2013年12月2日月曜日

ブログ冷温稼働停止解除:自分の頭でかんがえるということ〜特定秘密保護法案に強く反対する理由〜

 民主政治は、2000年以上も前の古代ギリシャの時代から「衆愚政治」などと批判と警戒の眼差しで見られていた。師匠ソクラテスがアテネの民会で馬鹿げた死罪を命ぜられて、弟子のプラトンが呆然自失となったように、「みんなで決める」やり方だと必ず「バカがバカな決定」をするから民主政治なんてろくなもんじゃないと、実はずっと言わ続けてきた。そしてこれのオマケに付けらるのは「ヒットラーは民主的に選ばれて権力を握ったのだから、民主政治は独裁者をつくりだすのだ」という決め付けである。確かにモノクロ映像で激しく拳を振るいわめくチョビ髭の小男の演説姿に、人々が興奮する姿は十分に愚劣である。
 しかし、人間がいつも賢明で、冷静で、思慮深く、己を捨てて公に尽くし、合理的な決定をするわけではないと認めることと、「民主政治は常に馬鹿げた決定をもたらす」と判断することは別である。我々人間は、適当に迂闊で、時として忘我となり、なかなか偏見から己を解放する勇気を持てず、結局自分の都合ばかりを優先してしまいがちである。でも、いつもそうだというわけではない。だから、「人間とは元来ろくでもない」という話は、この際少し遠ざけておかねばならない。そうでないと、話が大雑把になるからだ。
 さて、それでもやはり間違いをおかしやすい我々は、民主政治を営む資格が無いのだろうかと考えれば、そうでもない。何故ならば民主政治への参加は資格の有無とはあまり関係がないからだ。民主政治とは、資格があるからではなく、そうしないと他者と共に暮らす際に不都合が生じるからやっている部分がある。神のようなとんでもなく「できる人」に全部丸投げすれば楽なのだが、そんな人はこれまでいなかったし、一時そういう人だったとしても、時間が経てばそういう人でなくなってしまったから、しょうがないから取りあえずみんなで相談と喧嘩をしながら、何とか決めごとをやってきたのである。それが短く蛇行する民主政治の歴史である。だから、資格の有無という話もやはり遠ざけておかないといけない。
 人間は不完全なのだから馬鹿げたことが起こる確率を低くするために、神とは言わないが、相当能力の高い人に大事なことは任せようという、やや大人風の考え方もある。間違えてもやりなおしがきくような場合は、我ら「残念さん達」でもいいが、これは間違えるとヤバいという件では頭が良く、仕事が速く、沢山の知識を準備している人たちに任せようということだ。意外なことに、民主政治は歴史上実はかなり評判が悪かったので、それを何とかしようと「民が主である」ということを好まない、心配症たちが安心できるような変形版として作られたのが、この「大事なことは優秀な人たちに」ヴァージョンである。
 しかし、やはり多くの人が忘れがちなのは、我々の政治はどうしても「時間」という川の流れから離れて考えられないことだ。優秀な人たちが「いつも」、「常に」優秀であるという保証は無い。相当長い期間立派な仕事ぶりを示していたとしても、疲れたり、驕り始めたり、自分の対応能力が世界の変化に追っ付かなくなったりすれば、彼らは残念な人たちとなりうる。だから、ここでもやはり優れた人たちを信用し過ぎるという心の習慣も脇に遠ざけておかなければならない。そもそも、人間とはおおよそ「バカなものだ」と言っておきながら、他方で「優秀な人たちはずっと頼れる」と過信するのでは、筋道が一つになっていない。
 だから「人間とはそんなもの」、「民主政治には資格が必要」、「優れた人に任せれば良い」という三つを遠ざけて、100点満点で58点ぐらいの我々の民主政治を考えなければならない。人間の力を決めつけないで、人間が相談と喧嘩を上手にしながら協力して己の生活や人生を守る必要がある。この基本は、いまさらそう簡単に変えることはできない。民主政治以外のやり方の方が、人間が理不尽に死んだり、酷い暮らしぶりになったり、そして希望の無い人生を送ることを避けることができるということが証明されていない以上、「人間なんてと決めつけずに粘り強く実りある相談と喧嘩をし続ける」しかない。
 このことを確認しないと、人々がおおよそ合意している、民主政治をめぐる議論の外枠が決められない。逆にこれをおおよそ決めておけば、酔った勢いで「だから女子供に選挙権なんて与えちゃダメなんだよ!」などと言ってしまう、気が小さくて傲岸不遜なオジさんの泣き言には「おいおい、そりゃ爺さん達の時代の物言いさね」と優しく諭してやることができるというものだ。

 こういう考え方の中を貫いているのは、実は完全に自信はないけれども、我々がなんとか保持しているひとつの基本的信頼感覚である。それは次のようなことだ。

 僕たちは、たくさん間違え、嘘を付き、言い訳をして、思い上がり、不都合なことから逃げ、瞬時にお調子にのり、すぐ怒り、人を羨み、嫉み、バカにして、本当に残念なことが多い人間だが、それでも「自分の頭でものを考えることができている」間だけは、そういうどうしようもないものから、少しずつ脱して行く可能性をギリギリで持っているはずだ。

 先に、民主政治の話を大雑把にしないために、いくつかの思い込みを遠ざけたが、その理由は「我々は自分の頭で考えることさえできれば、わずかでも自分たちを変えることができる」と考えたいからだ。
 「人間とはそういうものだ」と言われたら、「そうでない人間が少しずつ増えるかもしれないではないか」と言い返す。「民主政治には資格が必要だ」という説教には、「その資格を決める人間はそもそも資格を持っているのか?」と疑問符を付ける。そして、「優れた人たちに任せよ」と諭されたら、「優れた人たちがそれを維持できる保証は無い」と口答えをすればよい。愚劣な人々も変わる可能性があり、そうなれば資格など全員に生まれるし、優れた人々も逆に愚人へと変わる可能性もあるということだ。
 忘れてはならないのは、こういう言い返しには「良きにつけ悪しきにつけ我々は変わりうるのだ」という前提があることだ。そして、この「変わりうる」という前提を支える根本条件とは、我々が「自分の頭で考え続けられること」である。
 「自分の頭で考えたからと言って、それが正しく、まともで、合理的なものとなる保証はないではないか?」と反論されるかもしれない。確かにそうかもしれない。しかし、たとえ相変わらず過ちを犯し、勘違いをし、迂闊に話の筋を外し、残念な決定や方向を採っても、そこには逃げも隠れもできない縛りというものがある。それは「それでもそれは自分たちの頭で考えたことなのだから、そこから逃げることはできない」という己自身に向かって放つ覚悟である。自分の頭で考えたのだという気持ちは、自信とともに、人間に覚悟を与えるのである。
 我々にとって不幸なのは、誤りを犯したり、あまり上等でない結論を出してしまったり、そのために多くの人間に不都合なことが起こってしまうこと「そのもの」ではない。最も不幸なのは、それを受け止め、引き受け、もう一度やりなおす「覚悟」を自分たち自身で絞り出すことができなくなることだ。それを責任と呼ぶ。
 だからそういう覚悟さえ用意しておけば、誤りだらけの我々も完全なる希望が無いのと同様に完全なる絶望に陥ることはない。これは我々が決めたことだ。だから起こることは我々が受け止める以外に無い。部外者のせいにすることはできない。そのことだけは、それだけは覚悟を決めて、腹をくくっておかなければいけない。
 だからこう言わねばならない。民主政治においては、起こりうる悪しき事態に共同で立ち向かわなければならない。そういう覚悟がなければならない。そしてそれを担保する、そうした覚悟を持てる理由はひとつである。

