の学生など、こうした多岐にわたる議論を前に、重要なポイントはいったいどれなのかなど、さほど簡単に判断できるものではありません。どれも皆、大切な議論のような気がしてきます。ワカラナイのです。
ここでのワカラナイに対処するために必要な作業とは、議論の交通整理でしょう。それぞれの議論が、それ自体が持つ「展望」として何を守ろうとしているのかを見定めることで、たくさんの問いの立て方と、論の進める方向を仕分けることが必要です。そもそも帝国憲法に欠陥があったのだという議論をする人は、展望として「権限と責任を一元化する」立憲制度の構築というものがあるかもしれません。「君側の奸」を主張する人たちは、あらためてすぐれたエリートをどう養成すべきかという展望を持っているのかもしれません。天皇の道義を云々する人は、亡くなったたくさんの日本人への追悼の精神に一本太い芯棒を通すことが無ければ、戦後の思想的再出発は不可能だという、別の大義を守ろうとしているのかもしれません。
社会科学における議論は、こうした価値の問題を全く捨象して成立するものではありません。冷静で乾いた、淡々とした合理的な議論はもちろん不可欠ですが、こうした議論とそれに応じてなされるさまざまな規定や定義には、必ずそう規定した先の展望というものが含まれます。ですから、その展望に様々な差異があるなら、それらはきちんと区別されなければなりません。何を守りたいのか?何を問うているのか?それを可能な限り判別して、グループ分けすることで、「ワカル」ようになるのです。

2011年6月7日火曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その③「質問や議論の前提知識が無い」、④「どうしてそういう論理になるのかがワカラナイ」


<ワカラナイ③:質問や議論の前提知識が無い>
 大学にいる意味も、飛び交う日本語も何とかワカッテも、そこでなされている議論の前提知識が無いという意味でワカラナイというパターンがあります。私は、政治学の中でも現代民主主義理論を専攻しているのですが、もしこの私が学会や研究会で、分科会の部屋を間違えて、「中期アウグスティヌスにおける救済概念の再検討」という報告を聴く羽目になった時には、こうした事態が生じます。そこで使用される政治学上の概念として共有されているようなものについてはわかりますが、中世ヨーロッパの歴史的事実やラテン語の観念などが出てきますと、もう降参でしょう。
学会ではなく、平成の教室でも時として恐ろしいことが起こります。あるテキストを使用して「昭和天皇の戦争責任」について議論をすることになりましたが、いざ議論を始めてみても、素朴な道徳論の域を出るような話になりませんでした。もちろん責任をめぐる話自体、非常に難しい議論となりますし、そもそもが戦後の知識人の間でも、十分な総括も行われていませんし、この件はきちんとやると、まさに全体としての「戦後思想とは何か?」といった議論にも結びついてしまいます。
ところが大学で起こっているのは、そんな大仰な話ではなく、かつ「昭和天皇」という歴史の実在人物に対する精神的コミットメントが皆無であるという事実を超えて、驚くべきことに「戦争があった」という基本的事実すら曖昧となっている者が存在するということです。
戦争責任の話をしているのに、「あの戦争」についてほとんど知識が無いのなら、「先生。僕たちにもワカルよううに説明してください」という要求がどれほど理不尽な要求であるか、想像していただきたいのです。大学が今日、最も頭を悩ませている「ワカラナイ問題」がこの問題です。言語力が中学生程度しかない、どう考えても今日の大学の授業の水準に追い付けない学生は、自ら学校を辞めていきますが、言葉の意味は何とか頑張れば追いつけそうだと思う学生は学校を辞めません。そしてあらゆる領域の前提知識を欠いたまま、行儀よく教室に座っているのです。目下のところ、この問題に対応するための方法は、大学入学定員を半分にするということ以外にはありません。

<ワカラナイ④:どうしてそういう論理になるのかが>
 これ以降は、ようやく普通の話となります。ここでのワカラナイは「どうしてそういう論理展開となるのかが」ワカラナイというワカラナイです。大学の教室で生じた典型的な事例で説明してみましょう。

