2017年6月15日木曜日

参議院強行採決に寄せて:奇しくも6月15日になされたことと僕たち



あの数で野党は最後までよく頑張った。
あの官僚化した組織で朝日の記者はよく頑張った。
あの「東京55万部」という数で東京新聞は頑張った。
あの上からの圧力の最中テレビ朝日はよく頑張った。
あの酷い政治報道部を抱えた現場のNHK職員は頑張った。
あの「明日わか」(明日の自由を守る若手弁護士の会)は丹念にずっと人々に説明と説得をし続けてきて頑張った。
あの時代のように簡単には決めさせないぞと国会前に集まった人たちは頑張った。
あのファッションとグルメしか載せないと思っていた雑誌も注意を喚起する記事を載せて頑張った。
あの週刊文春も加計学園ネタでは頑張った(共謀罪もやれ!)
あの人、この人、その人、普段は考えもしない共謀罪について、慣れない中、記事を読み考え頑張った。
あのような国会の自殺をもたらした責任を知らしめるために政党や政治家に電話をかけ続けた人は頑張った。
あの法律で今後仕事の条件が悪くなるであろう言論人も千万の言葉を紡いで警鐘を鳴らし頑張った。
感謝したい。ありがとうございました。
ここに書かれていないけれど、ひっそりと、丹念に、ちゃんと頑張った人たちはたくさんいる。
それを思い出そう。

思い出して紹介して、そしてそれを記憶しよう。
頑張らなかった人、間違った筋で頑張った人、頑張っている人の足を引っ張った人のことは、統治エリートを除いて、悪く言うのはやめよう。
人々の半分も支持していない者たちがどうしてこんなに好き勝手なことをできるのか、その理由を丁寧に考えよう。
さて、今日も教室で淡々と「デモクラシーの基準」について講義しよう。そして若い人たちに思考の道具を提供しよう。
引き続き、頑張った者を褒め、友人を作り、話そう。
どのような法律もそれを止めることはできない。
奇しくも57年前の今日、国会南通用門前で亡くなった女子学生のことを考えながら、ここに記す。
岡田憲治 教員 54歳

2016年8月19日金曜日

世界で一番幸福なアスリートよ:吉田が負けた〜たまには書きますスポーツ・エッセイ〜

 吉田が負けた。
 
 3分15秒に後ろのポジションを取られたシーンに言い訳はできない。ちゃんと負けた。
 そして「あんなにたくさんの人に応援してもらったのに・・・ゴメンなさい・・・取り返しのつかないことをしてしまった」と泣いた。
 勝ったヘレン・マルーリスも泣いていた。彼女は、吉田の姿を観てレスリングを始め、吉田を仰ぎ見あげてここまできた。
 そして、その吉田に勝った。万感胸に迫った。
 不敗の神話を持つ者の不幸は、「その神話の終わりをいつにするかという困難な課題」に安易には立ち向かえないことだ。
 いたずらに老醜をさらし晩節を汚すこともある。
 ある日、突然啓示を受けたように消え去る者もいる。

 しかし吉田は、「自分に憧れ、自分を目標にし、自分を倒すことだけを考えてきた若者」に敗れ、そして何かを終わらせることができたのである。
 無敵のレスラーが、そんな素晴らしい者に敗れて、五輪を終えた。自分が種を蒔いた結果を全身で受け止めて、一つの仕事を終えた。
 勝ち続け、神話を無謬なるものとした者は、人を育てることが困難である。「勝てない理由がわからない」からだ。
 でも、神様は吉田に最後にとてつもない祝福をした。
 「負けて、ちゃんと負けて、負けた者しか学べない何かを、これからも若者に伝えよ」というメッセージである。
 吉田は、普遍なる存在に「お前の仕事は終わらない」と言われたのだ。
 何という幸福なアスリートだろう。

 そして、何と過酷な宿題が与えられたのだろう。
 「日本のキャプテンなのに優勝できなかった」などというツマラナイ事実を嘆くことはない。
 吉田は、本当の意味で、今日「選ばれし者」となったのだから。

2016年8月10日水曜日

【新刊本、本日発売と相成りました:『デモクラシーは、仁義である』(角川新書)】

 本日10日角川書店より、『デモクラシーは、仁義である』を上梓させていただきました。

 デモクラシーの意味と意義を共有する多くの友人もおり、曲がりなりにもデモクラシーは多くの人々の「生活原理」となりつつあります。
 しかし他方で、未来への不透明感と漠とした不安を抱えた人々が、ままならぬ日常と鬱積するフラストレーションを「デモクラシー」を罵倒することで晴らそうとしつつあります。

 デモクラシーの生活技法とは、「失いたくないものを共有する友人を増やしていく」ことです。
 その意味で、失いたくないものを「もう共有している人たち」と、それを確認すらだけでなく、これから共有する友人にも届く言葉が必要です。
 
 それを念頭に、この本はデモクラシーを愛している人と言うよりもむしろ、「デモクラシーにそうとう懐疑的な気持ちを持っている人たち」に、「気持ちはわかる。思いも共有する。でもやっぱりギリギリで僕たちがデモクラシーとやはり別れられない理由を確認しよう」という呼びかけをしました。

 どれほどデモクラシーの悪口を言う人でも、どれだけデモクラシーに悲観的な人も、そしてどうにもウジウジしている人も、「それでもどうしても手放すわけにはいかないもの」をたくさんの人たちが共有していると信じています。

 各々の選挙が終わっても、僕たちのデモクラシーは終わりません。僕たちに「終わらせたくない」という気持ちさえあればです。

 どうかご一読いただければありがたいです。
 






2015年9月1日火曜日

「今さら言おう基本のキ・オブ・デモクラシー」〜典型的な物言い:民主政治的センスを止めるロジック〜


ツイッターでちらりとエンカウンターした典型的な物言いです。

ちょっと読むと「その通りだよな」と思える、ヴァリエーションを変えつつ大量に出回っている民主政治(無)理解です。
丁寧に考えれば、全部論破できます。
でもこちら側は荒れた言葉を使わずに「丁寧に」です。


以下↓
光太郎 @koutaro1942
反対派には民意は感じられません!法案は選挙で選ばれた政治家が国民の付託を受けて議会で論じられたもので民意そのものです。賛成派はそれを応援したもの!デモで政治を変えればそれは民意では有りません!テロ行為です。

この「民意そのものです」という部分がジャンプアップです。
かつ「デモで政治を変えればそれは民意ではありません」が、一歩立ち止まって見ると「論理が全くない」です。つまり気持ち。

法が選挙を通じて選ばれた立法府のメンバーによって、ルールに基づいて議決されて成立するとか、その結論が民意であるというのは、「法制度上の原則」であって、それが即イコール民主政治を担保するものではありません。