 自分の頭でものを考えている間は、我々は決めごとを受け止める覚悟を持てる。

 そしてそこからもう一歩理屈を進めてみるとこうなる。自分の頭でものを考え続けるためには、それに意味があると確信するためには、考えるための材料が世界に開かれていなければならない。ものを考えるための「言葉」、「出来事の有様」、「人の考え」、「冷徹な事実」、「不都合や失望を生む事実」が、我々に開かれていなければならない。のべつ開いては、我々の共同社会に危険や不幸をもたらす場合でも、「これは開かない」という決めごとをみんなで相談しながら進めるルールがなければならない。そして、それすらも間違えることを予想して、損得に左右されない第三者が判断できるようなやり方が用意されていなければならない。
 こういうことが用意されていないと、我々は自分の頭でものを考えるための大切な条件を手にすることができず、自分の頭ではなく、人の言いなりとなってものを考える可能性が高まり、己の自信の無さがつのることで、だんだんと縮こまった心を持つようになる。そして、やがて自分たちのした決定に信頼を置くことができなくなる。当然自分たちの決めごとに対する「覚悟」を失う。
 覚悟を失った人間は、他者を信頼することが苦しくなる。あいつは誰かにだまされているのだと、上手くいかない事態を人のせいにし始める。まわりがバカばかりに思えて来る。己のダメさ加減を棚に上げるようになる。驚くべきことに、考えが突然跳躍して「間違いを犯さない優れた者たちがいるはずだ」と禁じ手に行く。そうなるともう己の言葉はあまり必要でないという気持ちになる。そして黙る。
 覚悟を失い、信頼を失い、友を失い、言葉を失ったものたちは、もはや自分の頭でものを考えることができなくなる。自分の頭でものを考えられなくなる人間が多数を占めた時、我々は民主政治を継続する必然を失う。それは真の暗黒である。

 私は、特定秘密保護法案に絶対に反対する。自分の頭で考えてそう決めた。

 

2012年5月30日水曜日

『働く大人の教養課程』という本を書きました。読んでいただければ幸甚です。


<あからさまかつ露骨なメッセージ:どうしても伝えたいことがあるので、ぜひ読んで下さい!>

 三ヶ月もブログを更新せずに、久しぶりに更新したと思えば、要するに「この本を買って読んで下さい」という厚かましいお願いというわけです。
 実に申し訳ないです。



岡田憲治著『働く大人の教養課程』(実務教育出版)

 http://amzn.to/KHdVVU


 しかし、値段をつけてトウハンやニッパンを通して、アマゾンにまでページをもらって、それでこの世に自らの考えを問うのですから、あまり可愛い子ぶりっこ(「カマトト」とも言います。40歳以下の人は使用しない日本語ですが、「蒲鉾」を見て「これはオトトなの?」とわかっているくせに尋ねるような女子を指します)して、「ま、何かの僥倖に恵まれ、皆様方のお目に触れることがありますれば・・・」などと書いても虚しいわけです。ですから、「一人でも多くの人にどうしても伝えたいことがあるから」という王道におきまして、呼びかけるわけです。

 この本を読んで下さい。あなた方にどうしても伝えたいことを書きました。

 そして、面白ければそれでなにがしかのパワーを得て下さい。
 つまらなければ、「つまらねぇぞ」と理由を添えて言っていただけると、この上なく幸運です。

 実は、この本は、このブログにいくつか連載した「学生へのメッセージ」を素材に書かれたものです。20年近く大学生の基礎教育、導入教育、もちろん専門教育に携わって来て経験した、現場にいて「ほとほと身にしみる思い」を生きているうちにきちんと示しておこうと、原稿用紙600枚ほど書いておいたのです。
 すると「やられました。本としてまとめさせて下さい」という酔狂な若い編集者からオファーが来ました。この出版不況の最中、実にありがたいと思っていたら、背筋も凍る言葉が。

 「学生に向けた愛のメッセージであることはわかるのですが、残念ながら、今日本をレジまで一番持って行かない人たちとはだれであると思いますか?」
 「・・・(もうわかってるよ)」
 「そうです学生です」
 「・・・」
 「学生向けの本は商売になりませんので、悩む若いオフィスワー
  カーにも是非愛のメッセージをお願いします」
 「・・・つまり、ビジネス書ってこと?」
 「ええ、まあ」
 「そんなジャンルの本は書いたことが無いんだけど」
 「書けます。先生の場合はジャンルとかあまり関係ありません」
 「・・・」

 学生用のマニュアル集にしようと思っていたのだが、諸般の事情でそれは難しくなっていると言う。オフィスワーカー?そりゃ、山ほどある他の本に任せればいいんじゃないの?・・・しかしだ。それじゃ、大学で教えた連中が社会に出て、会社であの知的技法を皆身につけて仕事やってるか?

 やってない。

 だって管理職の友達がよく言うもの。
 「おいおい、ちゃんとお行儀ぐらい教えてくれよ。大学で何学んだっていうのよ?」
  でもそれに返す言葉は、
 「そりゃ大学の仕事じゃないし」。

 そこで読者層を18歳から55歳までにしようと決心しました。
 知の技法を身につけなければ、仕事ができるようにならないのは学生も若手オフィスワーカーも、管理職も皆同じじゃないか?

というわけで、「仕事ができるようになりたい」人は皆さんお読みください。
よろしくお願いいたします。私ももう少し仕事ができるようになりたいので、書いてみました。
  

以下、目次等つけます。

 はじめに
第1章 「仕事がデキる」とは?
第2章 正しい出発点の設定の仕方
第3章 「頭がいい」の正体
第4章 「わからない」をわかるということ
第5章 デキる人の質問作法
第6章 発言することの本質
第7章 基本装備としての文章術
第8章 批判は愛情である
おわりに
 

 