例えば、ナショナリズムの項目で出てくるのは、ネイション(nation)を構成する者としての「我々(We)」というものは、どのようにして決定されるのかという議論があったとします。「我々日本人は・・・」とする時、この「我々」を規定しているものは、一種類ではありません。「国籍が日本」という論理は、いわば形容重複のようなものです。その国籍はどのように「限定(define)できるのか」という問いこそに問題の本質があるからです。どうしてこんなことに神経を使わねばならないかというと、“We”の規定は「この範囲が“We”である」という、「この」の部分に多分に恣意性が介入し易く、これは同時に論理的には、規定の裏側では「我々ではない連中」というものの存在を前提にしてしまうからです。「俺たち」とイメージして、グルーピングした瞬間にはもう「俺たちとは違う存在」が理論上生まれてしまうのです。そして、この論理構成的効果は、容易に政治的な文脈の中で、「在日の人々は日本国民じゃないし」とされてしまいます。
もちろん、事実命題として、在日の人々は日本国民ではありません。でも、それはいくつもある人間のアイデンティティを規定するものの任意のひとつに過ぎません。つまり、在日の人々が日本国民ではないという判断は、法的な国籍が無いというレベルの話に過ぎないのであって、「税を負担して社会で協力的に生活するメンバー」という基準でよりリアルに「国民」規定をするなら、彼らは暫定的な国民だと、政治学的には十分考えることができるのです。
だとすれば、「我々」を規定するという純粋に観念的操作と呼ぶべき行為も、その論理的効果と共に、政治的にも機能してしまいますし、利用もされます。そして、心理的に、ともに生きている在日の人々を結果的に排除する精神的条件を作ってしまうかもしれません。そうしたことを念頭に、「ネイションの規定は排除の論理と親和的な関係に陥りやすい」という説明になります。「我々」を立ち上げることで同時に排除も始まるという理屈です。教室では、かなりの数の学生がこの理屈を理解できません。「我々は日本人のことを思っても、中国人や韓国人を差別したり、排除したりとか絶対にしません。それは先生の一方的な決めつけじゃないんですかぁ?」と、真面目に反論してきます。そういう話ではないのですが。
 同様に、ネイションとは「政治的な」共同体であることを説明するのに、よくフィクション(fiction)というタームを使います。そもそも、日本「国民」というものが自分たちの呼称として広く定着したのは、20世紀に入ってからです。無論、自分の目で「黒船」を見て、腰も抜かさんばかりに驚き恐怖した坂本竜馬も、残された書簡などで度々「日本人(ニッポンジン)」という言葉を使っていますが、こんな明確な意識を持っていたのは、本当にごく一部の知識人だけです(竜馬はこの意味では、稀有なるエリートです。しかし、竜馬が土佐を捨てた脱藩浪人であったことも、アイデンティティを外へ広げる条件だったのかもしれません)。圧倒的多数の人々にとって、より近いしい感覚を持ちえたのは「国民」ではなく、「藩の者」でした。
 だから新政府のリーダーたちには、この藩意識から脱した、より一般的「日本人」を一日も早く作り出す必要があったのです。つまり、この日本という国は、日本国と日本国民のために尽くす、時には命を懸けるような意識を持った人間が津々浦々住んでいるのであって、貴方も同じ気持ちで一つになれる、同じ日本人なのだという、現実とは異なる、プラトンの言う「イデア」のような、フィクショナルな存在を想定しなければならず、そのためには「昔から語り継がれる日本人の物語」が必要でした。つまり、政治、社会的統合のためのシンボルとしての「ニッポン物語」をフィクションとして成立させなければならなかったのです。
 ところがこのように説明すると、多くの学生がやはりこの論理を理解できません。試験答案などを読みますと、三分の一位の学生が「日本国民はフィクションだというが、そんなことはない。なぜならば私の周りには実在しているからだ」と、途方に暮れるようなことが書いてあります。「手で触れられるもの」なんだから、それは実在のものであって、断じてフィクションではないという小学生のような素朴さです。これは良くある、「論理がワカラナイ」です。でも、丁寧に説明し、議論し合えばだんだんとわかってきます。

2011年5月28日土曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その2「質問や議論の意味が(日本語として)ワカラナイ」