民主政治は、人々の判断(民意と仮に呼んでも良いが1億人の民意など実態として存在するわけがないので、政治家やメディアが俊秀なる解釈によって言語化すべきもの)を、選挙や、世論調査や、地域での議論や、様々な社会集団における判断や議決や、リコールや、住民投票や、街頭デモや、お茶のみをしながらの隣人への声がけや、そういう「あらゆる手段を通じて行われる個別の人間の価値観に依拠した世界解釈の発露」を通じて、「その場、その時」に注意深く耳を傾けながら決定へと着地させていく「過程」「プロセス」、つまり「一連の人々の考えの連続確認作業」です。

まとめます。民主政治=「時間的に連なる人々の考えの連続確認作業」を前提にしたやりかた。

上記の「典型例」をもう一度丁寧に読んでみてください。

反対派には民意は「感じられない」(「感じ」ですね)のだそうです。

「議会で論じられたもので」とありますが、まともな議論などされていませんね?野党がその筋で質問しても答えませんよね?百歩譲ってもその「論じられたもの」の悲惨なこと。

「論じられたもの」が未だないわけですから、それが「民意そのものである」とは、論理的に言えませんよね?

賛成派は「それ」を応援したそうですが、この指示語の「それ」はまだ存在していませんよね?あるのは信じられないほどできの悪い法「案」だけですよね?

「デモで政治を変えれば」と言いますが、デモだけじゃなくて、いろいろなやり方で毎日政治は「変わって」いますよね?

「それは」民意ではないと言っていますが、「それ」は何?
テロ行為だそうですが、賛成派のデモもテロなのですか?

ツイッターやFBには、この「なんだか細かく考えたことはないが非の打ち所がない正論っぽい感じの言葉とされたもの」のコピペや応用があるだけで、要は「自分が逆の立場になった時に酷いことになるかもしれない」という想像力を動員する気持ちが弱い人たちの悲鳴のように感じます。議論ではありません。蓋を閉めているのです。

民主政治は、時間の制限がありますから、延々と「確認作業」を続けるわけにはいきません。しかし、確認作業の途中で「これは一億人の有権者のうちのほとんどの人に違和感を持たれた法案だな」とわかれば(もうわかっているのですが)、
1、引っ込める
2、大幅に修正する
3、この法案を支えている(実は支えられていない)前提からもう一度丁寧に議論することを呼びかける。

の三つから結論を出すのが民主政治です。

誤解してはいけません。多数決は、この確認作業の「ひとつ」の手法に過ぎません。たくさんの人がカーッとなって誤った判断をしている可能性を前提に民主政治はあるからです。
デモに行く人は多数決を否定しているのではありません。
「あの時の多数と今の多数がズレてるんですけど」と言っているのです。

そう考えると、自公政権と大阪市長のやっていることがいかに民主政治とは無縁であるかがわかるはずです。

以上、「今さら言おう基本のキ」オブ・デモクラシーでした。

2015年7月24日金曜日

鶴見俊輔さんが亡くなった:追悼文

鶴見さんが亡くなった。

困った時、苦しい時、「鶴見さんならどう考えるのか?」といつも立ち戻った、鶴見さんが亡くなった。

93歳だから天寿を全うされたのだと何度も自分に言い聞かせた。
亡くなる前にも、もう何十回も、「人は永遠には生きられないのだ」とまるで18歳の青年のように繰り返し繰り返し「その日」の覚悟を作ってきた。

しかし、やっぱり悲しくて、切なくて、どうしようもない。

鶴見さん、あなたは僕にとてつもなく沢山のことを教えてくれた。

思想を持つとは立派な考えを持つことではなく、失敗から学び成長し続けることなのだということを教えてくれた。

戦争が始まってアメリカに留まるか帰国するかを迫られた時、「戦争が終わった時、負けた側に居たいとおもった」という「思想を超えた領域」が存在することを教えてくれた。

近代日本で高等教育を受けた者たちが、世界が変わるたびに教科書を取り替えて、その度ごとに一切の思想的葛藤なく優等生になろうとすることを「一番病」と名付けて、「学ぶこと」と「勉強が上手」であることは違うということを教えてくれた。

本当に世界を切り開く優れた知性は、権威的で難解な言葉を使わなくても、15歳にわかる言葉で表現できるものであること、そしてそれを実行することがどれだけ大変なことであるかを教えてくれた。

どんな個人の悪よりも国家のもたらす悪のほうが大きな悪であって、それを防ぐためには国家とは別の尺度でものを考える社会が必要なのだということを教えてくれた。

人間は世界を完全情報のもとで理解することができないのだから、他者の命をなきものにする最終的な根拠を持ち得ないという、シンプルかつ普遍的な原理を教えてくれた。

もっともっとたくさん教わった。とても書ききれないことを教わった。

もう鶴見さんはいない。もう二度と会えない。

でも、鶴見さんは星の数ほどの言葉を残してくれた。

だから、それがある以上、鶴見さんはなくなっていない。

今、なくなったのは、鶴見さんに頼ってばかりいた情けない自分だ。

もう亡くなったがなくなっていないのだから、鶴見さんに寄りかかる自分も終わりにしたい。

でも、それでも、苦しくなったり、わからなくなったり、本当に途方に暮れた時には、少しでいいから、また教えてください。それぐらいいいでしょう?

さようなら。鶴見さん。

そして、弱虫の自分よ、もうあと少しだけ泣いたら、さようなら。

2015年7月15日水曜日

言葉にして、肉体を動かした人の意思は簡単に消えません


「どうせ反対したって強行採決されちゃうんでしょ?」という気持ちはよくわかりますが、「どうせ死ぬんだから生きててもしょうがない」なんて思いませんよね。

同じことです。

しかも、反対にも色々なニュアンスがあって、それがこの先無駄になるということは確定していません。

人が「それはいかがなものか?」と実感して、肉体を動かして訴えた時、それは雲散霧消しません。

なぜならば、その後も、私たちには「言葉」があるからです。
「あの時反対したが、ま・た・反対する」と言うための手段があるからです。

まだ今のうちは。

どうせ強行採決されちゃう「のに」ではなく、どうせ強行採決される「から」、あるいは「けれど」、だからと言って「黙り込む理由」もありません。

反対した。
強く反対した。
弱めに反対した。
一生懸命に反対した。
性格に引きずられじんわりと反対した。
静かだが持続性の長い高いカロリーで反対した。
それほど反対の気持ちはなかったが真摯なる態度で反対した人たちを勇気づけようとして反対した。

反対することで自分もこの世界に関わっていることを確認したくて反対した。
私の小さな反対を示す行為を誰かが見てくれて、誰かが「そう思ったらそう言えばいいんだな」と思ってくれることもあるかもしれないと思って反対した。