2012年2月3日金曜日

愛おしき学生に告ぐ:「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません

愛おしき学生に告ぐ:
「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません

~私たちは何のために議論をするのか?~

<身に付いてしまった心の習慣>
 ニッポン人は皆おしゃべりは大好きですが、発言はしません。「何か発言はありますか?」「・・・」「それでは終わります」「ガヤガヤガヤ・・・」これが私たちの社会の一般的特徴のひとつです。「発言」という日本語に含まれたニュアンスは、英語で言うSayingmentionとは異なる「大胆にも言ってしまった取り返しのつかないこと」という暗く切迫したものです。だから、ニッポン人にとっては「本当は発言なんかしないで沈黙を保っていた方が身のためだし、余計なこと言って後で責任取らなきゃならなくなったら目も当てられない」とか、もうそういうものです。「問題発言」「トンデモ発言」「差別発言」「傲慢」といったネガティヴな言葉は一般的かつ溢れていますが、「顕彰発言」や「名誉発言」「謙虚発言」といったポジティヴな表現は全くといって良いほど使われません。皮肉なことに「勇気ある発言」という言葉は良く使われていて、これはポジティヴな意味なのでしょうが、皮肉なことにここからも「発言するのは大変なこと」というニュアンスが裏付けられてしまいます。不幸な言葉「発言」です。どうしてこうなってしまうのでしょうか。ここにはどうにも強い思い込みがあるような気がします。それは、「世間様の前でもの言う時には、それなりの立派なことを言わなきゃならない」という、大変肩に力の入った、発言することを特別な行為だと決めつけた、何かに怯えるような態度です。
もちろん不特定多数の人々の前で何か公的な発言をすることは、さほど軽いものではありません。その意味では、めったなことで発言などできないという理屈は全くもって正しいし、公的発言には本当に慎重であるべきだという一般的規範にも異論はありません。しかし、もしそうだとしても、それでは人間はいつ物を言う作法を身に付けるのでしょうか?どんな所へ来てもいつも尻込みしていたら、永遠に引っ込み思案になるだけではないでしょうか?少なくとも若い人は学校にまで来た人は特にそういう態度を見直さないと、いつまでたっても「物怖じ市民」の域を出られません。このままではマイクを向けられると「逃げて回る」ようなオジサンやオバサンまっしぐらです。それの何がいけないのかって?私は「ひとはみなそれぞれですよねぇ」とかヌルイことを言うつもりはありません。駄目です。肉体を駆使して黙々と働く人生ならいざ知らず、そういう人たちの払う税金を使って教育を受けている人は、そういう人達の考えを代弁する義務がありますから、教育を受けた人間として、ちゃんと喋れなければいけません。
 学校という所は実に幸福な所であって、なんといくら失敗してもよく、失敗すると褒められ、かつ失敗しないと何も得られない、チャンスを与え続けてくれるサーヴィス満点の場所です。「失敗するとアホの烙印を押される緊張を強いられる所」とビクビクしている貴方。もし、貴方の行ってる学校がそういう所なら、それは教員の水準が低い所ですから、ささっと別の学校に移るか、失敗を咎められたら「ここは企業じゃないんですから、大目に見て下さいよ」と言っておけばいいんです。だからそんな有難い所まで来て、「・・・」となっていても意味がありません。もったいないではありませんか。しかし、この病気はもう100年以上も日本中に蔓延していますからなかなか治らないのです。
 大学の少人数導入授業では、課題図書の内容を再現する報告が済んで、それに対するコメントを数人にしてもらうと、議論しあうべき基本素材がまな板の上に出た所で、この場を展開させるために、発言を促します。「さて、ということのようですが、どうでしょうか?」です。ところが「コメントしてみようか」と促すと、多くの学生はやはり黙り込んでしまいます。「○○君、どう?」とつっついてみると「…、自分まだ考えとかまとまってないんでぇ・・・」となります。「またかよ」です。もう判で押したように全く寸分違わぬリアクションです。何十年もです。何かすっかりと出来上がった完成品を提出しなければいけないと相変わらず誤解をしているのです。いったい何故そんな誤解をするのでしょうか。この誤解を生み出すのは、「発言する時は、先生に尋ねられた質問に対して、ただひとつの回答を言ってみせる時なのだ」という思いこみです。子供の頃から、教室では先生が尋ねるやり方はいつもこうでした。

 「この答がわかる人は手を挙げて」

つまり、コメントするということは、「答を言うこと」なのだと思っていて、それが十九歳の今まで抜けないのです。もし、学問の場での発言やコメントというものがすべて、「完成した答の提出」だとするならば、その場すべて死の沈黙の支配する場となってしまうでしょう。学問の世界には完成した解答など存在しないからです。このままでは先に進むことはできません。とにかく「すべての発言は未完成なもの」として、「コメントすること」の内容の振り幅を広げなければなりません。

<発言とは「ああでもないこうでもない」の全プロセス>
 「発言するとは正解を言うことではない」ということを端的に示すために、議論の場で現れてくる大量のやり取りの中に、いったいどれだけの種類のコメントが含まれているかを示してみましょう。ひと言で「コメントする」といっても、その具体的な行為は様々です。思いつくままに書いてみましょう。

・「事実を列挙する」(こういう事実を確認して下さい)
・「意味付けを提供する」(これは要するに〇○ということなんだと思うのです)
・「優劣を示す」(こちらのほうが説明としては説得的だと思います)
・「善悪を示す」(これは大変真っ当なお考えですね)
・「一般的な評価と対比させる」(少数ですが〇○という評価もあります)
・「事実の有無を問う」(それに関して確かに〇○という事実があるのですね?)
・「大切な事実を確認する」(それは確かだと考えていいのですね?)
・「他者の発言を別の表現で言い換えてあげる」(〇○さんは、つまりこうおっしゃりたいのです)
・「要約してみせる」(ポイントを確認すると〇○ということです)
・「反論をぶつける」(〇○のような考え方も他方で存在すると思いますが)
・「同じ判断に別の根拠をつける」(こういう別の理由もあると思います)
・「わからなさ加減を説明する」(おっしゃる事の理屈は分かるのですが意図がよくわかりませんね)
・「他者の発言を促す」(先ほどの御話に関連して〇○さんの意見も聞いてみたいですね)
・「部分的同意を与える」(前段部について異論はありません)
・「立論そのものの妥当性の評価をする」(そうした問題の設定で良いのかと思いますが)etc。
 
いかがですか?これらはそれぞれを取って見ても、「立派なことを言っている」わけではありませんよね。やや硬い言葉で説明されていますから何か高尚なことを言っているような印象を受けますが、高校生以下が使用する幼児語に翻訳すれば、「意味付けを提供する」ということは「ぶっちゃけ○○っていうことじゃねぇ?」だろうし、「立論そのものの妥当性の評価をする」と言うと仰々しいですが、要は「それもとからありえなくねぇ?」でしょう。大した発言ではないのです。しかも、これらは皆「自分」を主人公にしているわけではありません。「他者の発言を別の表現で言い換えてあげる」など、「それってこういうことを言いたいんですよね?」と、相手をステージに上げようとしています(それが唐突だと「それ無茶振りじゃねぇ?」とリアクションされますよね)。議論に集う者たちにとって、時として大変ありがたいのがこの「他者の発言のきっかけを与える」ような、参加者の発言です。有難い理由は、これを絶え間なく誰かがやってくれれば、その場にいる者たちのエンジンは自然に暖まってくるからです。気の利いた学生がたまに言ってくれるのが「ちょっと僕自身も判断に悩む部分があるんだけど、〇〇君なんかは先ほどの発言からすれば、このあたりにヒントをくれそうなんですけど、どうですか?」といった、ナイスなコメントです。これは言わば「舞台回しコメント」とでも呼べる類の「つなぎコメント」であって、このコメントには実質的には新しい事実やそれの解釈や分析、価値付けや評価は含まれていません。でもいいのです。それで十分なのです。流れというものが生れて来るからです。
 今ざっと挙げたコメントの数々は、本当にざっと挙げたものですから、このまま突き付けられても漠然とした印象しか持てないでしょう。でも、おおよそ発言の場では飛び交う言葉の種類は次のように整理できます。「自分の言いたいことを言う」と「他人の発言を促す」の二つ、そしてその上で、「説明する」、「評価してみせる」、「尋ねてみる」の三つぐらいです。講演会のように一方的に自分の考えを伝えるだけなら、相手はただの聞き手にすぎませんが、議論するとなればこれは対話するという往復運動ですから、時には相手の言葉や論理を引き出すということが必要となります。ですから「自分で自分の言葉を引き出す」と「他者の言葉を引き出す」の二つです。「説明、評価、質問」の三つは、ある発言者の言った事「これはこういうことです」と説明し、「これはなかなか鋭い指摘です」と評価し、そして「これはこういうことですよね」と確認することです。こう分けてみれば組み合わせて6種類のコメントを考えてみることができます。