<ワカラナイ②:質問や議論の意味が(日本語として)>
 どうして自分がここにいるのかはわかるけれど、教室に飛び交う日本語の意味がワカラナイというワカラナイ君がいます。この人たちの振る舞いを傍で見て、どうにも理解に苦しむのは、自分にとって新奇なる言葉に直面した時に、学びの場にいる人間の取る精神のカラクリとその作用がほとんど垣間見ることができないことです。「キンダイカのプロセスで、個人各々にナイメンカされるキハンは、これまでのユウキテキなキョウドウタイの中で身に付けたシャカイセイとは異なるものだけど、こうした新しいカンネンとしての個人は、ゴウリテキな経済リンリをイッパンカさせるためにはフカケツなわけです・・・」と、目の前にいるオッサンは言っているわけですが、カタカナで示された言葉がすべて意味不明であるなら、この学生にとって大学は本当に苦痛を生み出すだけの地獄のようなところでしょう。
しかし、この中の三つ、四つ程度のワカラナさ加減なら、通常は「ヤベッ、ナイメンカとケイザイリンリがよくワカンネェし(何気ない振りをして)。電子辞書でチェックでしょう」と思って、「オレって言葉知らねぇなぁ」と焦るか、「おおっ!なんかこう難しい言葉いっぱい出て来たなぁ、何か大学に来たっていうか、俺って今すごい勉強中って感じ?」と、憎めないショウモナサを示してしまうかのいずれかだと思うのです。ところが、21世紀の初頭に大学の教室にいる一部の若者は、このいずれのリアクションも見せてくれません。ただぼんやりと事態の推移を見守るだけなのです。辞書を開こうと肉体を駆使してみようという素振りもありませんし、眉間に皺を寄せて悩んでいる様子もありません。ただただ黙ってボンヤリとしているだけです。まるでスリランカ人がリトアニア人の町長の演説を聴いているような表情です。こういう表情を見続けると、話す側は逆に名付けようもない不安な気持ちに駆られます。「ん?あれ?これって、オレ先週やったところまたやってる?んなことないよ。確かに今日はここからだから・・・。でも変だな?なんだかこちらの言葉が『受け止められている感』が無いぞ?

言葉の意味がワカラナイことも、それ自体は罪でも何でもなくて、元々は自分が使う言葉はすべて人の言葉だったのですから、要はある特定の場において流通している言葉のストックを必要に応じて増やしておけばよいのです。間に合わなければ、走りながら飯を食うように、話し手の言葉を追いかけながら、少し遅れてでも言葉を補充すればよいのです。しかし、今目の前にいる人たちは、自分がいる場で流通している言葉のストックが自分には絶対的に足りないと気付いた後も、それを何とかしようとする主体的なアクションをする様子がありません。「忸怩たる思いです」とこちらは話します。もし「ジクジたる」が「忸怩たる」という本語のことだとワカラナくて、今度誰かが「忸怩たる」と言ったら、その時にまた「?」ととまってしまうようなことになると困るなと思えば、「すんません。ジクジたるってどう意味でしたっけ?ちょっと度忘れしちゃって」と、おちゃらけながら尋ねるか、黙って辞書を引くかのどちらかです。これ以外の振る舞いは、少なくとも学校で生きている私たちには想像もできません。
しかし、19歳達はなんと「何もしない」のです。どうして何もしないでいられるのかが、こちらには全くわかりません。え?いいの?ジクジタルがワカラナカったんでしょう?そのままでは、この言葉を自分が使うことも、人が使った意図も両方ワカラナイままだよね?いいの?それで。今は、話が先に進んじゃうからじっくり調べている余裕がないけど、ノートの端っこの所に「ジクジタル」ってメモしておいて、講義が終わったら調べられるようにしておくよね?普通は。え?やらないの?放置?そんな言葉は今後永久に使わないだって?いやいや、君が使わなくたって、他者(ひと)が使ったらどうするの?え?そんな言葉使う奴はウザい?そうすると学校出た後は(出られればだけど)、ほとんどの人がウザい人っていうことになるけど。
とにかく、調べてみて、自分で使ってみて、「忸怩たる想い」と「恥ずかしい」という言葉との語感の違いに気づいてみて、ついでにさ、また別の言葉、例えば「慙愧に堪えない」なんていうのも覚えて、一気に何千も使う言葉は増えないけど、朝刊読んでひとつ、昼飯の時にツイッター見ながらひとつ、夕方電車の中で夕刊読みながらひとつって、増やしていけば、大学四年間で計算上は4380も語彙が増えることになるよね?今よりも4000語もたくさんの言葉が使えると、自分の心や考えていることをかなり正確に表現できるようになるよね。いいの?放置しておいて。もったいなくない?こういう場面に出くわしてさ。もしかしたら、チャンスが無ければ、もう永遠に「忸怩たる想い」なんて言葉に出会えなかったかもしれないじゃん。いいの?そのままで。いいの?ボンヤリしてて?ねぇ!