反対なんて一時の突風のようなもので日本人は忘れやすいから今は辛抱だというおっちょこちょいの政治家が「え?やっぱやばいかも」という気になって、1%の勇気を振り絞って「結論を急ぐべきじゃないと思います」と発言する可能性が今後0%とはかぎらないのだから、三軒茶屋の駅前で反対ボードを5分掲げて反対した。

まだ少し勇気が足らなくて反対したとまではいえない。
子供の顔を見ていたら少し叱られたような気がして反対したくなってきた。
「そういうことには関わるな」とダンナに言われたが「お前も少しは考えろよ」とムカついて反対のカードを作った。

「反対するなら対案を出せ」と言われてちょっと詰まったけど「足踏まれたるのに対案出せはねぇだろ」と思い直して「はぁ?反対する」と突っ返した。

「反対する」理由は、強行採決を止めるためでもあります。
しかし同時に、反対するのは、私たちが「民主社会を生きるために呼吸をしている」からです。

民主政治を「やる」というより、「民主社会を生きているだけ」です。

特別なことではありませんが、止めることはできません。

私たちは、うつむかねばならないことなど何もしていないです。
顔を上げて、今日も1日やるべきことをやりましょう。

2015年7月6日月曜日

「最後に政治家を縛るものは何か?」(ハフィントンポスト)

新しい論考を『ハフィントンポスト』に書きました。

タイトルは「最後に政治家を縛るものは何か?」です。
よろしくお願いします。

http://www.huffingtonpost.jp/kenji-okada/politician_b_7729434.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

2015年6月25日木曜日

「大異も中異も小異も捨てて大同団結する」理由について


 言わずもがなであるが、「戦争は嫌だ!殺したくないし、殺されたくない!」というメッセージと、「やはり何度も考えたが集団的自衛権を日本国憲法の枠内で正当化する論理には無理があると思う」の間には、ものすごくたくさんの問題群や問題の次元の差異や、その他様々なものが横たわっており、その広大なゾーンにあるひとつひとつの問題とそれへの基本的態度は、さほど単純なものではない。

 つまり、若者が国家の周りを取り囲み「戦争法案をつぶせ!」と声をからしている主張の内容となれば、「その前に戦争が道徳的な悪なのか、それとも外交手段の延長上にあるのかの議論は必要ではないか?」という気持ちもある。


 この法案が通れば、教室で教えている学生たちの多くが即徴兵されることになろうとは確実には言えない。

 国際社会が、独立国家の当然の権利として(自然権として)正当防衛的な武力を当然視している中で、専守防衛の軍隊を民主的統制の優れた制度のもとで保持することを、さほどのデタラメとも思わない。平和を原理的に考える次元と、他国との関係を外交的に考える次元はおのずと異なるからだ。

しかし、今猛然とした批判にさらされている政府は、

・世界基準の制度整備が欠けている酷く恣意運用を許す特定秘密保護法を強引に通し、

・永遠に非正規社員から抜け出せない不安を促進させる労働法の改正を完全に雇用者側(経団連!人材派遣会社!)の意を汲んで押し通し、

・教育にひたすら市場原理を持ち込もうとする財界の思惑そのままのデタラメな改革を目論み、

・財政再建などお構いなく株価を上げて企業の内部留保を増やすことで政権の延命だけを目的とするインチキ経済政策を断行し、

・何よりも、言論の府である議会における政治の言葉を腐食・退行させる知的荒廃になんの憂慮も持たない。

 そうなると、「戦争は道徳的に許されません!」という主張には100%は賛同できなくても、「この法案はダメでも、改憲すればそれでいいのかという議論からは逃げられない」という気持ちがあっても、つまりその政治的メッセージの大雑把さに部分的に鼻白むことがあっても、「この政治集団だけにはフリーハンドを与えてはならない」という政治的目標が優先される。

 長々書いたことをまとめる。

 単純ナイーブ(素朴)な政治的掛け声を「政治判断において」支持するが、それは「大異も中異も小異も捨てて大同団結」するという意味であって、本当は個別の問題をきちんと議論したいのだ。集団的自衛権と集団安全保障を区別しないと、国際法や憲法学の専門家とは話ができないし、最高裁が言う「統治行為論」の持つ「政治的機能」についても考慮に入れなければならない。

 だが、この夏、市井を生きる賢明なる市民すべてと、それを全部やっている暇がない。やれる者たちとはやりたい。しかし、議会の延長期間が終わりに迫れば、もはや「政治的決断」を優先するしかない。それがどれだけ微力であろうとだ。

 だからSNSでは、今の総理大臣を退陣させるためならどんなことでも(紳士的に)やる。ラジオにも出て、(品のある一部の局なら)TVにも出て警鐘を鳴らす。

 でもそれは小生の「政治判断」である。思想的判断ではない。

 これが小生の基本のスタンスである。

 安保法制に賛成する者たち、反対する者たち、両方に向けて伝えたい。

2015年6月24日水曜日

沖縄戦70年に思う

 6月23日は、沖縄での第三十二軍の組織的闘いが終わった日である。 すでに70年を経た。
 牛島満と長勇が勝手に腹を切った日だ。 小禄の海軍基地の地下壕で大田実中将が最後に残した打電文に、我々ヤマトンチュはどうこたえて来たのか?

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 自分は、大田中将が自決した海軍地下壕を五回訪れた。そして、その地下壕で大田が何を想ったかを何度も考えた。 首里城の32軍守備隊が敗北した時、「住民は首里城に参集し、皇軍は南下して最後まで闘うべし」と命令すれば、住民の10万人が死なずに済んだと言われている。

 今日の安保法制議論に不可避的に影を投げかけるのは、この時の「軍隊は軍隊を守るのであって市民を守らない」という歴史的教訓である。これは一般論ではない。「あの」皇軍は住民よりも皇軍が生きながらえることを当然の論理として選択したという「歴史的経験」論である。文藝春秋による「安全保障の常識」には書いていない項目だ。

 これがどれだけ戦後70年の安全保障論議の枠付けをしてしまったかを考えねばならない。どうして我々は集団的自衛権を前にしてどうしても一度立ち止まるのか? それは軍人よりも市民が沢山死んだという事実の重さがあるからだ。軍がどうしてさほど整然と国民を守るものだと前提にできるのか?

 もう一度言う。

 集団的自衛権を行使することの是非は、そういう歴史的コンテクストを無視して議論できないのだ。一般論で戦争や国防は語れない。集団だから単独より楽だとか、そう言う話ではない。 沖縄は、そういう過酷な経験と、そこに連なる戦後の苦難を経て、「アメリカに主権を奪われている状態(日米地位協定)を前提にものを考えることは止めた」という宣言とともに、オール沖縄というフロントラインを自生的に生み出したのだ。ヤマトンチュができないことを、苦悩から生み出したのだ。

 これは「沖縄の負担は、日本がアメリカを守る義務を免除された代わりに払う代償である」というロジックでは、永遠に理解できないフロントラインである。いったい誰が愛国者なのか?