①「自分の言いたい事を説明してみせる」
②「自分の言いたい事を評価してみせる」
③「自分の言いたい事を質問の形で確認する」他者の発言を引き出す場合は、
④「他者の説明を引き出そうとする」
⑤「他者の評価を引き出そうとする」
⑥「他者の言う事を確認する」大体この六つしかありません。少しは気が楽になりませんか?

こう考えれば、発言とは「一回完結!決まったぁ!」というようなものとは程遠い、淡々と重ねて行くようなものだということがわかります。一発で決める事なんかできません。このあたりが、経験の浅い若い人々にはわからないのです。学生を指導していると時々歯がゆく感じます。サッカーで言えば、「まともに仕掛けても無駄だと思ったら、このプレスから抜け出して、ボールを一度ボランチか最終ラインに預けてしまえばよいのに・・・」という感じでしょうか。しかし、未経験者にはそれを上手にやるレトリックが全く備わっていません。「この点については、正直言ってクリアーな事は言えませんけど、B君のさっきの指摘が気になっているので、もう一度説明を聞いてみたいんですけど・・・」と言えば、なんだか「それらしい」コメントに聞こえます。実質的には「俺は分からんからBに代わりに言ってもらってよ」なのですが、沈黙してお通夜のような場づくりをしてしまうよりも、この方が知的コミュニティとしては100倍ましなのです。
 どうしてこんな「だらだら」でいいのかと言えば、もう一度繰り返しますが、議論の場においては、正解など最後まで出てこないからです。ここに列挙したコメントのどれをとっても、前提になっているのは「結論(暫定的な判断)はまだまだ出ませんが」という留保をつけるような基本姿勢です。要するに「話し続けて結論なんか出ないでしょうけど」という認識です。拍子抜けするでしょう?無理もありません。この認識は、大学の教室に入って来た人たちが12年間かけて身に付けてきた基本認識と「ネガとポジ」の関係にあるからです。正解が見つかったら勇気を出して答えを言ってみるトライを12年もやって来て、13年目にたどり着いた学校では、すべての発言が「正解なんか無いけど」とされるからです。シンプルに言ってしまいましょう。「正解などありませんから何でも言いましょう」です。

<私たちは何のために議論などするのか?>
 多くの人々は、議論をするということの目的を「正解を導き出すため」と思い込んでいます。実に不幸な勘違いです。それでは心も口も頭もこわばるわけです。学問の世界に足を突っ込んでかれこれ30年の私ですら、議論の場で「正解だけを発言願います」という縛りをかけられたら、永遠に沈黙を守りとおすことになるでしょう。
 まずこの「正解」という言葉がいけません。お勉強から学問へと世界を変えるためにまず必要なのは、「答えは一つ」「真理は一つ」という考えを完全に捨て去ることです。でも真面目な人はこう反論するでしょう。「それじゃ、これまで学校で『正しい答えを書きなさい』と言われてやらされてきたことは何だったのですか?無意味なことだったのですか?」と。そりゃそういうふうに言いたくもなります。延々とそれをやらされてきたのですから。現代国語の試験で「筆者の言わんとすることを説明しなさい」と設問されて、解答に「色々な気持ちです」と書いたら、「不正解」となるという理不尽なことが行われているのが日本の学校です。ですから反論する気持ちは分かります。
 しかし、すべての評価は部分評価ですから、このようにも言えるのです。つまり、6歳からの12年間は「答えは一つではありません」ということを深くきちんと考えるためには絶対に必要な最低限の技法と知識を身に付ける時代だったということです。「答えは一つ」と指定してくる馬鹿馬鹿しさには、私は14歳の時に既に気づいていましたが、どうして答えは一つというふうに教育せねばならないのかは気づきませんでした。大学以前の学校が、ひとつの答えを要求してきたのは正確には「答え」ではなく、「とにかく頭の中に入れておかねばならない重要データ」だったということです。「シクサンジュウロク」だとか「ハッパロクジュウシ」、あるいは「イイクニ造ろう鎌倉幕府」や「以後染み残す鉄砲伝来」といったデータは、それが無いと生きて行けないという知識ではありませんが広義の教養の部分をなすものであって、必要なものです。人間は最低限の素材とデータが無ければ世界や人間を考えることができません。それがあっての「学問」ということです。
 しかし、もはや大学においては、「ここはもうそういうものは一通り身に付けている人が来るところ」というところからものごとを始めていますので、当然そういう意味での「答えは一つだチィパッパ」のようなものはしていません(タテマエ上はです)。だからもう「正解を言わねばならぬ」という焦りは必要が無いのです。「少子高齢化社会化が加速度的に進行する現代において日本の税制はどのような基本フレームで考えるべきか」という問題を大学教員が出し、それを「わかる人?」と尋ねるかということです。そんな巨大な問題を大学の教室で尋ねる教員がいれば、それは正解を要求しての質問ではなく、こういう問題に未熟ながらも学生がどういう問いを立てて来るのかを探るためにやっていることであって、真面目に正解を問うはずはありません。「3×3=?」には答えは一つしかありませんが、「参議院選挙の一票の格差はどれぐらいが許容範囲か?」という問題に答えが一つしかないわけがないじゃありませんか。
 「発言=正解提出」という誤解に加えて、人々が発言しにくくなるもう一つの誤解が、人間が議論をする目的に関するものです。発言することをあまり大変な作業だと考えないためにも、一度立ち止まって考えてほしいのは、私たちが人と議論をする理由です。私たちのコミュニティでは、議論するということを「言いたいことをとにかく主張する」とか、「正しいかどうかは別として、とにかく思いの丈をぶつけてみる」、あるいは「言葉で切った張ったする」ことだと思っている人たちがまだ相当たくさんいます。とくに強いのは「文句を付けること」「気持ちをぶつけること」「反対者をコテンパンにすること」の三つが多いです。残念ですがどれも駄目です。道徳的に糾弾することはありませんが、それでは知的水準は上がりませんよということです。
 あまり耳慣れない言い方かもしれませんが、私たちが議論をする理由は「自分はあの人といったいどこで分かれてしまったのかを確認するため」です。そうするとあの人と考えが違うことがはっきりするから、そうなればしこりも残すし後味も悪いではないですかと不安を訴える人もいます。もちろん議論の仕方によっては「今はもう遠い距離が二人を隔てているのだな」という気持ちを強めます。しかし、私がここで強調したいのは「異なる点」だけではありません。この前に「〇○までは同じ道を歩いていたのだ」ということを確認することの大切さを強調したいのです。そして何が違うかだけでなく「何を共有しているのか」を確認することのポジティヴな意味を評価したいのです。議論によって対立点を明らかにするというのは、別に間違った物言いではないと思いますし、正確な認識を得るためには大切なことです。しかし、「ここまでは共有していた」ということを確認することで、では何を克服すれば共有地平を増やすことができるだろうかとなるわけです。
 例えば、私は昔ある友人の言葉の端っこを過大に受け止めてしまって、「あの野郎はとんでもねぇ右翼だ」と決めつけて、売り言葉に買い言葉で相手もこっちのことを「左翼ファシストめ」と思い込んでいました。ところがひょんな機会にちゃんと話してみたら「自分の愛する故郷や地域の人間こそ最も大切な人達である」という基本姿勢と「大資本のスーパーよりも個人がやってる商店街にお金を落とすというように、虐げられている経済的弱者へのシンパシーを持っている」ことが完全に一致していました。えっと思ってもう少し話してみたら「そういう世の中を父親のような権威を通じてまとめるか、よたよたしながらでも皆で相談しながら決めて行くか」の部分で袂を分かっているに過ぎないことに気が付いたのです。考えてみれば、強力なリーダーに重きを置くことと、より民主的に物事を進めることの間にある違いは所詮は「程度」の違いに過ぎません。様々な中間領域があるからです。このやり取りの後、両者の心に残ったのは「俺らそんなに違わなかったんじゃん」という温(ぬく)い気持ちです。そして「俺らが本当の戦う相手」が誰なのかが問題となって行きます。つまり、議論をして袂を分かつのではなく、議論をすることで人間が結び付くことの方が、我々全体の水準を上げて行くと思うのです。そのために私たちは議論をするのです。
 発言することに大仰な意味を込めすぎている人は、発言して議論して結論を出すなどと考えれば、とても億劫になってしまい、ギスギス感も増大しますし、自分にはそんな切った張ったはできないと思ってしまいます。ですからそうならないためにも、議論するそもそもの目的というものをもっと前向きに理解した方がいいと思うのです。ちゃんと話すと友人が増えるのだと。
<とにかく沈黙の連鎖から抜けること>
 大学に入って、議論の場に遭遇して「コメントしてごらんなさい」と言われ、途方に暮れている諸君は、まずは一つの事を出来るようにすることです。それはとにかく「お通夜状況」に陥らないようにすることです。何度も強調してきましたように、立派なことは言わなくてよいのですから、お地蔵さんのようになる、あるいはそう決め込む、そうやってやり過ごそうとすることを止めることです。この習慣を取り払わなければ、今後の知的世界において未来はありません。なぜならば、学問の世界とは声帯を震わせることなくしては「存在していないこと」にされてしまうからです。しゃべらない奴は「居ない」のと同じという事です(「君たちは存在しない」の章参照)。