言えば言うほど、自分が本当に嫌ったらしい教師に思えてきます。19歳の時、目の奥を覗き見るような顔で変なオッサンに「ええんかい?ほんまにそれでええのんかいっ!?」なんて追いつめられたら、私だって刑事事件を起こしてしまうかもしれません。でも、こういうワカラナイに何度となく、数えきれないほど遭遇して、それはまぁ仕方がないことだとしても、その後にそんな単純なワカラナイにすら、何のアクションも起こそうとしない人たちを見ていると、「そういうワカラナイは、その場で解決するんだから、調べりゃ済むことなんだから、悩むなよ。心配するなよ。心配なのは言葉の意味がワカラナイことじゃなくて、それを平気で放置できる、根拠不明の余裕なんだよ。頼むよ!」と言いたくなってしまうのです。言いたいことは、ここに尽くされています。

「このタイプのワカラナイは、大したことじゃないから放置すんな!」です。

2011年5月22日日曜日

愛おしき学生に告ぐ~  「ワカラナイ」の種類について: その1「自分がどうしてここにいるかワカラナイ」

長いブログをいつもお読みいただきありがとうございます。過日「面白いけど、さすがにナゲぇよ」というクレームがありましたので、今回から「連載」形式でお送りいたします。


<「ワカラナイ」を仕分ける必要>
 教員という職業に就いて、学生の口から発せられた数々の言葉の中で最も高い頻度で聞こえてきた言葉は何かと考えますと、それはおそらく「ワカラナイデス」でしょう。まず間違いないでしょう。ワカラナイという言葉は、何の文脈もなく、いきなり発せられる言葉ではなく、何かの問いかけに対する反応ですから、この切ない五文字を引き出した、そもそもの嫌ったらしい質問というものがあったはずです。
 大学の教員は、目の前に居る人間たちが、もはや学問をする上での最小限の知識・情報ストックを入力されて、ここに来ているのだという前提で授業を始めます(というか始め「たい」のです)から、知識「そのもの」を、その所在を(学生の脳みその中にあるかどうかを)確かめるような質問をする契機は、高校までの学校の教員ほどはありません。ナポレオンの登場してきた時期について「ええと、○○君。ナポレオンが自ら皇帝として即位すると宣言したのはいつごろでしたっけ?」と講義中に尋ねる理由は、それについての情報ストックを○○君がどれぐらい持っているかを評価したいからではありません。西欧におけるナショナリズムの高まりの話をしていて、度々王政復古とか、メッテルニッヒという言葉が出てきているのに、多くの学生が目をパチクリさせているので、この人たちは、今、私が19世紀前半の西ヨーロッパの話をしているのだということに気づいていないのかもしれないという、嫌な汗が噴き出てくるような事態を前にして、云い様のない不安に襲われるために、その不安を必死にかき消そうとして質問しているのです。
 返ってくる反応は残念ながら予想通り「ワカリマセン」です。情報が入っていないのなら、これはいかんとまず確認して補充する、あるいは失念してしまわないように何らかの印象付けの工夫をして、次の機会に同じことが起こらないように準備しておくだけです。「入試で日本史や地理や政経を選択した諸君は、今からでも遅くないので世界史、特に政治学は近代以降の西欧史を全く知らないとお手上げなので、各自でやっておいてくださいね」と言葉を添えて、はいこの件終了ですと。さて、このナショナリズムですが・・・と、講義は続きます。