  我々は、「カクタタカエリ」とされた沖縄県民の後世に格別の御高配をかけてきたのか?御高配ではなく、なおも積み重なる借財を放置してきたのではないのか? 今年もまた6月23日である。申し訳ない。本当に申し訳ない。 我々は、まだ借財を返済していない。

  行政府の長は、今日、摩文仁の丘のそばでいったい何にコウベを垂れたのだろうか? まさか牛島満という英霊ではあるまい。

  冗談は、6月23日に言ってはならない。

2015年6月2日火曜日

政治は政治。思想は思想。


【政治は政治、思想は思想】基本的なことなので、ここはおさえておきましょう。ポツダム宣言、東京裁判(極東軍事裁判)を受け入れるということが大前提で、日本は1951年にサンフランシスコ講和条約を結んだのです。これは「政治的」判断です...
Posted by 岡田 憲治 on 2015年6月1日

2015年5月26日火曜日

無知より恐ろしい知的不誠実さ


【無知より恐ろしい知的不誠実について】 驚くべき不勉強ぶりを垂れ流す総理大臣だが、それよりももっとこの社会にとって害悪なのは、並外れた「知識のなさ」ではなく、信じ難いほどの「知的不誠実さ」である。 物を知らないこと自体には罪はないし...
Posted by 岡田 憲治 on 2015年5月25日

2015年5月14日木曜日

テレビ局は開局以来権力と闘ったことなど一度もない


日本のテレビ局は、開局以来ただの一度も権力と闘ったことなどない。放送事業の免許制によって総務省に、そして記者クラブにおいて飼いならされているテレビは弾圧されたのか?「言論弾圧だ!」と騒ぐことで、「闘ったことなど一度もないテレビ」にあた...
Posted by 岡田 憲治 on 2015年5月13日

2015年4月26日日曜日

「公」(おおやけ)は「国家」とイコールではありません

【公(おおやけ)の意味をすり合わせないから隣人を友人と気がつかないことになるのです】

 人々が共同で大切にしたいと思うものは、大雑把な言葉を使っていてはなかなか発見できません。他者を重んじ、家族を愛し、地域に根ざし、ある種の共同性なしに自分の人生は立ち行かないと考えるなら、そしてその気持ちを共有しているなら、「公」(おおやけ)というものを漠然と「国家」という言葉に吸収させてしまうことは、非常にもったいないことです。なぜなら、我々にはともに守りたいと思うものがたくさんあるのに、この国家というビッグワードによって、それを協力しながら守ろうという気持ちが削がれてしまうからです。
 国家という言葉の非常に困った側面です。

 以下、私が考える公(おおやけ)の意味を示し、そう考える理由を書きます。

「公」というのは、実体として存在する組織ではなく、だから「国家」などというものには回収されません(そもそも、B・アンダーソンは国家を「共同幻想」としています。国家は「国家・政府機構」だけでなく「そういう大きな括りに守られているんだなと思いたい気持ち」にも支えられているという意味です)。オオヤケとは、様々な個人的世界解釈が出合ったり、ぶつかったり、変わったりすることで、そうした人々の言葉の持つはっとさせられる隠れた力や、思いのほか説得力のない大声や、人々の沈黙の傍らに浮遊する思いなどを発見し、そしてそれら「評価する場所」のことです。
 そしてそのためには、その場に行き交う人々の言葉を受け止め、かつ「過去の人々」である亡くなった諸先輩たちや、これから生まれるであろう者たちの間ですら合意をつくれるような、連帯的で歴史的な意志形成を信じようとする場所のことです。ですから、この場合のオオヤケは「過去と現在と未来を互いに結びつけるための公開性」という意味です。
 オオヤケをひたすら「国家」としてしまうと、非常に大切なことが見失われてしまいます。民主政治の下では「人々の声を集約することで人為的に地理的に一定範囲の国家意志を形成する」のですが、ことにどうしても付随してしまう、ある「危うい現象」への警戒心が下がってしまいます。それは「国家意志が政治家や官僚を通じて、人々から自立・独立しようとする生理」のことです。
 国家は「人々によって意志を与えられ、それが民主的に選ばれた主権となるのだから、国家がオオヤケであるとして何がおかしいのか?」と法律論を根拠に反論されます。法制度の観点からはそういわざるを得ません。しかし、国家は「機構」であり「組織」であり、「意志を政策化するための交換装置」ですから、もしそうした装置が固有の「意志」を持ち始めたら、それは人々の気持ちや意志とは疎遠なものとなってしまう可能性を常に抱えています。つまり、そこに「注意せよ」という札をはっておかないと国家意志を相対化させるための契機が失われてしまうのです。
 「国家の意志は人々が注入したものだが、それが常に人々の考えと一致し続ける保証はない」というのが「法制度」ではなく、「政治的に」デモクラシーを考える大前提ですから、その意味でオオヤケには「常にああだこうだと人々が自由に言葉で行き交える場とチャンス」という役割が求められます。そしてそれを根本から支える原理が「公開性」です。

 これは、私が公を定義する際の最大の理由です。

 ここに照らして、この「公開性」を毀損するもの、阻むもの、障害となるもの、台無しにするもの、言葉、運動、政治が立ち現れたとき、私はこの公開性を取り戻すために言論活動を随時展開します。

 私は、昨今の小林よりのりと政治的に連帯したいと考えますが、ここをきちんと詰めれば、沢山の友人のひとりとなるかもしれません。
 『新戦争論1』を読んで見ようと思います。

2015年4月22日水曜日

私が学生にしつこく「映画!映画!」と言う理由:物語を堪能することで飛び越えられるもの



 政治権力を行使する者の愚劣と横暴をとがめるべき者が、萎縮して戦わなくなり、かつ当人が「居直る」という最強の作戦が展開された時、我々がやるべきことは思いの外たくさんはないかもしれません。居直らない己の側において、「我々にすり込まれたものの脆弱さを確認して自由を確保する」ことかもしれません。

 難しい言い方になっているので、この後「映画を観る理由」という言い方でこれを説明します。

 物語を堪能する際に、私たちは必ず登場する者の誰かに自己を重ね合わせます。「きちんとすること」に少々疲れてしまったときは、車寅次郎の台詞「おじさんにないのはお金。たっぷりあるのは時間だよ」に乗っかって、丸の内のエリート・サラリーマン(もはや半分死語か)の冷たい合理主義に嫌悪のまなざしを向け、ほんわかとした気持ちでエンドロールをながめます。

 こうした「重ね合わせることの容易さ」は、外国の作品を観た時に実感します。自分自身で驚いたのは、高校生の頃テレビの再放送で『コンバット』を繰り返し観ているうちに、自分の大叔父を戦争で殺したアメリカ軍の兵士であるサンダース軍曹やケリーやリトル・ジョンやカービーに乗っかってしまい、「アメリカーナ!」と叫ぶドイツ兵に対して憎悪の感情を持ったことでした。

 クリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』においても、スピルバーグの『太陽の帝国』においても、ぬおっと現れる日本兵の不気味さには恐怖心を覚えます(『太陽の帝国』のガッツ石松は怖かったぁ)。自分と属性を共有する日本兵が異形に見え、気が付くと米英陣営に心理的に寄り添っているのです。

 これを「名誉白人意識」と切ってしまうと、この話は終わりです。そうではなくて、自分の帰属する「ナショナルなもの」とは、かように根拠が弱く、いとも簡単にその境界を行き来してしまえるものだということを確認したいのです。「日本国籍の在日日本人」というあり方は、もっと身体の奥に刻み付けられているはずだと多くの人は思います。しかし、日本サイドから描いた『硫黄島』を観た直後に『父たちの星条旗』を観ても、たやすくこれが起こります。硫黄島でゲリラ的に抵抗する日本兵は本当に怖い。そこに自分の縁戚の兵士がいたのかもしれないのにです。

 物語を堪能する、物語を享受する際に必ず通るプロセスとしての「誰かに自分を重ねる」というものが持つ、大切な副作用です。

 私のFBでの映画レビューは、フォロワーや友人、そして学生に向けて「意図的に(もちろん!)」アップされています。それは、この物語性と現実との位相の交差に直面し、人間の身体性を感受するための多様な刺激と視角を沢山経験することで、そこになんらかの「心身ともにこびりつき、良し悪しともにそろった政治性」というものを突き放す契機を共に見出したいからです。

 やはりカタいのので言い直します。

 物語を堪能することで、良い意味での「自分は何ものでもない」という境地に至れる。そのために私たちには映画が必要だ・・・ということです。

 だから井筒監督の『パッチギ』の持つ物語に乗っかったものは、韓国人も朝鮮人も在日の人々も、みな好きではないと思っていても、気が付くと主人公のアンソンやキョンジャの側に立って、「イムジン河を歌うな!」とわめく京都のラジオ局のおっさんを大友康平がシバくシーンで喝采するはずです(しない人もいます)。

 もし、『パッチギ』を観て相変わらず「在日特権許すまじ」とか思っている人がいたら、その人は物語を堪能したのではありません。最初から、政治的慣性に加力する目的でプロパガンダを観たのです。

 映画を観ましょう。「この映画は反日だから」という理由で公開作品がフィルタリングされつつある悲惨な国にあって、そこそこの数の物語を堪能できる時間は余り残されていないかもしれませんから。

2014年11月21日金曜日



【選挙という政治に向けて:感情と論理の往復】


 政治が、ある種の価値観に依拠して、いずれかの決定を「選択する」という営みである以上、そこには何かを選択する時の動機がある。そして、その動機の中でとりわけ強い起動力を持っているのは、言うまでもなく「感情」だ。「外国人に参政権を与えることに反対する」という判断や決定は、その動機をたどっていけば、「あんな(中国人や韓国人みたいな奴ら)なんかにでかい顔して選挙になんか行かせるなんて絶対に嫌だ!」という感情が機動力になっていることが多い。よく「感情を抜きにして考えよ」という諌めの言葉があるけれど、人間は感情を完全に排除して価値を選択することなどできない。


 だから、ある政党や政治勢力を応援しようと「選択する」際には、そのプロセスには間違いなく「感情レベルのエネルギー」が関わっている。時として火の通っていないレアな言葉で表現される主張に、いささか品のなさを感じて、「そんなのただの感情じゃないか」と批判するのは簡単であるが、それがエネルギーである以上、あるいは政治的判断が「そこから始まる価値選択の旅」だと考えれば、感情があって当然だ。そこを認めないと政治のエネルギー出所を軽くみるという過ちにいたる。

 でも、政治的判断には強い感情がありさえすれば良いという話ではない。問題は、「感情」をほどよく整形して、洗練されたものにしているかである。荒々しい独りよがりな表現を削ぎ落として、友人と共有できるような「話の筋道」にするという作業が、どれだけ繰り返し丁寧になされているかが肝心だろう。つまり「感情と論理の往復運動」だ。

 感情をエネルギーにしていない論理は、他者に訴える言葉のスタミナが乏しく、かつ人間の生活背景に根ざさないから、ただの冷たい合理性だけになりがちだ(「結局、物の値段は需給関係で決まりますから、市場が「電気代は月額平均10万円」と答えを出せば、それを受け入れるしかないでしょ?」等)。それは人々に支持されないだろう。

 しかし、逆に「感情だけ」で価値選択をすると、それはただの「好き嫌い」となる。カレーよりハンバーグの方が好きだという話だ。本人にとって、政治的選択が「別に好き嫌いで良くねぇ?」なら、それを非難する権利は誰にもない。その時は、「キムチ臭ぇ民主党マジカンベン」、「キモい安倍滅べ!」等、最低レベルの物言いが、民主政治の焦土を荒れ狂う。暗黒の一歩手前である。

 でも、もし民主政治の基本を、「最高の選択を夢想するのではなく、最悪の結果を避けるための大人の友人作り」であると考え、今のところそれ以外に、弱く無力な自分たちは社会を維持できないという普通の認識と感覚があれば、我々にはそのための「言葉」が必要となる。「最高の政治家」が地上にいないから政治なんて意味がないと考える者を「こども」と呼ぶからだ。大人は、最高の隣人がいなくても人生は続くとわかっている。
 

 この時、「オレ的にはちょーカレーがヤバい」などという赤ちゃん言葉や、「でも所詮あいつら半島や大陸贔屓のリベサヨでしょ?」などという野卑で無教養な言葉で感情を吐露しても、それは「排泄行為」という個人の営みとして軽蔑を受けるだけである。そして、友人となりうる可能性のあった人々の気持ちを遠ざけてしまうだろう。「嫌いな物は共通してるけど、その言い方が嫌だな」と。

 もし自分は部屋にひきこもるシニシズムでよいと思うなら、この話は無用である。

 しかし、「政治において無力なオレ(アタシ)には友人が必要だな」と思うなら、感情を起動力にしつつ、「友人に届く言葉」(つまり「論理」)をそろえようと立ち止まり、そしてもう一度エネルギーの確認のために感情に立ち帰り、それを繰り返すことによって「自分の好き嫌いと、偏見と、価値選択は何に根ざしているのか」を確認することが、明日につながることになる。

 一年前のブログで、私は「三年などあっという間にやって来る」と書いたが、二年で選択の機会がやって来た。これから選挙が始まる。各々の価値観に基づいて「選択」という名の政治にコミットするシーズンである。我が儘で自由を欲する複数の人間で構成されている社会を生き、それを維持したいと思う以上、「こういう社会を維持したい」と価値判断する「政治へのコミット」は特別な人間がやる特別な行為ではない。肺呼吸と同じである。