岡田「この時限90分の間ずっと黙っていたけど、来週はもう来る気はないのですね。はい、それでは名簿から君の名前は抹消しますね」。
学生「・・・ちょっちょっと待ってください。え?抹消ですか?」。
岡田「うん。発言が無かったでしょ?」。
学生「え?しゃべらないとクビですか?」。
岡田「はぁ?クビって言うか、そのつまり、黙っていて何の意思表明もないので学習を継続する意思が無いと判断したんだけど・・・」。
学生「いやっ、ああります!ありますよ。ちゃんとやりますよ!」
岡田「でもお地蔵さんにどんな意志があるんだろうと思っちゃうんだよ」。
学生「え?俺ってお地蔵さんなんすか?」。
岡田「何も言わないでしょう?」。
学生「それだと駄目なんすか?」。
岡田「ダメとかいう段階以前に、居ないのと同じだから、スタートラインから外れてもらうって言っているだけだけど・・・じゃ来週は存在する証拠を見せてくれる?」。
学生「証拠?何持って来ればいいんですか?」
岡田「・・・だ・か・らぁーー!声帯を振るわせろよ!それだけだよ!」

 私がここで言いたいことは、お地蔵さんから人間になりなさいということです。そして、コメントって言われても・・・と途方に暮れる姿があまりに不憫なので、コメントといっても大学の教室で飛び交うものは、大体5~6種類しかありませんよと助け舟を出しているわけです。かつ中身のないことを言ってしまう可能性があっても、つなぎや自分のための時間稼ぎのようなコメントでも良いのだと言っているのです。俯いて黙っていられると教室に病人がいるような気になってしまうわけで、最低限ここには学ぶ意志を持った健康な人間が存在することを示しなさいという事です。黙って座っているのは大人しくて手のかからない従順な良い子だとされるのは18歳までです。そこを過ぎると、世界は一変して「病人か幽霊がいる」ことになってしまうのです。だから、まずはそれを避けるべく努力をしてください。
 
 かつて書いた本の中で、私は「考えがまとまってから何かを言おうとすると、永遠にものが言えません」と言いました(『言葉が足りないとサルになる』)。そして、とにかく出だしからエイヤッと言葉を使って話し始めると、自分の中に眠っていたいろんな考えが浮上してくるから、話し始めて考えればいいともいいました。心のもやもやに言葉を当てはめるんじゃない、言葉を使って心にある考えをはっきりさせて、引き出すんだといいました。言葉と心の順番を逆にしろと言うことです。何でもいいから声帯を震わせれば何とかなるのです。もちろんそれですべてがうまくいくとは言いません。しかし、この苦手な場をやり過ごそうと、例の、あの、いつものチキン振りを維持したままでは、貴方の人生は絶対に変わりません。学校に行った人間は、話して言葉を使って活路を見出す以外に生きて行く道はないのです。