次に質問する時には、知識のストックを確認するなどという虚しいものではない質問でなきゃいけないな。そして「ナポレオン自身は、自分の存在がまさかヨーロッパ、とりわけここではドイツですけれども、ここの人々のナショナルな意識を喚起させようと思ったわけではありませんね。しかし、結果としてここでは『ドイツ的なるもの』が、あの例のフィヒテの演説なんかをきっかけに、その後観念化されていく大きなきっかけとなりましたよね?こうしたプロセスを思い返した時、同じことが極東、東アジアでもあったと考えられますかね?どう思いますか?」と尋ねます。これこそ、高校生以下のチイチイパッパのお教室とは一線を画した、大学の授業における質問です。
ところが、いつも反応は同じです。やはり「ワカリマセン」
学問をしている人間は、「わからないということ自体」には、何の評価も加えません。むしろワカラナイということは、あらゆる学問の出発点ですから、基本的には重要なことだと思っています。しかし、こちらが教室で何を聞いても、少し困ると直ちに「ワカリマセン」とやられると、だんだんと心が荒んでくるのです。「ワカラナイ」は結論ではない。ゴールではない。出発点なんだよ!だから結局わかりませんでしたじゃなくて、ワカラナイので考えてみたのですが・・・とやらないと「あっそう。つまり君は〇〇な人なのね。はい。じゃ、そういうことで」として終りになってしまうのです。だからこういうことがあまり続くと、人間ですから無意識のうちにこちらの物言いも嫌味が強くなって、「うん。君がワカラナイってことはヨクワカッタよ。それでどう思う?」などとたたみかけることになります。困った学生は、今度はもうワカリマセンすら発することを止めて、死のような沈黙に陥ることになります。
この間まで高校生だった人たちが、デッカイ大学教授に「どう?」なんて質問されれば、身もすくむような気持ちになるでしょうし、うまく答えられないと思った瞬間に頭の中が真っ白になって、どうにも苦しくなって、しかたなくてどうしようもなくて「ワカリマセン」と言ったのかもしれません。だから、そこで身も蓋もないこと言って、その学生が地上に存在しないようなふりをすることなく、やっぱり丁寧に「尋ね直し」をしなければいけないのです。
この時、根本の精神の部分で、「ワカラナイこと、その事自体は大した問題ではない。問題なのは、その場しのぎの、苦しさから逃れるためだけに『ワカリマセン』という癖がついているならば、それは明日につながらないということなのだよ。ワカラナクてもいい。そこから切り開いていけるきっかけを考えて、少なくとも『何が』ワカラナイのかぐらい言語化しなさいね」とちゃんと触れなければいけないのです。

そうです。いま一度確認してごらんなさい。君は何がワカラナイのかと。なぜならば、「ワカラナイ」には、たくさんの種類があるからです。君のワカラナイは、何番目のワカラナイなのか?
すべてのスタートがここにあります。

<ワカラナイ①:自分はどうしてここにいるのか?>
 何と言っても、ワカラナイの中でメガトン級のパワーで我々教員を押しつぶしてしまう勢いを持つのが「自分がどうして今こんな所に居るのかがワカラナイ」というワカラナイです。四半世紀ぐらい前なら、こういうワカラナイ君は「五月病」と呼ばれた病気に罹った若者に多く見られたものでした。苦しい思いをして、一族郎党の期待やプレッシャーに負けそうになりながら、緊張と禁欲の日々をハイティーンの肉体と衝突させながら、非人間的受験勉強をやり遂げた暁には、それだけ楽しく素晴らしく、偉大なる人生が待っているのかと期待をして、艱難辛苦を乗り越えて、桜の舞い散るキャンパスにやって来たのに、そこにあったのは、自分が本当にツマラナイ砂粒のような存在と思えてしまうほど大量にいる学生たち、基本のコミュニケーションすら成立していない数百人対一人の味気ない講義、「知」の上にヤマイダレが付いているとしか思えないアホ顔(ヅラ)の先輩達、いくら本を読んでも結果が目に見えない学問の世界、「あとは個人の自己決定だよ」と言われて何も決められない自分の未熟さ、あれほど憧れた「女子大生」の幼稚さ、何から何まですべてが失望をもたらすものばかりです。
 科目登録が終わり、さぁこれからという時に早くも黄金週間に突入し、小学校3年生の夏休み以来10年ぶりに「何もする必要のない一週間」が与えられ、人生でこれまで経験したことがない、質(たち)の悪い退屈と無気力が全身を包み込みます。症状が悪化すると、そのまま大学を辞めてしまい、10年後に地方都市の県庁の脇にある「中央通り」にある喫茶店の店長となっている姿が目撃されるようになったりもしました。