 自民党がなんとなく安心な気がしても、強い軍隊の存在が弱い自分の心を支えてくれるような気がしても、とにかく生理的に民主党を蛇蝎のように嫌いでも、維新の会のヤンキー臭が好きでも嫌いでも、共産党に清新さを感じても、同時にその独善性にイライラしても、なんでもよい。つまり、政治の機動力としての「感情」があるならそれは何でもよい。政治のエネルギーの一つだからだ。
 

 ただ、その「感情」がどこに根ざし、どこまでは手放すことができ、どこまで以上は認められないと考え、何を守りたいのかを丁寧に考えた後、そしてそれらを「友人を作るための言葉」へと翻訳できるなら、それを発するための制度がきちんとはたらくことを前提に(メディアの力!)、私たちは民主政治の最低基盤を何とか維持できるのだと思う。

 心が荒むと、自分でも感情が先行するような物言いになりがちである。少々ささくれ立った物言いをして来たこともふり返り、言論人として自戒を込めて、ここにあらためて基本を確認したい。

 民主政治をよしとするならば、大人の友人作りのための言葉を紡ぎ出そう。

 即効性はないかもしれない。しかし、私は即効性のあることを言えないので、自分が大切だと思うことを、多くの人に伝えたい。

                               2014.11.21
 

2014年8月28日木曜日

それでも今、政治と向かい合うために

過日、8月22日に北海道新聞「各自核論」に寄稿したものです。
「それでも今、政治と向かい合うために」

自分の書いた原稿ですが、掲載に問題があればご連絡下さい。

2014年6月1日日曜日

「政治は特別な活動ではない」という本を書きました。


 このたび、明石書店さんより、新著を上梓する僥倖をいただきました。タイトルは『ええ、政治ですが、それが何か?』です。

 私は、これまでに広い意味で政治に関する一般書を数冊書いてまいりました。『言葉が足りないとサルになる』(亜紀書房)では、「政治以前の言葉と人間の思考の関係を、『静かに「政治」の話を続けよう 』(亜紀書房)では、政治を語る15の言葉の切り分けを、それぞれ志向して来ました。
 今回の愚著は、その中間に位置する、すなわち正面から「政治とは何か」という問いに答えようとするものです。「何か?」という問いからは、本質を問うというニュアンスが濃厚に感じられますが、この本で私が目指したのは、一言で表現すれば以下のことです。

 「政治を特殊な人々による特別な活動と決めこまず、各々の関心と切実さに応じて、世界を理解する価値観を言葉で他者に伝えんとする者は、すべて政治的な人間であり、それは人が他者と共に生きることと同義である」。

 「それはおかしい」、「こんなことは受け入れられない」、「あんな人に好きにさせてはならない」、あるいは「そういうメッセージを送りたい」、「こんな世界を皆と共有したい」、「あの人を皆に知らせて応援したい」・・・これらのことを言葉を通じて他者に伝える行為はすべて「政治」です。

 一見、政治にかかわる言葉がたくさん行き交っているように見えても、じわりじわりと物を言うことが萎縮し、上っ面のパッションや大雑把な思い込みによる、政治に関する粗暴な言葉がまき散らされているこんな時代だからこそ、「政治は特別な活動ではなく、最後まで言葉で自分の世界観を部分的に開示することである」という理解で、多くの人々の言葉を引き出そうと思いました。

 勇ましい言葉で大雑把に世界を語る政治家にぶら下がるのではなく、関心と切実さに応じて自分も舞台で踊る役者と自覚し、人々を勇気づけるメッセージを発してもらいたく、この本を書きました。

 一人でも多くの皆さんに、私のメッセージを届けたいと思います。

 よろしくお願いします。

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以下、詳細な目次です。



『ええ、政治ですが、それが何か?』


はじめに


第Ⅰ部 出発点を確かめる――政治的人間の諸条件

1.政治の味方をしてみたい
 ○私たちはすでに政治的である
  何とも可哀想な政治だこと
  政治をめぐるたくさんの“K”
  少し考えればさほど特別なことでもない政治
  誰もが政治の舞台にあがる役者である

2.政治を考える大づかみの定義
 ○不完全な私たちが価値を選択して伝えるということ
  統一的定義が存在しない「政治」
  政治を生きる人間に与えられた条件と限界
  国籍を選択するのは「政治的」判断である
  ランチメニューを選択することとの決定的な違い


第Ⅱ部 思い込みをとく――政治の4Kからの解放

1.政治は暗くて汚い? 4Kの1
 ○命と嘘と政治
  政治は暗くて汚いのに週刊誌はなくならない
  政治は「意に沿わない人たち」を生み出す
  政治はすべての問題を扱わざるを得ない
  政治は道徳と比較されてしまう
  「嘘はつけない」と辞めた女性閣僚
  立法府のメンバーと運動家の違い
  特別の基準が必要な政治家
  それでも残る「嘘」の問題

2.政治にはカネがかかる? 4Kの2
 ○カネで何が失われるのか?
  いったい何が本当は問題なのか?
  真面目に議員をやれば普通にこれだけかかる
  まだまだかかる出費
  「カネ」ではなく「ヒト」がものを言わねばならない
  昭和の噂話
  カネで動いて言葉が失われる地獄

3.政治は偏っている? 4Kの3
 ○無色無垢の安全地帯は存在しない
  この世に政治的中立地帯などは存在しない
  両端次第で真ん中はいかようにも変わる
  メディアは完全なる公平など実現できない
  「中立性=公共性=非政治性」という誤解
  普通の人は「特定の思想」などは持たないという前提
  正邪と真善美の基準を体現する「お国」という考え
  政治的判断とは「国家の判断」のこと
  「投票しないこと」=「脱政治」ではない

4.政治なんて関係ない? 4Kの4
 ○政治とのかかわりと政治参加のヴァリエーション
  関係の自覚と「切実さ」
  政治と個人のかかわり方には9つのパターンがある
  政治は町会や職場や教室にもある
  政治エリートとの関係をどう考えるか
  政治エリートをきちんとフォローするという間接的コミットメント


第Ⅲ部 イメージを広げる――あのときのその人たちの格闘

1.政治とは「正しい世界を作ること」である
 ○正義の実現としての政治
  「正しい世界」のための政治
  古代アテネの理念とソクラテスの死
  プラトンがたどり着いた正しいアテネを作る「哲人王」という発想
  「ないけれどあるもの」というイデア論
  長く続いた黒人差別の克服
  ブラウン判決と公民権運動
  差別と貧困という宿痾との闘い
  「正義の実現」という視点の危うさ