2011年12月13日火曜日

愛おしき学生に告ぐ:「イイタイコト」の無い文章を書いても意味がありません


「イイタイコト」の無い文章を書いても意味がありません


<「ただ」書くのはやめて下さい>
 学生も若いオフィス・ワーカーも、色々な文章を書いています。学生も、デスク・ワークがメインの勤め人もそれをしないとどうにもなりません。答案を書かないと単位が取れませんし、企画書や営業の報告書を書かないとビジネスになりません。だから書きます。しかし、多くの人が「ただ」書いています。「ただ」書くとはどういうふうに書くことなのでしょうか?
 「ただ」書くとは、「イイタイコト」を最もビシッと伝えるためにはどうやって書いたらいいのかに心を砕くことなく、「漫然と」、「漠然と」書くことです。ちなみに「イイタイコト」のことを別名「論旨」と言います。そこにある「論述の要旨」のことですから「論旨」です。論旨の無い文章のことを普通は「記号」と呼んでみたりします。つまり時々漢字の混じった、大方ひらがなとカタカナでできた「イイタイコト」がさっぱりわからない文字の羅列ですから、「記号」です。そして、何の知的訓練を受けていない20歳前後の人々が書く文章の大半がこの手の文章です。
 通常、そこに言葉があればそこに必ず意図があると考えます。何の意図もなく言葉を使う人はほとんどありません。虚空に向かって「畜生!」と叫んでいる人だって、「何だか面白くねぇんだよ!」という意図を表現しているのです。こんなことは何も6歳ぐらいからずっとある程度学校に行っていた人に言うことではないのですが、このことをたまには自覚的に意識しないと、皆さん本当に意図のない文章を書いてしまうのです。一読し終わって、イイタイコトが何なのか判然としない、崩壊した日本語が暴力的なまでにこちらの精神と脳細胞を破壊せんと迫って来ます。大学の少人数教育の教室で、私はいったい年間に何回「要するに一番イイタイコトは何なの?」と質問しているのでしょうか?本当に伝えたいという基本的欲望があるのかと疑いたくなるような薄いシャープペンシルの芯で書かれた答案を何千枚も読んで何度「解答のポイントが読み取れんぞ」と溜息をつくのでしょうか?
 私が困っているのは、そして企業の管理職の皆さんが困っているのは、主として若い人が書く文章が稚拙だからではありません。稚拙なのも本当は天を仰ぐぐらい困るのですが、それより以前に、まず何とかしてほしいのは「イイタイコト」がわからないことは書かないで欲しいという、ものを書く時の最初のルールの話です。言い換えると、「伝えようと思っていることをはっきりさせないで、漫然と『ただ』書くのはやめてほしい」ということです。そういうことを書かれるぐらいなら、小学生が書くような稚拙で幼稚な日本語でもいいですから「ぼくわまりちゃんのことをしぬほどきらいです」と書かれるほうが100倍人と共に生きることの喜びを堪能できます。
 このことに意識的になるだけで、皆さんの書く文章はあっという間に2ランクほど上がるといって良いでしょう。文章がある。そこには意図がある。その意図をどうしたら有効に伝えられるか。そのために言葉を選ぶ。段取りを工夫する。装丁を美しくする。価格設定で営業に泣いてもらう。影響力のある人に謹呈する。すべては「イイタイコト」を十全に世界に伝えたいからです。すべてはそこに起点があります。

<イイタイコトにはそう言う理由がある>
 イイタイコトを伝えるのに、イイタイコト「だけ」を書けばよいはずがありません。それだけではダメです。イイタイコトを「ただ言う」だけで許されるのは、原則的に読み手が自分自身であると言うことになっている「日記・独白」の類だけです。これは伝えることが目的ではなく、自分自身が忘れないように書き留めておく、あるいは何らかの目的のために記録を残すことが目的だから、それでよいのです。
 論旨を伝えるためには、「論拠」が不可欠です。そうイイタイと思う理由のことです。だから論拠のない主張・判断は、論述ではなく「独り言」です。「気持ち」を伝えることが目的ならば、必ずしも「論拠」のような堅苦しいものでなくても良いでしょうが、「申し訳ないという気持ちを伝えたい時に、闇雲に「すんません!すんません!」と百回謝られるよりも、そう思い至った心の軌跡を理由として添えた方が人の気持ちは暖まるでしょう(逆効果になるときもあります)。
 日本の国語教育は本当に独特なもので、「作者の心情を考えてみよう」という、「心のありか」などという曖昧な、明確な論拠を示す必然性を弱めてしまうようなアプローチが取られるために、私たちは子供のころから「気持ち」や「感想」というものを吐露することが発言することだという考えが身に付いてしまっています。しかし、イイタイコトを論理的に伝えるためには「印象を吐露する」手法だけでは十分ではありません。それどころか曖昧な物言いを「日本語独特の婉曲的表現」などというお門違いな評価によって、大切なことを曖昧にしてよいという暗黙の社会規範が作られることに手を貸すことにすらなります。文章には必ずそうイイタイと判断した根拠を示さねばなりません。

<イイタイコトは作戦を立てて言わねばなりません>
 「五月雨(さみだれ)」という言葉を御存知でしょうか?この場合の五月とは陰暦の五月ですから、要するに梅雨の時期であって、長雨とも表現される雨の降り方です。長々と降り、途切れ、まただらだらと降ったかと思うとまた止んでといった具合に不規則にだらだらとふる雨のことを五月雨と呼ぶわけです。
 イイタイコトをきちんと伝えるためには、ものを言う有効な作戦をたてねばなりません。この作戦が全く欠けている文章を「五月雨文」と言います(私が名付けました)。とにかくこれは梅雨の降雨のように、要領を得ない曖昧な文が、文脈を途切れさせながら続き、まるで寝言の口述筆記したものかと疑うようなものです。必要なのは、「こういう順番で、こういう組立で説明するとわかってもらい易いだろう」という作戦です。以下、まとめてみましょう。
    論旨をきちんと伝えるためには、構成が存在しなければなりません。
    構成とは、イイタイコトを伝えるための段取りのことです。
    段取りには「段」が必要で、それは通常として「パラグラフ(段落)」と呼ばれます。
    段取りの組み方は書き手の自由ですが、有効な段取りについてはいくつかのモデルがあります。
(1)先制攻撃型:イイタイコトを最初に力強く述べてしまって、後にそれがどういう
ことであるかを説明していく段取り。短い叙述の場合は非常に効果的。
(2)水際作戦型:徐々に読み手の興味関心をひきながら、最後に啖呵を切るようにイ
イイタイコトをぶつける段取り。用意周到にやればやるほど効果も高い。
(3)中押し攻撃型:論旨を示唆するように書き出し、中心部分で全面展開し、最後は
さらりと流すやり方。段取り。バランスがよいのが長所だが、最後の「流し」で
ツマラナイことを書くと台無しになる場合がある。

 こうした作戦を意識して、自覚的に展開するならば、皆さんは冒頭で注意を喚起した「漫然と書くな」とか「『ただ』書くな」という意味が、またひとつよくわかると思います。相手を説得するのに、ただひたすらストレートにぶつかればよいというものではありません。直球ばかりを投げれば、そのうち打者の目が慣れてしまい150キロの球を打ち返されてしまうかもしれません。逆に、手練手管に走りすぎて策に溺れるような場合だってあります。この作業は非常に大切で、こうして書いている私自身も、この文の組み立てをどうしようかと散々悩んで悩み抜いて、半分ギャンブルのような気持ちで取り組んでいるのですから。
 肝心なことは、パラグラフには必ず全体の中での役割があるということです。この項目で書いたことを理解していない人は、必ず50行ぐらいのパラグラフの文章を提出してきます。そんな巨大なパラグラフに一体どんな意味と役割を込めているのでしょうか?通常はそういうことがありえません。例えば(1)の作戦を採用した場合には、冒頭のパラグラフは「この論述の論旨にあたるもの」をスパンと打ち出すための「カタマリ」の仕事をするはずですし、(2)ならば、意外なエピソードで読み手を「おや?」という不思議な気持ちにさせて、「これは何かあるのか?」と思わせるような文章を設定するでしょう。わかり易いのは、最後のパラグラフの役割です。これは論述の全体の長さにもよりますが、普通は、論旨を確認するかのようにまとめるか、論旨を示した直後に「この問題にはなお検討の余地がある」と、未解決の問題を示唆しておくという奥ゆかしいものかのいずれです。もし、各々のパラグラフのカタマリの役割をより明確にして伝えたいならば、それをいくつかの上位のカタマリとして合体させ、そこにセクションごとにサブ・タイトルをつければいいでしょう。本書が<>で括って「節」のようなものを表現しているのもこのことです。そして、それによって論述全体の構成というものが明らかになり、書き手の伝えようとすることの意図がわかってくるのです。