 しかし、キャンパスにいる80%以上が平成生まれとなった今日、あれから大学生の数がもう100万人増え、大学も300も増えて、理論上は受験番号と名前さえ書ければ誰もが大学に入れる時代となってしまいました。五月病などというものは完全に消滅してしまいました。昔は、連休が終わると男子学生の半分は大学に来ませんでしたが、今日、いつになっても大学は混雑が解消されません。教室にもぎっしりと学生がいます。ただし、そのうちの70%はほとんど講義を聴いておらず、ただ「居るだけ」です。そして、このただ「居るだけ」の中のかなりの比率で存在するのが「自分がどうしてこんな所に居るのかがワカラナくて、しかたなく教室にいる人たち」です。この人たちは、比較的大人しく行儀も良くちょこんと椅子に座っています。
 少人数の基礎演習クラスでは、大教室とは異なり一対一のコミュニケーションができますから、授業の最中、大学でのやり取りに慣れてもらおうと、様々な質問(というより、むしろ「心ほぐし」のための雑談)をしてみますが、質問された多くの者たちが怪訝な顔をして「お前はどうして俺に話しかけるのか?」というようなオーラを出しています。「どこから来てるんだ?」と尋ねると、「横浜です」。だ・か・ら、それじゃ話終わっちゃうだろう?東京の人間に「どこに住んでるの?」と訊かれて「東京です」って答えて会話になるかよ。「どこから?」と尋ねられて「北半球です」って言うのかよ?横浜ったって、山手や石川町と瀬谷はロング・アイランドとドヴァイぐらい違うんだよ。横浜のどこだよ?

「本郷台って知ってますか?」
「高校の時、バンドの奴が住んでたよ」
「あのぉ、ちょっといいっすか?」
「あ?」
「ええっと、調布市役所の電話番号知ってますか?」
「あはぁ?なんでそんなこと僕が知っているんだ?」
「いやっ、知ってるのかなと思って」
「最近、何か面白い本読んだか?」
「いやっ、本とかはほとんど読まないんでぇ」
「(ああ?)本読まないのか?」
「読まないっす」
「じゃあさ、君、何でこんなとこ(大学)に居るんだよ?」(もはやすっかり嫌な奴)
「指定校推薦です!」
「・・・あぁ?・・・」(汗)
 
 チュドーーーーーーーン!

大学で起きたことを面白可笑しく書くにもほどがあると、御立腹の読者には申し訳ありませんが、これは実際に起こったことです。「君はどうしてここにいるのか?」と問われた18歳は、昔は暗い顔をして「東大も早稲田も落ちたからに決まってるじゃないですか」と上目使いで言い返し、それでも言葉にならない、はみ出る気持ちは「どこの学校を出たかなんていう質問を無意味にするような奴になってみせますよ」というものを用意しているようでした。しかし、湾岸戦争が起きた時にまだ生まれていなかった今日の18歳は、「本当に」自分がなぜこんな所に居るのかがわからない様子なのです。「僕たちは、本当はいったいなぜこんな所に居るのですか?」という、彼らの側から発せられる問いは、良く考えるときわめてラディカルな問いです。彼らが狙ってそれを発しているわけでない分、余計に我々に迫って来ます。
こういう類の「ワカラナイ」は、新しいヴァージョンです。のっけからすごく大きな問いが付きつけられましたが、こうしたワカラナイに対応するための準備と理屈は、別の所で取り組まねばならぬ問題かもしれません。

この項目つづく。次回は、ワカラナイその②「質問や議論の意味が(日本語として)ワカラナイ」です。