2.政治とは「自分で秩序を作ること」である
 ○作為としての統治
  政治的秩序とは何か?
  「神の創造物」から「世界にはたらきかける個人」へのイメージ転換
  戦国イタリアとマキャベッリの苦悩
  『君主論』に託した政治の本質
  原発をめぐる政治をマキャベッリならどう見るか
  現実を動かすための知恵と工夫
  自己肯定と他者への信頼がリアリズムを支える

3.政治とは「自分たち自身を支配すること」である
 ○自治としての政治
  矛盾する二重の立場を生きること
  市民革命と長い習慣の終わり
  不条理を受け入れる唯一の条件は「合意」である
  ホッブス:人間は最後まで殺し合わないように最高権力を約束して作る
  ロック:人間は公平な利益の調停人になれず最高権力を約束に基づいて作る
  ルソー:人間は契約し己を全体に譲渡しみんなと一つになり真の自由となる
  合意には必ず無理が含まれているから約束は定期的に確認されねばならない
  自治とは覚悟を持って失敗を振り返る学習と訓練である

4.政治とは「戦いの勝者による支配」である
 ○闘争としての政治
  有無を言わせぬ原理
  二人のカールとその政敵
  根本から相容れない者同士としての階級
  労働者を懐柔する資本家
  本当の政治とは社会基盤をめぐる闘争である
  政治的なるものとは「友敵関係」である
  独裁擁護とその政治的帰結
  調停し得ぬ対立
  二一世紀における負の遺産

5.政治とは「これが現実だとさせること」である
 ○現実観の統制としての政治
  言うことのきかせ方――広義の権力
  人はなぜ自発的に支配を受け入れるのか
  民主政治における自発的参加と関与
  現実という化け物
  言葉が減らされた世界を描いた『一九八四年』
  直面する「現実」と政策判断
  「原発が止まると日本が止まる」という現実認識
  最低コストを可能にする「沈黙の調達」


第Ⅳ部 政治を救い出すための言葉――振り返りと未来へのまなざし

1.政治を立場に応じて使いまわす
 ○私たちにできることとできないこと
  政治の言葉を増やしイメージも増やす
  イメージが増えるとは現実が増えること
  それぞれの居場所で考える
  頑張ればできる「呼びかけ」:「動く羅針盤になる」ものとしての政治
  少し頑張り「友人を作る」:「仲間作り」としての政治
  主体的には動かないが最悪をさけるために「力を貸す」:「力添え」としての政治
  何もできないが「居合わせ見守る」:無力な者ができる「励まし」としての政治

2.主体的選択により生まれるもの
 ○自分の頭で考えて決めて覚悟すること
  「選んだのだから引き受ける」という覚悟
  「おまかせ」時代の終わり
  「選択」をせずなし崩し的に流された戦争指導者たち
  「政治的意志」の自覚も「責任意識」もなかったエリートたち
  政治的意志とリアリズムがもたらすもの

 おわりに
 より深く政治を学ぶためのブックガイド
 あとがき

2014年5月15日木曜日

2013年12月20日金曜日

「政治のアマチュア」とは何か? 

 東京都知事が辞任を表明した。あのようなデタラメな言い訳が通るわけもなく、多額の金を不可解なやり方で出し入れし、種々のルールに抵触する可能性があり、かつその説明も不十分である以上、致し方なしというところである。
 しかし、どうにも気になるのは猪瀬氏が記者会見で何度も使った「アマチュア」という言葉である。
「政策にかなり精通していると思っていた。だが、政務についてはアマチュアだった。・・・プロフェッショナルな政治家という意味では失格だが・・・」(記者会見より)
 あらためて考えたいのは、「政治のアマチュア」、「政治のプロフェッショナル」とは何なのかという問題である。

 氏の発言の含意を読み込めば、要するに自分は「ゼニカネの出入りを突っつかれるようなことにならないための上手な金扱いのノウハウに無頓着な政策一辺倒の改革者だった」とでも言いたげである。ここでは、アマチュアとは「汚らしいものを扱うときの注意書きをよく知らなかった未熟者」であり、逆にプロとは「どういうことをすれば、汚い問題をやり過ごすことが出来るかを微に入り細に穿って(びにいりさいにうがって)知りつくした手だれの大人」ということになる。もう少しはっきり言ってしまうと、猪瀬氏は「5000万程度の金で足下を掬われるマヌケ」=アマチュアということになろう。

 大人の世界で生きていれば、嘘も方便として、汚いものを上手に処理する手さばきが必要なことぐらい誰でもわかっている。問題は、それが波紋を呼ぶようなことにならないための周到な工夫を用意したのかどうかだとされる。「世間知」とでも言うべきものかもしれない。

 しかし、我々はこうしたことを前提に、未来の大人達である若い者に「つまりそれがプロの政治家というものなのだ」と、したり顔をして説明すればそれでいいのだろうか?政治は汚い。しかし、大人はそもそも汚いのだ。だから、子供じみた非難や中傷や大騒ぎに巻き込まれないために、上手にやれる大人にならねばならぬ。そしてそういう能力の高い人間を政治家として送り込むのが「成熟した社会」なのだと。そういう説明で「アマチュアかプロか」を次世代に伝えれば、それでいいのか?お前らも早く大人にならねばならぬなのか?
 
 私には、どうにもそうは思えない。違和感が残る。

 ただ、五十面(づら)をぶら下げて、猪瀬氏を道徳的に糾弾するべきだという主張をしたいわけではない。
 政治は、そんなに「汚物処理」のような賤業的人間の営為なのか?それではあまりに切ないではないか?だから、「プロフェッショナル・ポリティシャン(ステーツパーソン)」に付与する、その意味内容をもう少し救われる、もっと真っ当なものを盛り込むための言葉が欲しいということだ。これは言うまでもなく「政治とは何か?」という根源的問題への手がかりである。