<公的な論述における御法度集>
 文章を書く極意のようなものは存在しません。極意ではなく「常識」があればいいのです。昔は、本を読んで、どのようなタイプのどのような文章にはどのような言葉遣いをすればいいのかを、人々は読みながら真似ながら学びました。ところが、あらゆる領域で「何でもアリ」状態のこの国の文化状況においては、「それはこういう文章を書く時にはやってはいけないことなのよ」と言って聞かせないと、本当に何でもアリのような文章を書いて提出してきます。「ぶっちゃけぇ、オレ的にはそういうウザい話はアリえなくねぇっていう感じっすかねぇ?」とほぼ変わらないような話し言葉文でレポートが提出された時の衝撃は忘れることができません。最初は、間違いなく喧嘩を売って来たのだと思いました。でもどうやら、そうではなく19歳まで本当に何の指導も受けず、何の修正もされず、やったことは推薦入学のための提出小論文800字を面接に備えてほぼ丸暗記した程度だったから、本当に状況によって異なった日本語を使わねばならないことを知らないのです。
 本当は、日本語表記については、これまでに何千人分ものレポートと答案を読んできた経験から得られた大量項目の注意事項があるのですが、それは全部提示できません。 その代わりに、以下これさえやらなければ最悪の事態にはならないだろうと思われる「これをやってはいけない」程度の注意書きを示してみたいと思います。すべての文章スタイルに対応しているわけではなく、学生なら「答案」や「レポート」、社会人なら「企画書」や「報告書」といった、最も一般的公的文を念頭に置いています。

[やってはいけない10か条]
(1) 常体(である調)と敬体(ですます調)を混ぜてはいけない。
 まさかこんな子供じみたことを大人がするはずがないと高をくくっていらっしゃる企業の管理職のみなさん。甘いです。そして頭を抱えるのは「どうして区別しなければいけないのかがわからない」と平然と訴えてくる者たちが少なからずいることです。このあたりを許して放置すると、もうダムが決壊するような事態になります。絶対にダメです。
(2) 話し言葉を使ってはいけない。
先にも触れましたが「そうゆう認識はなにげに微妙だ」と普通に書いてくる人間がこの10年くらいの間に大増殖しています。「なにげに」は話し言葉で、どうやら「なんとなく」という意味で上は50代半ばの人たちにまで浸透しています。しかし、これを公的文章で書くことを許してはなりません。また、直接話法的な表現(「じゃないかなぁと思ったし」)を含む文が無造作に使用されていて、これは「ではないかと思った。そして・・・」と書き直さねばならないと言うと、「何が違うんですか?」と逆に問い返されるのが今日生じている事態です。
(3) 「僕は」「私は」という一人称を頻繁につかってはいけない。
 使ってはいけませんと言っているわけではありません。そうではなくて、すべての文章にこの一人称をつけなければいけないと思い込んでいる人がいて、それをやると「小学6年生の作文」のたたずまいとなる場合が多いので、大人ならそういう印象を与えるような文章を書きなさんなということです。「英語の場合は”I”と書く場合が多いじゃないですか?」と疑問を呈する方もいますが、論説文やアナリシスの文章にはあまりこの一人称は出てきません。
(4) 「~だと思う」「~だと感じた」「~と考える」を多用してはいけない。
 ここ一発と啖呵を切る場合には、揺るぎない信念に依拠して「だと思う」と書くと、論述に良き緊張がもたらされて、力強い印象を与えますが、これも多用すると、「ああ、文章を書き慣れていない、訓練を受けていない人なんだなぁ」という、残念な印象を与えてしまいます。そもそも、思った事を書いているわけですし、感じたことを「感じた」と書くのは、論理で勝負する文章においては「印象を語っているだけ」というマイナスの評価の素となってしまいます。とりわけ私たちの社会では「見解」と言うと角が立つのではという、実に脆弱なメンタリティが蔓延していますから、ややソフトな(とされている)「印象」でお茶を濁そうとする集合的無意識があり、「感じた」と書くことがあたかも何かの配慮をしているという馬鹿げたことになります。駄目です。「感じ」ではなく「見解」を書くのです。そのためには、逆に「~と思う」とやらないで言い切るのです。
(5)「~ではないだろうか?」という弱腰文を多用してはいけない。
これも本当に多くの学生が書いてくる「トホホ」フレーズのひとつです。これがもたらす困ったものは、ひとえに「論旨が弱くなる」ということです。書いた本人は、謙虚でソフトな言い方だと勘違いしていますが、オーラル・コミュニケーションとライティングとは言葉が持つ働きや力は異なります。論述文で最も大切な場面、つまりイイタイコトを示すときにこれをやってしまうと致命的となってしまいます。「え?そんなに自身が無いことを書いてるのか」と受け取られてしまうと言うことです。こういう問いかけ文は、本当にここ一発という時に使えばいいのです。
(6) 主語(主部)を意識の中で曖昧にしてはいけない。
 ちゃんと考えないと(3)で言ったことと矛盾しているのではないかと誤解しがちなことですが、ここで言っているのは世界中のすべての言語に原則共通している基本構造である「何が-どうした」というものの、「何が」の部分が曖昧で確定されておらず、整理されていないと、言語としての崩壊をきたしてしまいますよという意味です。レポートの朱入れをしていると頻繁に出会うのが以下のような「二つの主部のある文章」です。これは崩壊した日本語です。例えば「大東亜戦争肯定論国内外からの反発の上がった」というものです。「上がった」が述部ですが、これの主部にあたるものが「肯定論」と「声」の二つあり、基本構造が壊れています。慌てて書くと、私もよくやる間違いです。
(7) 指示語(「それ」「これ」「その」等)を曖昧にしてはいけない。
 指示語というものは、それが受けている先行する言葉が長かったり、先行する内容全体をさしたりする場合に、煩雑な文章にならないために使いますから、「それ」が「何」を指しているのかが曖昧になったり不明になったりしたら、逆に混乱を招きます。いわゆる「文章書くのが苦手なんです」という人の多くは、こういう指示語が「何を受けているのか」を深く考えずに、フィーリングで「あれ」「それ」と使っている場合が多いです。このことを意識的にやらないと、論理的な文章は永遠に書くことができません。逆に、強くここを意識して書き始めると、驚くほど明晰で筋道の通ったわかり易い日本語になるものです。本当です。
(8) 長すぎる修飾語を伴う主語を作ってはいけない。
いわゆる「悪文」と言われるものの代表は、一分の構造が「頭でっかち」になっているものです。例えば「私たちの日本社会が意図せずに不可視な存在に追いやってきた在日コリアンは納税者だ」という文など、この典型です。構造的には、主部は「コリアン」で、述部は「納税者だ」です。にもかかわらず長い長い修飾語「私たちの日本社会が意図せずに不可視な存在に追いやってきた」が、この文のバランスをとても悪くしています。これは関係代名詞で連なる、英語の翻訳文などには良く見られるもので、「~であるところの」という英文和訳の初学者がやる表現に引きずられた時に起こります。これを多用すると本当にわかり難い悪文になります。
(9) 人畜無害で信念の欠片もない「例のあのパターン」を使ってはならない。
 以下は、教員生活において実際に経験した実例です。どれも皆虚空を木霊し、言霊として成仏できないようなものばかりです。底の浅さを自ら宣伝しているようなものです。こんなツマラナイ、何のメッセージも含まれない表現に依りかかるくらいなら、拙い表現でも、自分の肉体からにじんでくるような物言いをするべきです。以下、やや学生への指導という部分に比重があるものとなっていますが、具体例を示します。ビジネスの場では、必ずしもすべてが当てはまるものではありません。

「今後、このようなよい社会の到来を期待したい」
このような傍観者的態度は最も意味がありません。社会の到来などと、あたかもお天気や自然現象を待つかのような態度には、社会の一員として「我が事」として問題と取り組む姿勢が全く垣間見えません。社会を構成しているのは書き手自身でもあるのですから、人任せにして期待してどうしようというのでしょうか?

「世界の人々に平和がもたらされることを祈念して、ここで筆を置きたい」
論理的に文章を書いて来て、根拠を添えて、何とかいえる範囲でそれなりの主張をして来ても、最後の最後に精神の怠惰が顔を出して、お仕着せの、例の、陳腐なこういう表現を丸写し的に書いて、それまでの論述が水泡と化すことがあります。言葉は正直なものです。身に付いていない、信念のない、覚悟の無い言葉使いは、読み手にすぐに伝わって、「ああ、ハートを込めて書いてないね。この人」と一発でばれてしまうのです。文章能力以前に、その人の「伝えようとする誠意」にすら疑問符がついてしまいます。その意味で文章を書くとはとても恐ろしいことなのです。とにかく、お祈りなら、お墓や教会でするべきです。

「大切なのは、相手を理解してあげることだ」
知的な人間とは「皮膚一枚隔てて外部に存在する他者というものを完全に理解することは元々原理的に不可能なのだ」という健全なペシミズムを前提にして世界や社会を考えます。こういう態度を持っているかいないかで、申し訳ないのですが最初の腑分けがなされてしまいます。ですから「大切なのは相互理解です」というのも、「他者は理解不能なのです」というのも、いずれも世界を考察する際の結論ではなく、基本態度として持つ前提なのです。ですから、簡単に言ってしまえば、こんなこと書いて前提を結論にしないで下さいということです。これを誤解している人が何とも多いことか。論述において、最後にこれを結論に持ってきたら、残念ですが一発アウトです。よく覚えておいてください。

(10) コピペをしてはいけない。
昨今、我々が直面している困った問題が「何でもコピペで済ませる傾向」です。恐るべき事態です。これは文章を書くという行為の根本の部分に関わる問題です。この世に文章というものがあれば、そこには必ず「書いた人」が存在します。書いた人が「誰が書いても取り換え可能なもの」を書く場合には、原則として記名する必要はありません。例えば、「今日は〇月〇日である」という文章は、その内容が事実に即しているならば、この文章に記名は不要です。記名が無いということは「人格」が宿っていないということです。ということは逆に言えば、記名されている文章には人格が背後にあるのですから、この人格は取り換え不能のものです。それは単純に「個人は取り換え不能である」ということ別表現です。そういうものを「自分の書いたもの」として提示するのは、他者の人格と自分の人格を区別していないことになります。そういうことにこだわりのない人は、文章を書いて公に提示する基本的資格のない人です。もっと簡単に言ってしまいましょう。自分の書いたもの他人が書いたものを区別しない文は「盗作」と言われます。これは、原則的には人の物を盗むのですから刑事上の責任を伴う「犯罪」です。

<「ちゃんと書ける」ことの比重は実はとてつもなく重い>
 私はこの章でこれまで、「漫然と書くのはダメ」、「イイタイコトの根拠が無きゃダメ」、「イイタイコトを言う作戦が無きゃダメ」、「こんなことやったらダメ」と書いてきました。まったく「ダメダメ説教爺」です。しかも、かなり強いトーンで皆さんに物を言ってきました。最大の理由は、書くという仕事が現実には他の行為よりも決定的な評価を受けてしまうからです。知的生活のための自力として私が言う「ちゃんと読める」、「ちゃんと話せる」、「ちゃんと書ける」はどれも原理的には皆おなじだけ重要な自力なのですが、この世の現実レベルで考えてみると、ちゃんと書けることの比重は実はかなり高いからです。
 大学の場合、上記の自力はいずれも学生評価に不可欠な項目ですが、日常的にこれらをすべて十全にチェックできるかというと不可能です。ゼミの学生10人程度だけを教えているならば、様々な場面で学生の能力を総合的に評価できますが、現実には数百人の学生が履修登録をしている講義科目を担当していると、数百人と面接をして「ちゃんと話せるか」、「ちゃんと読めているか」を判断することは物理的な時間が無いという意味で不可能です。ですから我々の社会ではほとんどの学生の評価を「ちゃんと書けるか」で判断しているわけです。つまり試験の「答案」です。面接をして口頭試問をして、かつ書いた文章も評価のために読むとなると、一人だけでの大変な時間を要します。しかし、答案なら速い時には一分以内(白紙答案なら一秒!)、遅くても五分以内で評価をすることができます。
 会社でも事情は同じです。部長も課長も皆忙しいのです。新しい商品企画を説明するのに、もちろんパワーポイントなどを使ったプレゼンも大切ですが、それはその企画がかなりいいところまで行ったところで与えられるチャンスであって、もしそれが公募のような形を取れば、応募者は何十、何百ともなるかもしれません。そんな時個別のプレゼンを何十回もやってくれるほど企業は暇ではありません。また、報告書の作成や部下の評価レポートなども、社長含めてマンションの一室でやっている会社ならともかく、部下が何十人もいるような組織ではいちいち時間作って対面でコミュニケーションをとれるほどの余裕はありませんから、「メール添付で出しといてくれ」ということになるのです。役所のような所になれば、仕方なくではなく証拠残しと前例踏襲に引きずられて「文書作りそのもの」が目的化したような仕事ぶりです。
 つまり、現実的には私たちの仕事をする近代社会のオフィスワークでは、とにかく書けないと仕事にならないのです。大学では、いくらか企業とは事情が異なりますが、それでも「ちゃんと書ける」ことに依りかかって人間が評価されていることは間違いないのです。そうなれば、もう書くこと、ちゃんと書けることの重要性は決定的ということです。諸般の都合で、この項目について本書ではここらあたりまでしか触れられませんが、本当はこのテーマだけで一冊の本を書かねばなりませんし、実際に書店に行きますと文書作成のためのマニュアルが溢れるほど置かれています。
 これをお読みの皆さん。ここに書いたことは知的生活のための最小限のアドヴァイスです。この「書く」能力だけは、修練に終わりというものがありません。そして、この問題は職業人生を送る限り、必ずついて回ります。逃げられない問題です。私自身もなお修練中です。