「猪瀬は下手を打ったんだよ。ばっかだなぁ。所詮は作家風情だよな」というたちの悪いカタルシスこそ、我々をますます暗くさせる、大人の締め言葉なのだと思うのである。

2013年12月7日土曜日

祭りの後にするべきことについて 〜大切なこと3つ〜



 デモクラシーと憲法の根っ子をダメにしかねない法律が昨日成立した。ものを書く人間にとっては、昨日までの世界と今日からの世界が変わってしまうほどの大変なルールの変更がなされてしまった。怒りと情けなさと失望で少々無口になりかけている。多くの友人たちが元気を失っているようにも感じられる。当たり前だと思う。それが自分の頭でものを考える者たちの普通の反応だ。
 しかし、この2週間あまりの日々に、何かがおかしいと思い始めた人々が急速にその気持ちを増幅させていき、街頭に出て、立ち話をして、キーボードを打ち、人差し指で文字を送り出し、危険を伝え合った。大変な数の人々が肉体を動かして、「おかしなことになりかけている」と声帯を震わせた。日比谷公園に、ものすごい数の人々が集まった。永田町周辺も、どうにかしたい、なんとかしたいという人々が集まった。そこには大きな高揚感があったと思う。
 私たちのほとんどは、職業政治運動家ではないから、軍隊のような行進はできない。だから、怒りと憂慮でこわばる心を緩(ゆる)めるように歌い、話し、歩き、呼びかけ、声を出す。それにはいくばくかの祝祭的要素が必ず含まれている。そうでないと生きていけないからだ。それを見て「絶叫はテロだ」と自称職業政治家が言った。そして人々の心をこわばらせているのが自分たちだということを等閑に付し、なおも人の気持ちを縮こまらせようとした。
 だから言い返した。祭りで何が悪い。祭りは、人間の無力をサポートする何かを呼び起こすのだから、力を得たい、なんとかしたいと思う者は祭りをするのだ。「祭りなどくだらぬ」と、過去に生きた人々、今を生きる人々、未来の人間に貴方は言えるか?世界を畏怖する以上、私にはそんなことは言えない。言えるはずがない。
 しかし、祭りの高揚感の後には「心の二日酔い」がやってくる。昨日はよく呑んだなぁ、久しぶりに聞こし召しましたなぁ、ああ、もうしばらく酒なんかのまねぇぞなどと、脱力している。酔って口に出してしまった死ぬほど恥ずかしい言葉が鈍頭痛の合間をぬってハウリングする。心のある部分が開いてしまい、制動されそこなって、呆然とするような振る舞いをしたことも、古いモノクロームの映画のようにフラッシュバックしてくる。疲れた身体でつぶやく。
 
 「ああ、なんかが終わっちゃったなぁ」と。
 
  終わってなどいない。世界は「まだ」ギリギリで何も変わっていない。

 何も終わってはいない。これから始まる。私たちは、自由にものが言える世界をすでに疑う余地のないものと高をくくり、冬の日向ぼっこをしながら享受できると思い込んでいたが、そうした世界は「ものを言い続けなければ保つことができない」ということに気がついたと思う。あんな安易に、あんなにあっさりと、あんなに短い時間で、自由にものを言い、自分の頭でものを考えるための基本のルールが変更されてしまうのだということに気がついたと思う。しかし、途方に暮れている。で、どうすりゃいいの?と。
 
 だから私はここで、祭りの後に何をしたら良いのか、でもじゃあどうすればよいのか、そんなこと言われてもと途方に暮れている友人達に伝えたい。祭りの後の気だるさと脱力の中で何をするべきかを共有したい。

 大切なこと「その一」

 少々ささくれ立った「怒り」を、やや温度の低い「鋼(はがね)のような意志」へと変形させて、それを長く継続させる方法を習慣化させよう。ハートは熱く頭はクールに。
 そのために暮らしの中で感じた「異変」、「奇妙な変化」をひたすら記録しよう。

 「実におかしなことになってしまったではないか」という気持ちを持続する方法を考えることが必要だ。人間は全員上手に忘れる生き物として創られている。それは人間が様々な苦悩の中で完全につぶれてしまうことを防ぐ装置だが、同時に加速度を付けて過去を「既成事実(すんでしまって今さらどう仕様もないこと)」へと決めつけてしまう厄介なものだ。
 忘却し「ああ、あったよねぇ、秘密保護法、チョー盛り上がったよね」となり易い私たちを、どこかでせき止めるための工夫を考えねばならない。
「今までは問い合わせれば教えてくれたことを教えてもらえなくなった」とツイートする。
「調べものをしても、肝心な情報が出てこなくなった」とメモする。
「福島第一の様子が変だとツイッターが言っているけど情報が出ていない」とFBに書く。
「酷いことが起こっているのに、何故か皆が無口になっているような気がする」と話す。
 SNSは、日々の記録をデータベース化させるのに絶好のメディアであり、記憶装置である。

  大切なこと「二」
  
「あいつが悪い」と言う代わりに「こいつは我々の力になる」と言って友人を探そう。

 大切なことは、大きな悪の根源を「あいつのせいだ」としないことである。巨悪は、巨大なる悪を懐に抱えた強靭なる悪人によってもたらされるのではない。巨悪は、我々の怠惰と迂闊と油断を素とする小悪と微悪が集積してできるものである。だから「アベイッテヨシ!」と溜飲を下げるのは、明日に結びつかない迎え酒である。悪夢のようなアベは、七変化となって後から絶え間なく立ち現れる。そして、それは我々自身の何らかの幻影かもしれない。
 「あんなデタラメな法律に投票した自公と裏切り者のみんなの党と維新は許さん!ではなく、我々のボロ議会にも、議会人の良心を必死に維持した者たちがいたよ」と言い換える。
 「掲示板やツイッター見てるともう反吐がでそうなネトウヨがいる。あいつらは人間じゃないよ!ではなく、自分の頭でものを考えている人たちが他にもこんなに大勢いるではないか」と再確認してみる。
 「どんな時代どんな問題においても、問題があることすら気がつかない悪意なき人々が3割は存在するのが人間の世界であるという健全なペシミズムを持って」、諦めるのではなく「落ちついて」みる。
 「マスゴミという大雑把な言葉は捨てて、自分で考えたり、ものを書いたりする者はみな我々の友人足りうるのだから、横並びの関係で悪口を言うのはやめよう」と決心してみる。
 「だからあの時あれだけ言ったではないか!という口上は、後になって問題に気付いた友人達には決して浴びせず、一緒にもっとたくさんの友人に知らせよう」と誘ってみる。
  我々は闘う相手を間違えてはいけない。つまらない内ゲバは力を低下させる。
 「バカ」と言わずに、でも、それでも言いたかったら「残念です」と言い換えよう。

 大切なこと「三」
 「あっという間に3年ぐらい経ってしまう」という当たり前のことを思い出そう。
 今から3年前がどれだけ近い過去であったかを思い出した時、衆議院の任期満了が瞬き2回ぐらいでやって来ることに気がつく。3年前の201012月とは、震災の数ヶ月前である。暦の上「でも」もうディッセンバーと、裏声で歌ってみる。もう選挙は始まっていると考える。
 これほど迂闊で、粗雑で、杜撰で、前のめりになっている政権は、今日から任期満了になるまでに、必ずいくつかの致命的な過ちを犯す。議会が解散されないという保証も無い。
 ワールドカップを見て元気がついたら、次の選挙は目前である。人生は速い。

 まとめてみる。
 「おかしな出来事を記録する」
 「罵らず、友人を作る」
 「チャンスはすぐにやって来ると信じる」

  祭りの直後に、これだけのことを生活において習慣化すれば、我々は必ず世界を修正できる。ただし、やり「続け」なければならない。私は、今日からそれを始める。多くの人のおかげで高い教育を付けてもらった。だから恩返しのためにも頑張る。

2013127